2021/1/14

カンコドリ  
沖浦氏による一連の御書講義が終了して、拙ブログも閑古鳥が鳴くようになった。そこで講評と言ったら上から目線が過ぎるかもしれないが、氏の講義について振り返ってみようと思う。

細かい点では間違いだらけだった。特に因果倶時の一件が象徴的であり、どなたかが沖浦氏の頑迷さを指摘していたくらいである。

因果倶時・不思議の一法

当体義抄の有名な御文であり、おそらくは久遠元初について論ずる時に必ず引用されるくだりのはずである。これを沖浦氏が知らなかったことには驚いた。ある意味、教学の奥深さをあらわしているのだろう。かく言うわたくし自身にだって同様のことがあるはずで、そんなことも知らなかったのか? と言われてしまうような事案がいくつもあるに違いないのだ。だからこそ謙虚さが大切なのである。

蓮華と申す花は菓と花と同時なり。

上野尼御前御返事である。相手によって表現を変えている。当体義抄は法門書であり、当然ながら専門用語がたくさん出てくる。一方の上野尼へは平易な表現で認められているが、意味は同じである。

ここでわたくしの思考プロセスを開示しておくと、さすがにすべての御書を記憶しているわけではないので、御書検索を使って調べている。上掲の場合、そのような御書があったことは記憶しているものの、どこにどのような語句で存在するのかわからない。最初のうちは「華果」で調べていた。しかし、これでは見つからなかった。何しろ華ではなく花であり、果ではなく菓だからである。こうしたアイマイ検索も可能になれば大したものであるが、わたくし自身はプログラムを組めるわけではないので、そうした便利なソフトが出るのを待つしかない。ともかく語句をいろいろと入れ替えて検索していくうちに、どうにか上掲の御文を見つけることができた。これが拙ブログの舞台裏である。

ちなみに因果倶時も同様の方法で調べたわけだが、ここで一つのワナにハマってしまった。ワナは大袈裟かもしれない。灯台下暗しと言っておく。

此の華草、因果倶時なること妙法の蓮華に似たり。

実は当体義抄の続きの御文に出てくる一節なのである。己の不勉強を痛感する次第である。

さて、ここまでは沖浦氏のデタラメな点を指摘してきたわけだが、ここからは評価すべき点を挙げたいと思う。まず言えることは、あの創価学会ですら一度もまとまった講義書を出版したことのない御講聞書を、全編にわたって講義した事実である。クオリティはともかくとして、それをやり遂げたことに意義があるのだ。

具体的には教行証御書との矛盾点に着目したことが最大の功績かもしれない。

一 妙楽大師の釈に末法之冥利不無の釈の事

御講聞書の一段であるが、この段の結論部分は次のごとくである。

仍って本化の菩薩は顕の利益、迹化は冥の利益なるべし云云。

では教行証御書はどうなっているのか、ご覧いただこう。

今末法には初めて下種す、冥益なるべし。・・・冥益なれば人是を知らず見ざるなり。

矛盾しているように見えるが、いかがだろうか?

この場合、短絡的にはどちらかが偽書になるわけで、もし教行証御書が偽書であれば他門はいざ知らず日蓮正宗系における冥益の捉え方は間違っていたことになるのかもしれない。ただし、それはあくまで短絡的に考えた場合であって、二つの御書を整合させる解釈も十分に可能だと思われる。略して申し上げれば次のごとくである。

妙楽の釈の如くんば、冥益なれば人是を知らず見ざるなり。

先ほどの引用で省略した部分に、ご覧のごとくある。つまり、大聖人は常には妙楽の釈を肯定引用あそばしているわけだが、ここではじゃっかんの異論を匂わせており、その文脈で当該御書の結論を拝せば何の矛盾もないことになるのだ。

又已前の重、末法には教行証の三つ倶に備はれり。

大聖人の仏法は顕益なのである。つまり、この点における沖浦氏の主張は正しいのだ。

現在、御書の研究に取り組んでいる人がどれほどいるのか知らないが、上述の件について何かしらの知見があれば伺いたいものである。


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ