2021/1/18

ジュエキシャ  
前回の拙稿に対して晃氏から懇切丁寧なコメントを頂戴した。一方の沖浦氏は拙稿をしっかりと読み込めていないらしく、かなり脱線したコメントになっている。穿った見方をすれば、沖浦氏の顕益・冥益についてのコメントは創価学会の公式見解を否定することになりかねないので、それに気づいて議論をはぐらかしているのかもしれない。

今、大急ぎで「冥益」を検索したところ、その上位には創価学会の公式サイトであったり、創価学会系のブログなどの記事が出てきた。その中に宗門の記事が少し混じっている感じである。そのいずれもがほぼ同一見解だった。教行証御書を引用している点も共通である。

わたくしの懸案は、御講聞書との齟齬に言及しているサイトが存在するか、だった。少なくとも検索上位には見当たらなかった。

その意味で晃氏のコメントはひじょうにありがたいものだったが、やはり晃氏も明確な結論を持っているわけではなく、あれこれと試行錯誤している様子だった。

今末法には初めて下種す、冥益なるべし。・・・冥益なれば人是を知らず見ざるなり。

改めて教行証御書を引用した。これに対して御講聞書では次のごとく御指南あそばされている。

本化の菩薩は顕の利益、迹化は冥の利益

沖浦氏の発見である。氏は日蓮正宗を批判するつもりで、末法は冥益だから功徳がすぐに出なくても仕方がない、というような言い訳じみた解釈を否定したわけである。何しろ上掲のごとく、ハッキリと顕の利益とあるからだ。

わたくしはこれを踏まえて教行証御書を解釈し直す必要があると思った。

今末法に入っては教のみ有って行証無く・・・

これは冒頭の一節である。そして最後、結論部分には次の一節がある。

又已前の重、末法には教行証の三つ倶に備はれり。

これらを総合的に考えると、妙楽は冥益だと言っているが実は顕益なのだ、と解釈するのが妥当だろうと思った。これが前回の結論である。

ややこしくて恐縮だが、今はまた別の考え方に傾きつつあって、ネット上に出てくる創価学会系ないし宗門の見解もあながち間違いではないと、少し思い直している段階である。

教行証御書単独で考えると、末法は教のみあって行証がないとされているが実は教行証の三つが厳然と備わっているのだ、ただし妙楽が言っているように冥益だから見えないし知らないだけなのである、というまとめ方が可能になる。それほど無理な解釈ではないし、宗門や創価学会の見解もこれに準ずるものである。

では御講聞書の御指南はどうなるのか?

我々は功徳を受益者の立場で語るし、その立場からしか捉えていない場合が多い。だから見誤るのだ。

 今末法の初め、・・・迹化の四依は隠れて現前せず、・・・此の時地涌の菩薩始めて世に出現し・・・

本尊抄をかなり端折って引用した。

四大菩薩の此の人を守護したまはんこと・・・

同じく本尊抄である。そして次は撰時抄の末文である。

霊山浄土の教主釈尊・宝浄世界の多宝仏・十方分身の諸仏・地涌千界の菩薩等、梵釈・日月・四天等、冥に加し顕に助け給はずば・・・

御本尊には十方法界のあらゆる要素が詰まっている。そこには迹化の菩薩も含まれる。よって末法には無縁とされる彼らも、実は冥々の力用を発揮しているわけなのだろう。

本化の菩薩は顕の利益、迹化は冥の利益

以上、御講聞書の御指南は利益を受ける側ではなく利益を施す側の視点で考えれば、まさしく本化の菩薩は出現するわけだから顕の利益、迹化の菩薩は隠れて現前せずだから冥の利益となる。つまり、教行証御書とは次元が異なる話なので、一概に矛盾していることにはならないのだ。

2021/1/14

カンコドリ  
沖浦氏による一連の御書講義が終了して、拙ブログも閑古鳥が鳴くようになった。そこで講評と言ったら上から目線が過ぎるかもしれないが、氏の講義について振り返ってみようと思う。

細かい点では間違いだらけだった。特に因果倶時の一件が象徴的であり、どなたかが沖浦氏の頑迷さを指摘していたくらいである。

因果倶時・不思議の一法

当体義抄の有名な御文であり、おそらくは久遠元初について論ずる時に必ず引用されるくだりのはずである。これを沖浦氏が知らなかったことには驚いた。ある意味、教学の奥深さをあらわしているのだろう。かく言うわたくし自身にだって同様のことがあるはずで、そんなことも知らなかったのか? と言われてしまうような事案がいくつもあるに違いないのだ。だからこそ謙虚さが大切なのである。

蓮華と申す花は菓と花と同時なり。

上野尼御前御返事である。相手によって表現を変えている。当体義抄は法門書であり、当然ながら専門用語がたくさん出てくる。一方の上野尼へは平易な表現で認められているが、意味は同じである。

ここでわたくしの思考プロセスを開示しておくと、さすがにすべての御書を記憶しているわけではないので、御書検索を使って調べている。上掲の場合、そのような御書があったことは記憶しているものの、どこにどのような語句で存在するのかわからない。最初のうちは「華果」で調べていた。しかし、これでは見つからなかった。何しろ華ではなく花であり、果ではなく菓だからである。こうしたアイマイ検索も可能になれば大したものであるが、わたくし自身はプログラムを組めるわけではないので、そうした便利なソフトが出るのを待つしかない。ともかく語句をいろいろと入れ替えて検索していくうちに、どうにか上掲の御文を見つけることができた。これが拙ブログの舞台裏である。

ちなみに因果倶時も同様の方法で調べたわけだが、ここで一つのワナにハマってしまった。ワナは大袈裟かもしれない。灯台下暗しと言っておく。

此の華草、因果倶時なること妙法の蓮華に似たり。

実は当体義抄の続きの御文に出てくる一節なのである。己の不勉強を痛感する次第である。

さて、ここまでは沖浦氏のデタラメな点を指摘してきたわけだが、ここからは評価すべき点を挙げたいと思う。まず言えることは、あの創価学会ですら一度もまとまった講義書を出版したことのない御講聞書を、全編にわたって講義した事実である。クオリティはともかくとして、それをやり遂げたことに意義があるのだ。

具体的には教行証御書との矛盾点に着目したことが最大の功績かもしれない。

一 妙楽大師の釈に末法之冥利不無の釈の事

御講聞書の一段であるが、この段の結論部分は次のごとくである。

仍って本化の菩薩は顕の利益、迹化は冥の利益なるべし云云。

では教行証御書はどうなっているのか、ご覧いただこう。

今末法には初めて下種す、冥益なるべし。・・・冥益なれば人是を知らず見ざるなり。

矛盾しているように見えるが、いかがだろうか?

この場合、短絡的にはどちらかが偽書になるわけで、もし教行証御書が偽書であれば他門はいざ知らず日蓮正宗系における冥益の捉え方は間違っていたことになるのかもしれない。ただし、それはあくまで短絡的に考えた場合であって、二つの御書を整合させる解釈も十分に可能だと思われる。略して申し上げれば次のごとくである。

妙楽の釈の如くんば、冥益なれば人是を知らず見ざるなり。

先ほどの引用で省略した部分に、ご覧のごとくある。つまり、大聖人は常には妙楽の釈を肯定引用あそばしているわけだが、ここではじゃっかんの異論を匂わせており、その文脈で当該御書の結論を拝せば何の矛盾もないことになるのだ。

又已前の重、末法には教行証の三つ倶に備はれり。

大聖人の仏法は顕益なのである。つまり、この点における沖浦氏の主張は正しいのだ。

現在、御書の研究に取り組んでいる人がどれほどいるのか知らないが、上述の件について何かしらの知見があれば伺いたいものである。

2021/1/2

レッパク  
昨日は年末合併号から重要と思われる事案を取り上げた。今日は各種登壇記事をざっと眺めてみよう。

先生の三度目の諫暁を日本国が無視すれば、そのときこそ広布前夜の自界叛逆・他国侵逼が事実になる・・・

男子部第八総部長(千葉)の発言が悩ましい。無視か否かの判断を誰がするのかである。例えば第一回は無視だったのか否か、第二回はどうか、である。もし無視だとすると、第三回も無視だろう。そこでようやく自他の二難が起きる、その結果として日本国が動く、といったシナリオなのだろうか?

だったら第一回目の無視の時になぜそのような現証が起きなかったのか、第二回の時もしかりである。

 「広宣流布前夜にただ一度だけ起こる。今後末法万年にこんなことは起こらない」

総合婦人部長が引用しているのは浅井発言である。ようするに猊下が間違いを犯すようなことは広布前夜の今だけのことであって、今後は永遠に起こらないことだと言っているらしい。しかし、かつては七百年間で二度起きたと言っていた。一つは今日における御遺命の問題であるが、もう一つはいわゆる日精上人の問題である。こうした過去の発言についてはどのように説明するのだろうか?

ちなみに私見を申し上げれば、猊下も間違いを犯す、今後も同じである。

 アメリカの衰退も、御在世の大蒙古のような国が隣国に出現したことも、大聖人様の御化導を助け奉る諸天の働きである・・・

副総合婦人部長の発言であるが、このところの浅井先生の発言によれば、諸天の働きではなく第六天の働きではなかったかと思う。いや、もちろん、第六天も諸天の一つではあるわけだが、顕正会ではそこを善悪の二方向で切り分けて云々している場合がほとんどである。ゆえに上掲のような言い方をするのであれば、究極的には池田大作氏も大聖人の御化導を助けていることになるし、日達上人も日顕上人も同じことになるだろう。

裂帛の師子吼

総合女子部長の記事から引用した。彼女は顕正会から大師子吼を消滅させた大功労者であるが、しかし、上掲はいただけないと思う。そもそも裂帛はほぼほぼ顕正会用語と言ってもいいくらい一般的には使われない言葉であり、ではどのような意味なのかと改めて調べてみると、あれれ?という印象を受けるのである。何しろ二義目にはホトトギスの鳴き声と書かれているくらいなのだ。この点、ぜひとも再考をお願いしたいと思う。

ちなみに上掲は第1521号にも出てくるようで、その時には副総合婦人部長が使っていたことが過去の拙稿に書かれている。

さて次は、藤村雄大氏が副教学部長の肩書きで登壇しているので、それを取り上げたい。

昨年五月十九日、恐れ多くも浅井先生のご自宅に押し掛けて狼藉を働いた、妙観講「法務部主任」の榎本でした。

このところ顕正会員と妙観講員との間で法論が行なわれている。そうした中で今回は法務部長のお出ましゆえか、相手側も法務部主任が出てきたようである。弁護士なのだろうか?

それはともかく、「恐れ多くも」には恐れ入った。また、狼藉とは具体的にどのような行為を意味するのか、それも気になるところである。時期的には例のカエリタマエ問題に相当するのだろうか?

 もう一人の「大西」と名乗る女性妙観講員は、大草一男と親しい間柄のようで、大草と直接やりとりをしていました。

ここが興味深い。おそらくは携帯電話でのやり取りを意味しているのだと思われる。だったらそこで電話を換われば面白かっただろう。

反論に窮した榎本は、突然「浅井さんも与同してた、浅井さんも与同してた」等と連呼し始め・・・

議論の内容はさておき、わたくしは「さん」に注目したいと思っている。顕正会員は「大草さん」とは言わない。この点、かつて冨士に正当化の理屈が述べられていたが、しかし、ハタから見れば妙観講員のほうが遥かに常識人に見えるだろう。

ところで次の男子部第百六隊支隊長(福島)の記事はブーメランを食らいそうである。

加えて妻と離婚する等の罰も重なって・・・

創価学会員の話であるが、離婚が罰だとすると、副総合婦人部長も罰なのだろうか?

会館の中は去年の水害の影響で未だに臭い。

これまた創価学会の会館らしい。確か顕正会の会館も水害に見舞われたことがあったと思う。拙ブログのコメント欄にその旨の証言が寄せられたことがあるのだ。それはガセネタだったのだろうか?

 そしていよいよ投票日を迎え、吉岡さんは議員職に八年間ものブランクがあり、以前の半分以下の得票数にもかかわらず、最年長の七四歳でみごと当選を果たしました。

女子部第二百三区総班長(千葉)の記事である。いつも言っているように本人が登壇するようになれば大したものである。

一時期、顕正新聞が溜まってしまい、そこで少し方針転換をした。ようするに重複的な事案は省略することにしたのだ。早い話、大幹部の登壇記事が似たり寄ったりであり、今回の場合であれば猊下が間違いを犯したのは広布前夜のたった一回という事案がそれである。まあ、しかし、現状では顕正新聞のストックも新年号のみなので、しばらくはゆっくりと取り上げることができる。この辺は緩急自在にやっていくつもりで、重複的であっても重要と思えば執拗に取り上げることもあるし、重要でなくても気分で取り上げたり取り上げなかったりするかもしれない。

インターネットの普及によって激変したことがあるとすれば、拙ブログのような存在かもしれない。もし仮に今が昭和の時代であればこのような情報発信は不可能であり、わたくしの独白は文字通りの独り言で終わっていたはずである。拙ブログは独白と銘打っているものの、現実には全世界に情報発信されているのである。

しかし、インターネットの限界も見えてきた。

インターネットは無限大の広がりを有していて、今こうして情報発信しているものの、広すぎるものだから、自分の発信したものがどこにも届かないのである。単純に言えば閲覧数の少なさである。

この点、顕正会も同様だろう。

仮に浅井先生のビデオを動画サイトを使って広く発信したとしても、逆に閲覧数の少なさがバレてしまって恥ずかしいことになる。わたくしのような個人ブログはもともと微々たる閲覧数しかないので構わないが、まさか二百万を標榜する顕正会の動画が微々たる数字しか取れないとすれば大恥だろう。

おっと、いけない。話が冗長になってきたので、この辺で終わりにしたい。

2021/1/1

オヒザモト  
顕正新聞第1530号は年末合併号である。記憶だけで書くことをお許しいただきたいのだが、数年前だったろうか、ヒドイ時には年に四回ほど合併号が出たことがあった。いわゆるゴールデンウィークだとか夏休みの時期ならばまだしも、ぜんぜん関係ない時期に合併号が出たこともあったと思う。もはや顕正新聞もオワコンだろうと思い、拙ブログでその旨を書いたことがあった。しかし、その後は持ち直した。昨年は今から取り上げる合併号を除けば、他にはなかったはずである。

さて、本題に入ろう。

元旦勤行 全国会場で三四七回、厳修

今回は六面に載る元旦勤行の会場一覧を最初に取り上げたい。たぶん例年とは違った印象を受けるはずである。例年は回数ではなく会場の数を謳っていた。全国〇〇箇所みたいな感じである。実際、記事には次のような文言がある。

 例年とは異なり、新型コロナ対策として、元旦・二日の両日にわたって奉修される。

なるほど、コロナ対策だったのだ。

単純化すると、入場制限を設けて通常の半分しか入れない。いわゆるソーシャルディスタンスである。その代替として二日間に分けて行なう。

ところがである。会場一覧を見れば誰もがすぐに気がつく。一日しか行なわれない会場もあるのだ。

札幌会館、黒石会館、盛岡会館、仙台会館、鷹巣会館、会津会館、水戸会館、旭会館、南房会館、相模会館、佐渡会館、金沢会館、福井会館、甲府会館、静岡会館、浜松会館、名古屋会館、垂井会館、三重会館、京都会館、姫路会館、岡山会館、鳥取会館、広島会館、福岡会館、長崎会館、熊本会館、大分会館、鹿児島会館、台北会館

ご覧の会館が一日だけで終了となる。ここに組織の実態を垣間見ることができる。

せっかくなので、今度は二日間にわたって行なわれる会場を列記してみよう。

本部会館、八戸会館、秋田会館、山形会館、郡山会館、筑波会館、宇都宮会館、群馬会館、千葉会館、東京会館、多摩会館、神奈川会館、小田原会館、新潟会館、三条会館、長岡会館、柏崎事務所、富山会館、信州会館、大阪会館、尾道会館、愛媛会館、高知会館、宮崎会館、沖縄会館

パッと見て、半々くらいの感じである。

近年、新規会館の建設構想が滞っている印象が拭えない。その理由はここに明瞭に見て取れる。早い話が無理して建てても弘通が伸びず、閑古鳥が鳴くような会館も少なくない。ゆえにこれ以上は建てたくないのだろう。特に個人的な感想を述べるならば、東海地方が深刻である。大石寺の御膝元、すなわち静岡県の会館二つが一日のみという実態。また近接する県として山梨の甲府会館もしかりである。

さて、次は人事である。

第五男子部長(副総男子部長兼任)
第二婦人部長(第三総部長兼任)
第十婦人部長(第八総部幹事兼任)
第十七婦人部長(第八総部長兼任)


深刻である。これまで繰り返し指摘してきたように、前任者がどうなったのかが気になるところで、多くは離脱してしまったのだろうと思われるのだ。

例えば第五男子部長がわかりやすい。組織的にはその上に総部長がいて、副総男子部長はさらにその上に位置する存在なのである。ゆえに世間一般の表記としては、副総男子部長が第五男子部長を兼任すると書くべきところだと思う。

もっと極端な話をしよう。

第五男子部長が離脱してしまった。差し当たって他に相応しい人材がいないので、会長が兼任する。極端ではあるが、可能性としてはあり得る。まさか逆はあり得ない。何らかの理由で会長が辞任してしまったので、第五男子部長が会長を兼任する。さすがにあり得ないだろう。

上掲、組織の系統図を使って説明しないと誰も理解できない。もちろん顕正会の内部ではわかり切った話なので問題はない。わたくしとしては外部の人間にどれだけ伝わったか、そこが心許ないところである。

本部庭園に実ったミカン

イヤミながらも顕正会の実態を象徴していると思う。当該写真にはミカンが一つしか写っていない。ぜんぶもぎ取られてしまって、たまたま一つだけ残ったような寂しい印象の写真なのだ。


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