2020/11/23

ゲンイ  
沖浦氏の今朝のコメントには少しインチキ臭いところがある。これを御書講義で発表するらしいのだが、恥をかく前に一つ進言しておきたい。

 これを因果具時と言います。
 具時ですから、因と果は同時なので、前世の宿命に左右されないのです。


上掲の直前には九識とか八識とか、わたくしにはあまり馴染みのない語彙が並んでいる。問題はこの続きである。沖浦氏は佐渡御書を引用した上で次のように書いている。

 日蓮は此の因果にはあらず!!!!!!!!!!!

雰囲気的には、大聖人の仏法は常の因果とは異なって、過去の罪障を忽ちのうちに消滅させることができる、と言いたいようである。いや、前世の宿命に左右されないと言っている意味からすると、最初から罪障なんかないに等しいと言っているようにも思える。

しかし、もしそのような意味を言っているのだとしたら、それは飛躍だろう。

平成新編の表記は以下の通りである。

・・・是は常の因果の定まれる法なり。
 日蓮は此の因果にはあらず。法華経の行者を・・・


御書全集は以下の通りである。

・・・是は常の因果の定れる法なり、日蓮は此因果にはあらず法華経の行者を・・・

全集がいかに読み難い表記になっているか一目瞭然であるが、それはまた別の話である。むしろ逆に、「あらず」で終わる文章ではないことを知る意味では、全集のほうがわかりやすい。しかるに沖浦氏はそこで引用を打ち切っている。意図的にやっているのかどうかはわからないが、ここが問題なのである。

 疑って云はく、いかにとして、汝が流罪・死罪等を、過去の宿習としらむ。

開目抄からの引用である。沖浦氏引用の佐渡御書はいわば開目抄のダイジェスト版のような意味がある。特に上掲の一段は氏の引用部分と対応するので、よく読んでみるべきだろう。

又法華経の行者の首を刎ねること其の数をしらず。

誰が? 大聖人がである。

いわゆる因果応報は誰もが知るところであって、特に仏法の世界では常識である。佐渡御書に戻って、いちばんわかりやすい例を示せば、次の一節あたりだと思う。

我人を軽しめば還って我が身人に軽易せられん。

これは常の因果の定まれる法である。では大聖人の場合はどうか、そこが問題である。状況としては、竜の口の大法難を経て、今は極寒の佐渡に住せられているのだ。

引用は省略するが、世間の失は一分もない、とまで仰せられている。

つまり、今度の流罪・死罪は常識の範疇を大きく超えている。ゆえに大聖人は、これは常の因果ではない、そんな半端なもんじゃない、もっと凄まじい因果なのだ、と仰せられているのである。

以上、かなり端折った説明ではあるものの、全体的な文脈は掴めたはずである。

沖浦氏はすでに独自の仏法観ないし大聖人観を持っている。もしくは創価学会で教えている仏法観・大聖人観があって、その影響を受けている。別のコメントでは演繹とか帰納とかを云々していたが、結局のところは自分の結論に基づいて御書を解釈してしまっているのが実情だと思う。それを演繹と呼ぶのか帰納と呼ぶのか、不勉強のわたくしにはわからないのだが、平たく言えば、結論ありき、ということだろう。

いや、もちろん、それでいいのかもしれない。

沖浦氏がしばしば言っている内部規定というヤツである。日蓮正宗はもちろんのこと、顕正会もそうであるし、しょせんは創価学会も同じである。その組織独自の内部規定を基準に御書を読んでいるに過ぎないのである。

ただし、原意と異なった解釈をするにしても、原意を知った上で応用的にやっているのと原意を知らずに勘違いしているのとでは、かなり違ってくるはずである。

いちおう、前者のほうがマシであり、後者は恥ずかしいとするのが一般である。

だが、しかし、逆もまた真なり、である。

いわゆる前者は邪智、後者は無智とされる。大聖人によれば後者のほうがマシの場合もあるのだ。

ゴチャゴチャとややこしい書き方をしてしまったようである。

話を戻して、各教団ごとの教義信条に基づいて御書が読まれている現状は、致し方のないことだと思う。ただし、原意から大きく逸脱してしまうと、後々、困る事態が発生する。教団運営者はそこに留意する必要があるだろう。わたくしに指摘されてタジタジになってしまうような事態だけは避けなければいけないからだ。


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