2021/1/31

モンガイフシュツ  
ヅラ系。氏より真面目な質問を頂戴したので、今日はそれを題材に書きたいと思う。その前に沖浦氏にも返事を書いておかねばなるまい。氏は少し前のコメント欄で次のように言っていた。

 くれぐれも感情による愚かな反論や、御書に基づかないご意見はご無用に願います。
 御書に基づかない論をお好みの方が大多数である事は、日蓮正宗の伝統的な特徴ですが、私にはお慎み願います。


法華講の諸氏へ宛てた文章である。ゴショゴショとうるさい御仁だが、だったら自分も御書に基づいて論証すべきだろう。ただそれだけの話である。

さて、本題である。

皆んなが幸せになる為に 何故富士山じゃないと駄目なんですか? 日本一の山だから?

世界一はエベレストですよね

大聖人はエベレストを知らなかったから?

そもそもなんで山なんですか?


たまたまであろうか、ちょうど晃氏が聖愚問答抄を引用しているが、実はわたくしも引用しようと思っていた。氏とは引用意図が異なるものの、ほぼ同じ部分であることが不思議な一致である。

須弥山は上下十六万八千由旬の山なり。何れの山か肩を並ぶべき。法華経を大日経に劣ると云ふ人は、富士山は須弥山より大なりと云はん人なり。

ここでは法華経=須弥山であり、大日経=富士山となっている。後の戒壇建立の御遺命との整合性について、どのように考えるべきなのか悩ましいところだ。その答えはすぐには出せないが、少なくともヅラ系。氏の質問に対する一定以上の回答にはなっていると思う。

つまり、富士山は日本一の山であるが世界一ではないという今日における常識を、大聖人も認識されていたわけである。甚だ失礼な言い方とは承知しつつもあえて言わせてもらえば、大聖人の思考はきわめてマトモであり、まさに仏法と申すは道理ということになるだろう。

富士とは郡の号、即ち大日蓮華山と称す。爰に知んぬ、先師自然の名号と妙法蓮華の経題と山州共に相応す、弘通此の地に在るなり。

五人所破抄であるが、これもあえて不利なことを言えば、大日経=大日蓮華山という解釈もあり得るだろう。聖愚問答抄との整合性からすればそれが自然である。

しかし、続きには次のごとく書かれている。

聖人此の高峰を撰んで本門を弘めんと欲す。閻浮第一の富山なればなり。

さて、これをどのように捉えるか、である。

一閻浮提八万の国の中に大なる国は天竺、小なる国は日本なり。名のめでたきは印度第二、扶桑第一なり。

建治三年の四条金吾殿御返事である。諫暁八幡抄の有名な御文の片鱗がすでにこの段階であらわれている点に注目すべきと思う。我々は大聖人の仏法という言い方をする。それは釈迦仏法とは異なるという意味であり、教学的にはいわゆる種脱相対と呼ばれる法門のことである。

平たく言うと、大聖人は御晩年になるにつれて独自性を強めていくのだ。

これでいちおうは聖愚問答抄との不整合を気にしなくてもいいことになる。手っ取り早く佐前佐後と言ってしまっても差し支えないかもしれない。

話を戻すと、上掲御文の好都合なところは、国の大小にかかわらず名のめでたきは日本が第一だと仰せられている点である。つまり、富士山は高さの如何にかかわらず一閻浮提第一の名山という理屈が成り立つことになる。

そこで三大秘法抄には、

霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立

として場所を特定あそばさないものの、日興上人への御付嘱状には、

富士山に本門寺の戒壇を建立

と認められている。

上述のごとく、大聖人の御認識として最勝の地=富士山とすることに、さして不審な点は見当たらない。

ゆえに日興上人もこの道理を踏まえて、

凡そ勝地を撰んで伽藍を建立するは仏法の通例なり。

と御指南されているのである。

なお、後文において、日本第一の名山、と認められている点は、前述のごとく閻浮第一の意味に他ならない。重複を恐れず書けば、勝地は最勝の地、最勝の地は富士山、富士山は日本第一、日本第一は世界第一、ということである。

そもそもなんで山なんですか?

これについては晃氏のコメントが傾聴に値するところだとは思うものの、わたくし自身はそれほど難しく考えていない。日興上人の仰せによれば、それが仏法の通例だからである。

最後に戸田城聖氏が日蓮正宗門外不出と謳う血脈抄を拝しておきたい。

三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり。

日達上人が御指南あそばしていたと記憶するが、富士山本門寺本堂はイコール戒壇堂なのだそうである。本堂とは別に戒壇堂が建つわけではなく、本堂がそのまま戒壇堂になるという。当然、本堂には御本尊が安置される。なるほど、御本尊のまします処がなぜに戒壇なのかは、日蓮正宗門外不出の御相伝書によってのみ論証されるのかもしれない。

2021/1/29

コウコウタル  
前回、沖浦氏のコメントには期待していない、と書いた。普通の人は、だったらもうコメントは書かない、さようなら、と言って去るのではないかと思う。ところが沖浦氏はなおもコメントを寄こしてくる。その根性は大したものであるが、やはり内容的には期待できないものだった。

大聖人の御書には、本尊というキーワードがたくさんあって、戒壇もかなりの数が存在する。ならば大聖人自らが本尊の住処が戒壇であることを説明されていてもよさそうなものである。ところが沖浦氏は次のようにコメントしている。

 戒壇は本尊安置の場所を示します。 
 元々は受戒の場所を示すのですが、現在の日蓮系ではこの解釈が普通です。


以下、創価学会の公式見解と御書を二つほど引用しているが、わたくしに言わせればぜんぜんダメである。解釈云々ではなくて、大聖人の仰せをズバリと引用すればいいのだ。先ほども書いたように、御書の至るところに本尊とあって、かつまた戒壇も相当数が存在する。ならば大聖人自らが本尊と戒壇の関係性を御説明あそばしていなければおかしいのである。

さて、顕正新聞第1531号である。

日蓮大聖人御遺命の「国立戒壇」建立の地「富士山」。中央正面の小高い丘が天母山、その麓に広がる昿々たる勝地が天生原である

新年号の第一面には富士山の写真が掲げられる。その説明文が上掲であるが、以前にも似たような指摘をした記憶がある。

中央正面の小高い丘

そもそも中央と正面が重複的である。単に中央か正面か、どちらか一つで意味が通じるはずである。それにしても写真の中央は富士山の五合目くらいで、ちょうど雪の切れ目あたりに相当する。また正面はよくよく考えれば意味不明であり、事情を知らない人がこの写真を見たら、天母山がどこなのか理解できないかもしれない。

正確には、中央下段に写る小高い丘、ではなかろうかと思う。それでは困るのだろうか?

昨年までの写真を確認したわけではないが、今回の写真で気になったのは下段に写る送電線と電波塔らしき構造物である。これを切り取ると天母山がよりいっそう低く見えてしまう。それがイヤなので、本来ならば目障りなはずの電波塔を含めた構図になった。そんな気がしてならないのである。

昿々たる

顕正会用語かもしれない。普通に広々たると書いてもよさそうなものだが、浅井先生のことだからコダワリがあるのだろう。

天母山、その麓に広がる昿々たる勝地・・・

あえてイチャモンをつけておきたい。上述のごとく、顕正新聞の説明では天母山がどこなのかわかり難い。また、山の位置がわかった上で言えば、麓の広がり云々がいかにもショボく思えてしまう。おそらく今現在、天生原の地理上の概念は一般的には存在しないはずなので、ここは宗教上の理想を高らかに謳い上げるべきだったと思う。つまり、白雪を冠した富士山の麓の広がり全体が天生原なのである。その中心に天母山があるのだと。

写真の話はこれくらいにして、次は一面下段に載る年頭の辞を取り上げよう。

三百万を見つめて

これがタイトルである。そして本文中には三つほど三百万を云々するくだりがある。

広宣流布の重大関門たる三百万は指呼の間となった。

 三百万こそ広宣流布の重大関門である。

 さあ、決戦場の第二年、一筋に三百万を見つめ・・・


すでに繰り返し指摘していることだが、三百万をいつまでに達成するのか、その目標が示されていない。また、年間目標も不明である。

次はお馴染みの池田大作批判である。

すると忽ち池田は「国立戒壇は御書にない」などと言い出し、また「国立戒壇は選挙に不利をもたらす」として・・・

一つ目のカギカッコは確かにそのような発言が残っている。しかし、二つ目のほうはどうだろう、まさか池田氏が公の場でそのようなことを発言するだろうか?

次もおなじみのフレーズである。

 この広布最終段階に御奉公できるとは、何と有難い宿縁であろうか。

何度も指摘しているが、このフレーズがいつ頃から使われ始めたのかが問題である。ここ五年くらいならば許容範囲かもしれない。最大で十年くらいならばまだ許されるだろうか? しかし、二十年も前から言っていたとしたらどうだろうか? わたくし的には限度を超えていると思う。

以下はどうでもいい指摘である。

必ず大聖人様の御守護が頂ける。

わたくしが文章を書く場合、御守護が頂ける、御守護を頂ける、どちらにしようかと迷う。あるいは、大聖人様の、大聖人様に、どちらにするべきかと迷う。

前後するが、次も同様である。

台湾を統一

この場合、台湾を統一、台湾統一、どちらにすべきかと迷う。

これは前述の天母山ないし天生原の話題に通ずることで、ようは一般人が読んだ時にどのように受け取るかを気にしているわけである。もし顕正会が全日本人をターゲットにしているのであれば、その辺のところをよく考えるべきだろうと思う。

2021/1/26

キュウフ  
沖浦氏に質問を投げ掛けたところ、懇切丁寧な回答をたまわった。しかしながら内容的にはまったく不十分であり、印象的には一歩も前進していない感じである。

 宝塔とはご本尊でその住処が戒壇である事は論を待ちません。

だからその根拠を求めているのだ。宝塔が御本尊であることは論を俟たないとして、ではその住処が戒壇であることは何を根拠に言っているのだろうか?

実は以前にも同じ議論をしたことがある。その時も明快な答えは得られなかった。おそらくは今回も同様だろう。

ゆえに期待はしないが、何かしら言ってくることは間違いないので、対応はその時に考えたい。

さて、顕正新聞の続きである。

未入信の兄も
  九死に一生


女子部第二百四区総班長(福島)は、お兄さんが強盗に遭遇した話を書いている。それによればお兄さんは手足を縛られ口にガムテープを貼られて放置されたそうである。真冬のことなので凍死を覚悟した云々と。ところがである。次のようなことで助かったという。

兄は、手を前で縛られていたので自力でガムテープをはがして声を上げ・・・

マヌケな犯人である。

しかし、よく考えてみると、だったら不自由ながらも口のガムテープだけでなく、足の縛めも外すことができたのではないかと思う。さらに口で手の縛めも解くことができそうである。

 私は生活費等の出費がかさんで銀行口座のマイナス金額が七七万円にまで膨らみ・・・

逆に自慢話のようにも思える。基本的にマイナスはあり得ない。おそらくは普通預金とは別に定期預金が相当額あるのだろう。そうでなければ七十七万も貸してくれないはずである。

婦人部勝浦支区班長(千葉)の記事も興味深い。

「もう限界だ。稲刈りが終わったら離婚する」

ずいぶん律儀な旦那さんではあるまいか?

それはさておき彼女の入信以前が凄まじいのだ。何しろ職場は横浜で自宅がなんと千葉県旭市なのだという。しかも生活パターンが次のごとくである。

 仕事が終わると毎晩のように飲み歩き、時には朝まで飲み続け、千葉県旭市の自宅までタクシーで帰宅し、一睡もせずに出社するなど、三毒どっぷりの生活を送っておりました。

あり得ない話だ。タクシー代もベラボウな金額になるだろうし、移動時間を考えても非効率である。ならば職場の近くに引っ越したほうがいい。

男子部第三十九隊支隊副長(京都)は、うつ病で寝た切りだった息子が劇的に回復したことを書いている。

息子は浅井先生と目が合った瞬間、スッと病が抜けたように感じ、その日から劇的に病状が回復したのでした。

だったら浅井先生はもっと出てこないといけないだろう。日曜勤行はもちろんのこと、あらゆる行事に出席するべきである。極端な話、先生自らが街頭配布をやればいい。

これを読んだ私たち夫婦は義母を退院させることを決意いたしました。

話が飛んで恐縮だが、今度は義理のお母さんの話である。以前の体験発表に自宅で母親を看取った話があった。それを読んで自分たちもその覚悟を決めたそうである。ところがである。

 そこで特別養護老人ホームへの入所を申込みましたが・・・

さらに話が飛んで恐縮だが、ようするに自宅で看取るつもりで退院させたものの介護が大変で夫婦ともに疲れ切ってしまった、という話なのである。今の時代、自宅で看取るのは相当の覚悟がいる。それほどの覚悟があるならば特養に入れずに自宅で面倒を見るべきだろう。

最後は女子部第八十七区総班長(茨城)の記事である。

借金は数千万円にまで膨らんでしまいました。

ずいぶんアバウトな数字である。自分の借金ならばもう少し具体的な数字を言えるだろう。

国からの給付金は本来五十万円のところ、二十数年前に治療した時のカルテが残っていたことで、三百万円給付されたのです。

よくわからないが、肝炎の人には給付金があるらしい。しかも病状によるのだろうか、金額には幅がある。そりゃ五十万が三百万になれば大功徳である。

2021/1/21

ビヨウシ  
今日は顕正新聞第1530号の残りをやっつけようと思うが、その前に沖浦氏のコメントについて少し触れておこう。

 戒壇とは宝塔の住処ですから、阿仏房がいる場所がそのままで本門の戒壇です。

この根拠はどこにあるのだろうか?

また、以前は阿仏房の身体が戒壇なのだと、わたくしの記憶が確かならば、そんな意味のことを言っていたはずである。すると解釈を変更したのだろうか?

 そして私ごとですが、本年二月に、二〇年以上続けていた美容師の仕事を辞め、御奉公にかけ切る決意で転職いたしました。

さて、本題である。ご覧の女子部第二十五区班長(首都圏)の記事はいかがなものかと思う。今や顕正会もそれなりの人数であるから、美容師を生業にしている人もたくさんいるはずである。その意味で上掲は不適切な記事のように思える。確かに彼女は熱心な活動会員であり、大塚駅で街頭配布している時に石川県金沢市の人と出会って、なんとわざわざ金沢まで折伏に出掛けて行くくらいなのである。とは言え以前にも繰り返し指摘してきたように、人生の選択肢としては最悪のような気がしてならない。実際、そうやって仕事を辞めてまで顕正会に専念した人が、その後に顕正会を離脱しているケースも少なからずあるのだ。顕正会に人生を狂わされた。しかし、顕正会は責任を取ってくれない。たぶん訴訟を起こしてもダメだろう。何しろ辞める辞めないは自分自身が選択したことだからである。

早大・法科大学院で妙法の弁護士めざす

女子部第四区組長(神奈川)の記事である。顕正会には法務部があってすでに二名の弁護士がいる。彼女はそれに続く有望な人材と言えるだろう。もちろん他にも弁護士を目指している人がいて、顕正会の未来は明るいように思える。

しかし、次のリンク先を見ると、愕然とするかもしれない。

https://twitter.com/mochi_law/status/1351793905969164290

十四位に創価大学が入っている。具体的な人数はわからないものの、早大ならぬ創大出身の弁護士がたくさんいて、かつまた毎年のようにコンスタントに新たな弁護士を輩出している様子が伝わってくる。

そもそも現行の弁護士制度がどうなっているのか、一般人にはよくわからない。ようするに法科大学院を経なくても弁護士になれるらしく、現状では法科大学院全体の弁護士合格率よりも創大生のほうが上らしいのである。

ともかく社会的な意味では創価学会にとうてい太刀打ちできない。それが顕正会の実情である。

 正本堂はすり鉢のように、椅子席から御宝前を下に見下ろす構造になっており、最前列に池田大作と細井日達が座っておりました。

かつて創価学会員だった男性婦人部員の記事である。創価学会時代には総ブロック長をやっていたと書かれているので、それなりの大幹部だったわけなのだろう。しかし、いつも思うのだが、彼らの書いていることは昔の話なので記憶違いが多かったりして、あまり信用できない。上掲が一例で、最前列云々がいかにもデタラメな話に思える。まさか日達上人が池田大作氏と並んで座っているわけがあるまい。上人は導師席である。池田氏がどれほど偉かろうともしょせんは信徒である。肩を並べることはあり得ないのだ。

こう書くと、妙光寺事件を云々する人が出てくるかもしれない。だったらなおさらのことだろう。例の話は法要以外においては肩を並べるという取り決めだったはずである。

 それでも一ヶ月に一回の御書講義は、大聖人様の御事に触れられるので大へん楽しみでした。

文脈的には、創価学会は池田氏の自慢話ばかりでおかしいと思っていたが、それでも月一回の御書講義は楽しみだった、という流れである。

婉曲ながらも立派な顕正会批判である。もちろん本人にそのつもりはないのだろうけれども、顕正会的には痛いところを突かれていることになるだろう。何しろ月一回の御書講義すら実施していないのが今の顕正会だからである。

2021/1/18

ジュエキシャ  
前回の拙稿に対して晃氏から懇切丁寧なコメントを頂戴した。一方の沖浦氏は拙稿をしっかりと読み込めていないらしく、かなり脱線したコメントになっている。穿った見方をすれば、沖浦氏の顕益・冥益についてのコメントは創価学会の公式見解を否定することになりかねないので、それに気づいて議論をはぐらかしているのかもしれない。

今、大急ぎで「冥益」を検索したところ、その上位には創価学会の公式サイトであったり、創価学会系のブログなどの記事が出てきた。その中に宗門の記事が少し混じっている感じである。そのいずれもがほぼ同一見解だった。教行証御書を引用している点も共通である。

わたくしの懸案は、御講聞書との齟齬に言及しているサイトが存在するか、だった。少なくとも検索上位には見当たらなかった。

その意味で晃氏のコメントはひじょうにありがたいものだったが、やはり晃氏も明確な結論を持っているわけではなく、あれこれと試行錯誤している様子だった。

今末法には初めて下種す、冥益なるべし。・・・冥益なれば人是を知らず見ざるなり。

改めて教行証御書を引用した。これに対して御講聞書では次のごとく御指南あそばされている。

本化の菩薩は顕の利益、迹化は冥の利益

沖浦氏の発見である。氏は日蓮正宗を批判するつもりで、末法は冥益だから功徳がすぐに出なくても仕方がない、というような言い訳じみた解釈を否定したわけである。何しろ上掲のごとく、ハッキリと顕の利益とあるからだ。

わたくしはこれを踏まえて教行証御書を解釈し直す必要があると思った。

今末法に入っては教のみ有って行証無く・・・

これは冒頭の一節である。そして最後、結論部分には次の一節がある。

又已前の重、末法には教行証の三つ倶に備はれり。

これらを総合的に考えると、妙楽は冥益だと言っているが実は顕益なのだ、と解釈するのが妥当だろうと思った。これが前回の結論である。

ややこしくて恐縮だが、今はまた別の考え方に傾きつつあって、ネット上に出てくる創価学会系ないし宗門の見解もあながち間違いではないと、少し思い直している段階である。

教行証御書単独で考えると、末法は教のみあって行証がないとされているが実は教行証の三つが厳然と備わっているのだ、ただし妙楽が言っているように冥益だから見えないし知らないだけなのである、というまとめ方が可能になる。それほど無理な解釈ではないし、宗門や創価学会の見解もこれに準ずるものである。

では御講聞書の御指南はどうなるのか?

我々は功徳を受益者の立場で語るし、その立場からしか捉えていない場合が多い。だから見誤るのだ。

 今末法の初め、・・・迹化の四依は隠れて現前せず、・・・此の時地涌の菩薩始めて世に出現し・・・

本尊抄をかなり端折って引用した。

四大菩薩の此の人を守護したまはんこと・・・

同じく本尊抄である。そして次は撰時抄の末文である。

霊山浄土の教主釈尊・宝浄世界の多宝仏・十方分身の諸仏・地涌千界の菩薩等、梵釈・日月・四天等、冥に加し顕に助け給はずば・・・

御本尊には十方法界のあらゆる要素が詰まっている。そこには迹化の菩薩も含まれる。よって末法には無縁とされる彼らも、実は冥々の力用を発揮しているわけなのだろう。

本化の菩薩は顕の利益、迹化は冥の利益

以上、御講聞書の御指南は利益を受ける側ではなく利益を施す側の視点で考えれば、まさしく本化の菩薩は出現するわけだから顕の利益、迹化の菩薩は隠れて現前せずだから冥の利益となる。つまり、教行証御書とは次元が異なる話なので、一概に矛盾していることにはならないのだ。

2021/1/14

カンコドリ  
沖浦氏による一連の御書講義が終了して、拙ブログも閑古鳥が鳴くようになった。そこで講評と言ったら上から目線が過ぎるかもしれないが、氏の講義について振り返ってみようと思う。

細かい点では間違いだらけだった。特に因果倶時の一件が象徴的であり、どなたかが沖浦氏の頑迷さを指摘していたくらいである。

因果倶時・不思議の一法

当体義抄の有名な御文であり、おそらくは久遠元初について論ずる時に必ず引用されるくだりのはずである。これを沖浦氏が知らなかったことには驚いた。ある意味、教学の奥深さをあらわしているのだろう。かく言うわたくし自身にだって同様のことがあるはずで、そんなことも知らなかったのか? と言われてしまうような事案がいくつもあるに違いないのだ。だからこそ謙虚さが大切なのである。

蓮華と申す花は菓と花と同時なり。

上野尼御前御返事である。相手によって表現を変えている。当体義抄は法門書であり、当然ながら専門用語がたくさん出てくる。一方の上野尼へは平易な表現で認められているが、意味は同じである。

ここでわたくしの思考プロセスを開示しておくと、さすがにすべての御書を記憶しているわけではないので、御書検索を使って調べている。上掲の場合、そのような御書があったことは記憶しているものの、どこにどのような語句で存在するのかわからない。最初のうちは「華果」で調べていた。しかし、これでは見つからなかった。何しろ華ではなく花であり、果ではなく菓だからである。こうしたアイマイ検索も可能になれば大したものであるが、わたくし自身はプログラムを組めるわけではないので、そうした便利なソフトが出るのを待つしかない。ともかく語句をいろいろと入れ替えて検索していくうちに、どうにか上掲の御文を見つけることができた。これが拙ブログの舞台裏である。

ちなみに因果倶時も同様の方法で調べたわけだが、ここで一つのワナにハマってしまった。ワナは大袈裟かもしれない。灯台下暗しと言っておく。

此の華草、因果倶時なること妙法の蓮華に似たり。

実は当体義抄の続きの御文に出てくる一節なのである。己の不勉強を痛感する次第である。

さて、ここまでは沖浦氏のデタラメな点を指摘してきたわけだが、ここからは評価すべき点を挙げたいと思う。まず言えることは、あの創価学会ですら一度もまとまった講義書を出版したことのない御講聞書を、全編にわたって講義した事実である。クオリティはともかくとして、それをやり遂げたことに意義があるのだ。

具体的には教行証御書との矛盾点に着目したことが最大の功績かもしれない。

一 妙楽大師の釈に末法之冥利不無の釈の事

御講聞書の一段であるが、この段の結論部分は次のごとくである。

仍って本化の菩薩は顕の利益、迹化は冥の利益なるべし云云。

では教行証御書はどうなっているのか、ご覧いただこう。

今末法には初めて下種す、冥益なるべし。・・・冥益なれば人是を知らず見ざるなり。

矛盾しているように見えるが、いかがだろうか?

この場合、短絡的にはどちらかが偽書になるわけで、もし教行証御書が偽書であれば他門はいざ知らず日蓮正宗系における冥益の捉え方は間違っていたことになるのかもしれない。ただし、それはあくまで短絡的に考えた場合であって、二つの御書を整合させる解釈も十分に可能だと思われる。略して申し上げれば次のごとくである。

妙楽の釈の如くんば、冥益なれば人是を知らず見ざるなり。

先ほどの引用で省略した部分に、ご覧のごとくある。つまり、大聖人は常には妙楽の釈を肯定引用あそばしているわけだが、ここではじゃっかんの異論を匂わせており、その文脈で当該御書の結論を拝せば何の矛盾もないことになるのだ。

又已前の重、末法には教行証の三つ倶に備はれり。

大聖人の仏法は顕益なのである。つまり、この点における沖浦氏の主張は正しいのだ。

現在、御書の研究に取り組んでいる人がどれほどいるのか知らないが、上述の件について何かしらの知見があれば伺いたいものである。

2021/1/2

レッパク  
昨日は年末合併号から重要と思われる事案を取り上げた。今日は各種登壇記事をざっと眺めてみよう。

先生の三度目の諫暁を日本国が無視すれば、そのときこそ広布前夜の自界叛逆・他国侵逼が事実になる・・・

男子部第八総部長(千葉)の発言が悩ましい。無視か否かの判断を誰がするのかである。例えば第一回は無視だったのか否か、第二回はどうか、である。もし無視だとすると、第三回も無視だろう。そこでようやく自他の二難が起きる、その結果として日本国が動く、といったシナリオなのだろうか?

だったら第一回目の無視の時になぜそのような現証が起きなかったのか、第二回の時もしかりである。

 「広宣流布前夜にただ一度だけ起こる。今後末法万年にこんなことは起こらない」

総合婦人部長が引用しているのは浅井発言である。ようするに猊下が間違いを犯すようなことは広布前夜の今だけのことであって、今後は永遠に起こらないことだと言っているらしい。しかし、かつては七百年間で二度起きたと言っていた。一つは今日における御遺命の問題であるが、もう一つはいわゆる日精上人の問題である。こうした過去の発言についてはどのように説明するのだろうか?

ちなみに私見を申し上げれば、猊下も間違いを犯す、今後も同じである。

 アメリカの衰退も、御在世の大蒙古のような国が隣国に出現したことも、大聖人様の御化導を助け奉る諸天の働きである・・・

副総合婦人部長の発言であるが、このところの浅井先生の発言によれば、諸天の働きではなく第六天の働きではなかったかと思う。いや、もちろん、第六天も諸天の一つではあるわけだが、顕正会ではそこを善悪の二方向で切り分けて云々している場合がほとんどである。ゆえに上掲のような言い方をするのであれば、究極的には池田大作氏も大聖人の御化導を助けていることになるし、日達上人も日顕上人も同じことになるだろう。

裂帛の師子吼

総合女子部長の記事から引用した。彼女は顕正会から大師子吼を消滅させた大功労者であるが、しかし、上掲はいただけないと思う。そもそも裂帛はほぼほぼ顕正会用語と言ってもいいくらい一般的には使われない言葉であり、ではどのような意味なのかと改めて調べてみると、あれれ?という印象を受けるのである。何しろ二義目にはホトトギスの鳴き声と書かれているくらいなのだ。この点、ぜひとも再考をお願いしたいと思う。

ちなみに上掲は第1521号にも出てくるようで、その時には副総合婦人部長が使っていたことが過去の拙稿に書かれている。

さて次は、藤村雄大氏が副教学部長の肩書きで登壇しているので、それを取り上げたい。

昨年五月十九日、恐れ多くも浅井先生のご自宅に押し掛けて狼藉を働いた、妙観講「法務部主任」の榎本でした。

このところ顕正会員と妙観講員との間で法論が行なわれている。そうした中で今回は法務部長のお出ましゆえか、相手側も法務部主任が出てきたようである。弁護士なのだろうか?

それはともかく、「恐れ多くも」には恐れ入った。また、狼藉とは具体的にどのような行為を意味するのか、それも気になるところである。時期的には例のカエリタマエ問題に相当するのだろうか?

 もう一人の「大西」と名乗る女性妙観講員は、大草一男と親しい間柄のようで、大草と直接やりとりをしていました。

ここが興味深い。おそらくは携帯電話でのやり取りを意味しているのだと思われる。だったらそこで電話を換われば面白かっただろう。

反論に窮した榎本は、突然「浅井さんも与同してた、浅井さんも与同してた」等と連呼し始め・・・

議論の内容はさておき、わたくしは「さん」に注目したいと思っている。顕正会員は「大草さん」とは言わない。この点、かつて冨士に正当化の理屈が述べられていたが、しかし、ハタから見れば妙観講員のほうが遥かに常識人に見えるだろう。

ところで次の男子部第百六隊支隊長(福島)の記事はブーメランを食らいそうである。

加えて妻と離婚する等の罰も重なって・・・

創価学会員の話であるが、離婚が罰だとすると、副総合婦人部長も罰なのだろうか?

会館の中は去年の水害の影響で未だに臭い。

これまた創価学会の会館らしい。確か顕正会の会館も水害に見舞われたことがあったと思う。拙ブログのコメント欄にその旨の証言が寄せられたことがあるのだ。それはガセネタだったのだろうか?

 そしていよいよ投票日を迎え、吉岡さんは議員職に八年間ものブランクがあり、以前の半分以下の得票数にもかかわらず、最年長の七四歳でみごと当選を果たしました。

女子部第二百三区総班長(千葉)の記事である。いつも言っているように本人が登壇するようになれば大したものである。

一時期、顕正新聞が溜まってしまい、そこで少し方針転換をした。ようするに重複的な事案は省略することにしたのだ。早い話、大幹部の登壇記事が似たり寄ったりであり、今回の場合であれば猊下が間違いを犯したのは広布前夜のたった一回という事案がそれである。まあ、しかし、現状では顕正新聞のストックも新年号のみなので、しばらくはゆっくりと取り上げることができる。この辺は緩急自在にやっていくつもりで、重複的であっても重要と思えば執拗に取り上げることもあるし、重要でなくても気分で取り上げたり取り上げなかったりするかもしれない。

インターネットの普及によって激変したことがあるとすれば、拙ブログのような存在かもしれない。もし仮に今が昭和の時代であればこのような情報発信は不可能であり、わたくしの独白は文字通りの独り言で終わっていたはずである。拙ブログは独白と銘打っているものの、現実には全世界に情報発信されているのである。

しかし、インターネットの限界も見えてきた。

インターネットは無限大の広がりを有していて、今こうして情報発信しているものの、広すぎるものだから、自分の発信したものがどこにも届かないのである。単純に言えば閲覧数の少なさである。

この点、顕正会も同様だろう。

仮に浅井先生のビデオを動画サイトを使って広く発信したとしても、逆に閲覧数の少なさがバレてしまって恥ずかしいことになる。わたくしのような個人ブログはもともと微々たる閲覧数しかないので構わないが、まさか二百万を標榜する顕正会の動画が微々たる数字しか取れないとすれば大恥だろう。

おっと、いけない。話が冗長になってきたので、この辺で終わりにしたい。

2021/1/1

オヒザモト  
顕正新聞第1530号は年末合併号である。記憶だけで書くことをお許しいただきたいのだが、数年前だったろうか、ヒドイ時には年に四回ほど合併号が出たことがあった。いわゆるゴールデンウィークだとか夏休みの時期ならばまだしも、ぜんぜん関係ない時期に合併号が出たこともあったと思う。もはや顕正新聞もオワコンだろうと思い、拙ブログでその旨を書いたことがあった。しかし、その後は持ち直した。昨年は今から取り上げる合併号を除けば、他にはなかったはずである。

さて、本題に入ろう。

元旦勤行 全国会場で三四七回、厳修

今回は六面に載る元旦勤行の会場一覧を最初に取り上げたい。たぶん例年とは違った印象を受けるはずである。例年は回数ではなく会場の数を謳っていた。全国〇〇箇所みたいな感じである。実際、記事には次のような文言がある。

 例年とは異なり、新型コロナ対策として、元旦・二日の両日にわたって奉修される。

なるほど、コロナ対策だったのだ。

単純化すると、入場制限を設けて通常の半分しか入れない。いわゆるソーシャルディスタンスである。その代替として二日間に分けて行なう。

ところがである。会場一覧を見れば誰もがすぐに気がつく。一日しか行なわれない会場もあるのだ。

札幌会館、黒石会館、盛岡会館、仙台会館、鷹巣会館、会津会館、水戸会館、旭会館、南房会館、相模会館、佐渡会館、金沢会館、福井会館、甲府会館、静岡会館、浜松会館、名古屋会館、垂井会館、三重会館、京都会館、姫路会館、岡山会館、鳥取会館、広島会館、福岡会館、長崎会館、熊本会館、大分会館、鹿児島会館、台北会館

ご覧の会館が一日だけで終了となる。ここに組織の実態を垣間見ることができる。

せっかくなので、今度は二日間にわたって行なわれる会場を列記してみよう。

本部会館、八戸会館、秋田会館、山形会館、郡山会館、筑波会館、宇都宮会館、群馬会館、千葉会館、東京会館、多摩会館、神奈川会館、小田原会館、新潟会館、三条会館、長岡会館、柏崎事務所、富山会館、信州会館、大阪会館、尾道会館、愛媛会館、高知会館、宮崎会館、沖縄会館

パッと見て、半々くらいの感じである。

近年、新規会館の建設構想が滞っている印象が拭えない。その理由はここに明瞭に見て取れる。早い話が無理して建てても弘通が伸びず、閑古鳥が鳴くような会館も少なくない。ゆえにこれ以上は建てたくないのだろう。特に個人的な感想を述べるならば、東海地方が深刻である。大石寺の御膝元、すなわち静岡県の会館二つが一日のみという実態。また近接する県として山梨の甲府会館もしかりである。

さて、次は人事である。

第五男子部長(副総男子部長兼任)
第二婦人部長(第三総部長兼任)
第十婦人部長(第八総部幹事兼任)
第十七婦人部長(第八総部長兼任)


深刻である。これまで繰り返し指摘してきたように、前任者がどうなったのかが気になるところで、多くは離脱してしまったのだろうと思われるのだ。

例えば第五男子部長がわかりやすい。組織的にはその上に総部長がいて、副総男子部長はさらにその上に位置する存在なのである。ゆえに世間一般の表記としては、副総男子部長が第五男子部長を兼任すると書くべきところだと思う。

もっと極端な話をしよう。

第五男子部長が離脱してしまった。差し当たって他に相応しい人材がいないので、会長が兼任する。極端ではあるが、可能性としてはあり得る。まさか逆はあり得ない。何らかの理由で会長が辞任してしまったので、第五男子部長が会長を兼任する。さすがにあり得ないだろう。

上掲、組織の系統図を使って説明しないと誰も理解できない。もちろん顕正会の内部ではわかり切った話なので問題はない。わたくしとしては外部の人間にどれだけ伝わったか、そこが心許ないところである。

本部庭園に実ったミカン

イヤミながらも顕正会の実態を象徴していると思う。当該写真にはミカンが一つしか写っていない。ぜんぶもぎ取られてしまって、たまたま一つだけ残ったような寂しい印象の写真なのだ。


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