2021/3/31

キノセイ  
一週間近く間が空いた。どうやら投稿者はそんなに多いわけではないようだ。同じ人たちで延々とやり合っている。しかし、話が散漫になるので、今回は触れないことにしよう。

 平成二四年ごろからは、姉に勧められるまま、毎年大石寺で「不敬の御開扉」を受けておりました。

男子部第百四十六隊班長(首都圏)が一月度総幹部会で発表している一節である。文章表現は難しい。カギカッコに書かれていることは、今になってみれば、という意味なのだろう。まさか当時から不敬だと思っていたわけではあるまい。ゆえに平凡に書くならば、単に御開扉だけで話は通じるはずなのである。わたくしはこの辺の顕正会的表現に少し違和感を持っている。いつも言っているように顕正会員がどう感じるかではなく、一般の大多数の人たちがどのような印象を持つか考えるべきだろう。

次も一月度総幹部会での登壇である。八十二歳になる男性婦人部員は、昨年の十一月に創価学会から入会してきたという。

 正本堂が建設されたとき、御遺命の戒壇がなぜ「民衆立」で建つのか、広宣流布した後に建つはずなのに早いのではないかと疑問に思いましたが・・・

今までも同様の指摘を繰り返してきた。はたしてこれは本当の記憶なのか、それとも顕正会に入ってから作られたウソの記憶なのか、である。

創価学会に入ったのは昭和三十七年と書かれている。ゆえに国立戒壇のことは教わっていたかもしれない。ただし、ついこの間まで創価学会に在籍していて、顕正会の婦人部員が熱心に折伏しても、最初の頃は反発していたのだ。次のくだりが象徴的である。

 その後、何度も話を聞いたものの入会する気は起きず、反対に「四菩薩は大聖人様と牧口、戸田、池田の歴代会長のこと」と言い放つほど、どっぷり学会に入れ込んでいました。

興味深い話である。カギカッコは創価学会の公式見解なのだろうか?

ともかく前掲の話が眉唾なのは、創価学会にどっぷり浸かっていれば記憶が上書きされていくからである。正本堂の意義付けにしても異議を唱えていたのは妙信講だけであって、当時は宗門全体が正本堂を讃嘆していたのである。その中で疑問が湧いてくるような人が、まさか五十八年間も真面目に活動を続けられるとは思えない。

 また当時は正本堂が完成するまでに広宣流布が達成するかもしれないとの期待があった≠ニいうのも詭弁である。

前回、紹介させていただいたものであるが、客観的には広宣流布達成が困難だったとしてもそのような期待を懐いていたのは事実なのだろうと思う。言葉を換えればポジティブだった。妙信講だけがネガティブだった。

現状はこれが逆転している。顕正会ばかりがポジティブで、宗門にしても創価学会にしてもネガティブとは言わないまでもかなり冷静である。

話が流動的になってしまったが、三十年後くらいに俯瞰すれば同じ轍を踏んでいる可能性は否定できない。上掲を少し書き換えて、当時は広宣流布が達成するかもしれないとの期待があった、と。顕正会が三十年後に言っていそうなセリフである。

顕正新聞第1535号は一月度班長会の記事を中心に組まれている。

すべてを逆算しておられるのだ・・・

総男子部長の発言である。前後の文章を読んだだけでは見えてこないのだが、これはきわめてノルマチックな響きを感じる言葉である。早い話が広宣流布のゴールは決まっているので、そこから逆算していつまでにこれだけのノルマを達成しないといけないという、プレッシャーが掛けられているのだ。

男子部は誓願を敢えて低く抑えて下さった先生に、全組織の誓願大勝利を以てお応えしてまいります。

アゲアシ取りとは承知するものの、誓願を低く抑えるとは何事かと言いたい。ようは誓願の名を借りた、実質的にはノルマに他ならないのである。

それよりすでに二十余年、弟子の死身弘法が遅れては大へん申しわけなく・・・

婦人部第八総部幹事(神奈川・近畿・山陰)の発言も、イジワルな見方ながらも課せられたノルマが達成できずにいる己の不甲斐なさを吐露しているように読めてしまう。

五級試験の合格者について見ておこう。

第二十男子部、第三十八男子部、第六十二女子部、第五婦人部

これらは合格者がたったの一名だった組織である。しかも第二十男子部は明らかに女性とわかる名前が記されている。これが組織の実態である。

第十六男子部、第三十三女子部、第三十二婦人部、第三十三婦人部

これらはさらに深刻で、なんと合格者がゼロなのだ。

先々週の拙稿では四級試験のことを取り上げた。さらに後日には登用試験の合格者について確認するつもりである。もともと欠番になっている組織であれば合格者がゼロで当たり前だが、そもそもなぜに欠番なのかを考えればやはりそこにも何らかの問題があるわけなのだろう。いずれにしても合格者ゼロは深刻である。

男子部の組織単位で説明しよう。

かつては隊が最高単位だった。隊で合格者がゼロとなれば恥だった。とりわけ登用試験であれば、新しい人材がまったく育っていないことを意味するからである。一年間、いったい何をやっていたのか、ということになる。
今は組織の単位が大幅に変わっている。表向きは発展・拡充を意味するのだろう。隊の上位概念として地方男子部がある。さらに地方男子部の上位が総部である。その上に総男子部長が君臨する。
話を戻して、複数の隊を取りまとめたものが地方男子部である。今現在の合格者発表は地方男子部別になっている。そこでの合格者がゼロなのだから、所属の隊の受験者はすべてが不合格だったことになる。何箇隊なのか不明だが、全滅である。

これが顕正会の実態である。

今日はこんなところで終わりにするが、どうも最近は顕正会批判の個人ブログが少ないように感じる。気のせいだろうか?

2021/3/25

ダンマツマ  
大沢氏はこのところ日顕上人の御指南を紹介下さっている。その中に日寛上人の御指南が引用されていて、わたくしにとってもひじょうに有益だったのだが、なんと沖浦氏が同じところに触れているのである。

大沢さんが日寛の文をアップされましたので、少々書かせて頂きます。

★「文に『本地』とは、即ち是れ本門の戒壇なり。謂わく、本尊所住の地なり、故に本地と云う。本尊所住の地、豈戒壇に非ずや。文に『甚深』とは、即ち是れ本門の本尊なり

 この文は正しいのですが、肝心の本門の本尊について、日寛は習い損なっています。


習い損ないは自分だろうが、と言いたい。

本尊所住の地、豈戒壇に非ずや。

これについては数年前から何度となく根拠を求めてきた。ところが沖浦氏は一度も根拠を示せていないのである。

ちなみに日蓮正宗信徒ないし日寛上人を尊崇する人には根拠を求めない。上人がおっしゃっているのだからそれをそのまま信受すればいい。ところが沖浦氏は上人を習い損ないだと言って憚らない。だったら本尊所住が戒壇であることについて、独自の根拠を述べるべきである。

過去以来の誇法罪障の因縁

ところで誇法とは何か? あるいは謗法の誤植だろうか?

さて、久しぶりに顕正新聞の話題である。

謀略紙「慧妙」ついに断末魔!!

藤村雄大氏が副教学部長名義で書いている。これまでは菅原克仁氏が担当していた分野のように思うのだが、なぜ交代したのだろうか?

 妙観講(講頭・大草一男)が編集しているといわれる宗門の謀略紙・・・

それにしても冒頭からいきなりツッコミを入れたくなる文章である。まず、慧妙が妙観講の機関紙であることは周知の事実であって、「編集しているといわれる」などと回りくどい言い方をする必要はないだろう。むしろ以前は、大草講頭が自ら編集している、というニュアンスのことを繰り返し書いていたのだ。その意味を込めて修正案を示せば次のごとくなるだろう。

大草一男(妙観講・講頭)が編集しているといわれる宗門の謀略紙・・・

顕正新聞であれば編集人と発行人が明記されている。慧妙がどうなっているか確認していないが、少なくとも上掲の文章であれば慧妙の編集を大草氏がやっていると読める。ところが前掲であれば大草氏はあくまで講の代表としてカッコ書きされているだけであって、具体的には誰が編集しているか不明と解するのが普通だろう。いずれにしても個人名は不明であっても妙観講が編集していることは周知の事実である。ゆえに前掲の回りくどい言い方がいかにも不審に思えるのだ。

それはともかく、内容に移ろう。

 では、はたして正本堂は「御遺命の戒壇」になり得たのか。

煩瑣になるので最小限の引用に止めるが、わたくしには次のくだりが気になる。

仮に昭和47年までに広宣流布が達成されたとしても、国家意志の表明もなく宗門だけで建てた正本堂は、およそ御遺命の戒壇にはなり得ない。

仮に、という話であれば、国家意志の表明も可能となるので宗門だけで建てたことにはならない。何を言っておるものかと思う。

しかもである。浅井先生は以前、次のようなケッタイなことを言っていた。

事実上の国立戒壇

生意気を言うようであるが、これについてはわたくしが拙ブログの中で破折した結果、浅井先生としても引っ込めざるを得なくなったらしく、すぐに言わなくなってしまった。

つまり、事実上の国立戒壇を言い出した時点で、宗門の批判はできなくなってしまったのである。自分だって同じじゃないか、ということである。

 また当時は正本堂が完成するまでに広宣流布が達成するかもしれないとの期待があった≠ニいうのも詭弁である。

これもどうかと思う。今の顕正会だって同じじゃないか、と言われたらどうするのだろうか?

藤村氏は相当に若いので当時の状況を実際には経験していない。おそらく今から三十年後くらいに顕正会も同じ批判を受けることになるだろう。その時、氏は健在だろう。少し冷静になれば想像できる話である。

 最後に、「浅井先生も正本堂を御遺命の戒壇としていた」との痴論を破しておく。

この一段は鋭いと思った。

 何より、浅井先生が正本堂を「御遺命の戒壇」と認めておられなかったことは、阿部日顕のメモが立証している。

この切り口は初めてかもしれない。

「今の正本堂は事の戒壇ではない。奉安殿が狭くなったので、広い処へ移すためだけのものである、と妙信講では指導している」

これは法華講連合会の平沢益吉委員長が妙信講に突きつけた詰問状なのだそうである。

この詰問を記した阿部日顕直筆のメモは、いま浅井先生の御手許にある。

もはや、どっちもどっち、なのだろう。純粋に当時のことを検証していけば、宗門側に後ろめたいことがたくさんある。しかし、顕正会も後年、道を誤った。理想はお互いに間違いを認めて和解することなのだが、言うは易し行なうは難しである。

2021/3/22

ドクゼン  
まず、大沢氏には数々の史資料のご紹介をたまわった。感謝申し上げたい。

次に、創価学会なんて無くなっても良い、とのヅラ系。氏の発言はその通りである。沖浦氏の主張する目的と手段の関係からして、目的が達せられた後には解散してしかるべきと思う。なお、これは顕正会でも言っていることである。

さて、そこで沖浦氏であるが、相変わらず目的と手段について確たる文証を示せていない。それでいて宗門を誹謗するとは言語道断である。

沖浦氏は日興上人の正統性について考察めいたことを書き綴っている。正確には正統性に疑義があるという方向性で大量の書き込みをしているわけであるが、基本的なところで躓いているように見える。

此誇耀に非ず法相の然らしむるのみ

これは章安という人の言葉である。

 先ず天台の弟子で天台の教えを正しく理解したのは、章安だけだという嘘をでっち上げ、その後、

こちらは沖浦氏の言葉である。

不勉強のわたくしはそれがウソなのかどうか知らない。また、天竺の大論も読んだことがないし、天台の著述も大聖人が御引用あそばす範囲でしか知らない。しかし、結論は明瞭である。

大聖人は天竺の大論よりも天台の三大部のほうが優れていると認識されていた。

先ず大聖人の弟子で大聖人の教えを正しく理解したのは日興上人だけ・・・

これは前掲の沖浦氏の文章を模倣したものである。相似形をなしていることがわかるはずである。当然、沖浦氏はこれをウソだと言いたいわけなのだろう。

しかし、違うのである。これは誇耀ではなく法相のしからしむるところなのである。

彼の天台・伝教所弘の法華は迹門なり、今日蓮聖人の弘宣し給ふ法華は本門なり、

沖浦氏の躓きが明瞭になったと思う。わたくしが再三、目的と手段について文証を求めたのはここに理由がある。日興上人と五人の相違は目的とか手段の話ではないのだ。本門と迹門の相違なのである。いわゆる本迹相対に迷っていたのが五人である。早い話が大聖人の仏法を理解できていなかった。日興上人だけが正しく理解していたのである。

なお、目的と手段について一例を示せば、次の御書が相当するのかもしれない。

譬へば塔をくむに足代をゆふが如し。念仏は足代なり、法華は宝塔なり。

現代国語では普通に使われている目的と手段であるが、大聖人の御使用語彙としては存在しない。では、そうした概念がまったく存在しなかったのか? もちろん、そうではない。

沖浦氏の目的と手段についての主張はぜんぶがぜんぶ間違っているわけではない。単純化すれば、上掲は権実相対がそのまま手段と目的に相当するので、その上位概念として本迹相対が目的と手段に相当すると考えるのは、あながち間違いではないのだ。

しかし、実際にはそれほど単純な話ではない。

本迹殊なりと雖も不思議一なり。

これをどのように捉えるかである。

昔の師は今の弟子なり。今の弟子はむかしの師なり。

沖浦氏は意図してか意図せずしてか、こうした法華の深意を無視して、自分の都合に合わせて目的だとか手段の話に持ち込もうとしているのだ。

例えば職業がある。もしかしたら大多数の人が収入を得るための手段として働いているのかもしれない。この場合、お金が本で仕事は迹となるのかもしれないが、そんな考え方の人ばかりではないだろう。職業は社会貢献なのである。つまり、世の中の役に立っている意味においては仕事そのものが目的であり、収入は副次的なものに過ぎないという考え方もあり得るのである。また、芸術家肌の人ならば、それがお金になろうがなるまいが創作活動そのものが目的なのだと考えていても不思議はない。

つまり、一つの事柄であっても、まるで正反対の捉え方もできるのである。法華最勝が独善と批判されるのは、法華最勝という結論だけを見てそのような勝手なイメージを懐いているだけの話なのだと思う。実際には物凄く柔軟性に富んでいるのだ。

では、日蓮正宗のあり方はどうなのか、と問われると答えに窮するところがあるのは事実である。

しかし、今回の話はそこではなく、日蓮正宗を批判しているはずの沖浦氏もけっこう独善的であり、実はわざわざ拙ブログのコメント欄にその証拠をたくさん残しているという話なのである。

だったらオマエはどうなのだ?

答えるまでもなかろう。独白は独善とほぼ同義と考えて差し支えない。強いて違いを言えば、他人に押し付けないのが独白だろう。独善は本人に自覚がなくても周りが迷惑している。だから困るのだ。

しまった。またしても顕正新聞を片付けられなかった。

2021/3/17

ブネン  
コメント欄が沖浦氏の独壇場と化している。氏が一人で大量に書き込んでいる。細かい内容については一々指摘しないが、いくつか大まかに書いておきたい。

 本迹は凄く大切な概念です。
 何方が大切か?
 端的に言うならこういう事です。
 別の言い方をするなら、目的と手段です。
 目的が本、手段が迹。
 これだけ理解していれば良いのです。


これは違うだろう。少なくともそれを言いたいのであれば、具体的な文証を提示すべきである。

不日に豊歳ならむと申せしかば、聞く人毎に舌を振い耳を塞ぐ。

またしてもやりおった、と思ったが、全集を確認したらおおむね合っていた。

不日に豊年ならむ・・・

立正安国論での御指南を繰り返されているわけである。年を歳と表現することはよくあることだけれども、この場合はどのように考えるべきなのか悩ましい。

わたくしはブネンと読んでいた。おそらく御会式などで奉読されるはずなので、御僧侶がどのように読んでいるか法華講員ならばご存知だろう。普通に読めばホウネンかもしれないが、いずれにしても豊歳の場合は読みようがない。ゆえになぜそのような表記になっているのかが疑問である。ちなみに平成新編では上掲のごとくだが、細かいことを指摘すると、安国論では次のようになっている。

不日に豊年ならん・・・

気がつくと、ゴチャゴチャと書いている。話が長くなっていけない。

 以下本因妙抄の偽書の部分です。

しかし、大事なところなので書いておくと、上掲は今朝の沖浦氏である。ところが一日前には次のように書いているのだ。

 本因妙抄も百六箇抄も、おそらく後世の作だと思っております。

言っていることがコロコロ変わる人である。前日にはあたかも全文が偽書であるかのように言っていたものを、今度は部分的に偽書だと言っているごとくである。どっちなんだよ、と言いたい。もっとも善意に読めば、おそらく全文が偽書であるが、少なく見積もってもすでに現時点で偽書と確定している部分がある、と言いたいのだと思われる。

いつも言っているようにわたくしは真偽論には立ち入らない。ただヘソマガリなことを言えば、大聖人だからこそ豊年を豊歳と書けるのだ。偽作者ならばそっくりそのまま書くだろう。ことに大聖人は重複を嫌って表現を変えるタイプなので、豊歳も決しておかしなことではないのである。

さて、顕正新聞である。

教学部四級試験問題を眺めていて思うのは、受験生がウンザリしそうだ、ということである。結局、登用試験から始まって、五級試験も四級試験もそれほど違わないからである。これは完全にダメだと思う。かつて四級は立正安国論が教材だった。教材は不適切な表現かもしれないが、さらに三級は開目抄だとか撰時抄など、二級は本尊抄といった具合に、いわばメニューが違ったのである。このほうがモチベーションの維持にもなるだろうし、大聖人の仏法がどれだけ奥深いものかを実感できるはずである。

ちなみに今回の出題であえてアゲアシを取るならば、次のくだりが最適である。

 いま顕正会を怨嫉する法華講員の者たちが・・・

怖ろしいもので、このようなヘンな言い回しがまかり通ってしまっている。わたくしも偉そうなことは言えないのだが、上掲はいかにもヘンである。

修正案としては次の二通りくらいが妥当だろうか?

法華講の者たちが・・・

法華講員らが・・・


さらに問題なのが合格者一覧である。

第三十五男子部、第十四女子部、第十五女子部、第二十九婦人部

これらの組織は合格者がたったの一名なのだ。他の組織はパッと見た感じで五人から十人ほどの合格者がいる。

ところがである。さらに驚くことがあるのだ。

第三十二婦人部、第三十三婦人部

合格者ゼロである。もしかしたら組織そのものが存在しないのかもしれないが、その辺はいずれ登用試験や五級試験の時にでも確認したいと思う。

2021/3/11

イモク  
まず、沖浦氏のわたくしに対する指摘は正しい。具体的には次のくだりであるが、わたくし的にはさして痛痒を感じない。

 お気の毒ですが法華経への理解がありません。

正直に言うと、法華経を通読したことがない。ゆえに勤行で読む範囲しか知らないし、それとても訓読ではないので意味がわからないで読んでいるに過ぎない。

 命の本質を解き明かした法が法華経です。

なるほど、そうなのだろうと思う。わたくしがそのように思うのは大聖人の御書を通してであって、法華経を直接的に読んでのことではない。しかし、自分では気の毒だとは思っていない。

さて、晃氏である。

いわゆる本迹について、かなり難しい議論をしているように感じる。わたくしはもっとシンプルに考えていいのではないかと思うし、実際、シンプルなのだと思う。

仏法は体のごとし、世間は影のごとし、体曲がれば影なゝめなり。

〜のごとし、は譬えを借りて説明している意味に他ならない。

白米は白米にはあらず。すなはち命なり。

一方の、〜あらず、すなはち〜なり、は譬喩即真実である。

前者は仏法と世間の関係を譬えを借りて、いわば体と影の関係なのだと仰せなのである

やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。

後者の直前にはご覧の一節がある。ゆえにちょっと見には混同してしまうのかもしれないが、これはシンプルに世間=仏法と読めばいいだろう。ちなみに、仏法は体、世間は影、の直前には次のごとくある。

仏法やうやく顛倒しければ世間も又濁乱せり。

譬えを借りて説明するならば体と影の関係になるという至極簡単な道理である。これを本迹に当てはめる必要性はどこにも見出せない。

あらゆるものごとは法華経であるが
そのものごとに本迹勝劣がある
ということでしょう
でなければ百六箇抄は存在しない


これは厄介な議論である。たぶん教科書通りの勉強ではついて行けないレベルの話だと思う。ヘンなことを言うようだが、顕正会でも創価学会でも、あるいは法華講員ないし僧侶であっても、もはや議論に参加できない人がたくさんいるに違いない。

確かに百六箇抄はあらゆる角度から本迹を論じている。何度も拝読しているが、未だにわからないところだらけである。今も大急ぎでページをめくってみたが、わたくしの能力では理解不能である。ゆえに晃氏がこれを理解した上で意見を言っているのであれば、凄いことだと思う。

しかし、これについてもわたくしはもっとシンプルに考えている。以下、少し説明したい。

 今要を以て之を言はゞ、迹・本・観心同名異義なり。始終本末共に、修行も覚道も時機も感応も皆勝劣なり。

こちらは本因妙抄のほうであるが、百六箇抄と共に重要な御相伝書としてセットで扱われることが多いので、注目すべきである。さらに引用したい。

 若し末法に於て本迹一致と修行し、所化等に教ふる者ならば、我が身も五逆罪を造らずして無間に堕ち、其れに随従せん輩も阿鼻に沈まん事疑ひ無き者なり。

いわゆる台当違目を御指南あそばしているのが本因妙抄である。前掲の迹・本・観心同名異義は、台家と当家では使っている用語が同じであってもぜんぜん違うのだ、という意味に他ならない。ゆえにここでの本迹一致の意味は、単に法華経の本門と迹門の意味ではなく、台家と当家との混同を指して一致とされているのである。ゆえに後年、日興上人は五人を厳しく責められた。当然、大聖人からの直々の御相伝を踏まえてのことと考えられる。

 五人一同に云はく、日蓮聖人の法門は天台宗なり。

 日興が云はく、彼の天台・伝教所弘の法華は迹門なり、今日蓮聖人の弘宣し給ふ法華は本門なり・・・

御法門としてはおおむねこんな感じで考えておけば間違いないだろう。

その上で余分なことを言っておくと、沖浦氏の主張は世間に迎合しているような印象がある。まるで五老僧のごとく、あたかも本迹一致の修行を奨励しているかのようだ。

晃氏の言っていることは上述のごとくではあるまいかと思う。つまり、沖浦氏に対する批判として、譬えるならば五老僧のようだと言っているわけなのだろう。単純化すれば、ただそれだけの話ではあるまいかと思うのだが、違うのだろうか?

今日も顕正新聞が片付かなかった。

2021/3/9

ツブサ  
まず、沖浦氏が二重性を云々しているので、そのことについて簡単に触れておこう。

 ここでは、仏法が本、世間は迹となります。

 この二重性を理解出来ないと、御書は分かりません。


これまでの所論をつぶさに見れば、いわば修正案を示していることになるだろう。つまり、今までは真逆のことを言っていたわけだが、さすがにそれは言い過ぎだと気がついた。そこで二重性を持ち出したわけである。何しろ仏法は体であり世間は影であると大聖人が仰せなのだから、それを真っ向から否定することはできない。いつもわたくしや晃氏に対し、文句があるなら大聖人にどうぞ、などとイヤミなことを言っているのが沖浦氏である。今回はその自己矛盾に気がついたわけなのだろう。

いずれにしてもである。わたくしの思うに、何も本迹と体影を関係づけて考える必要はなく、本迹はいわゆる法華経の本門と迹門のことであり、体と影はあくまで譬喩としての御説明と捉えるべきである。この点、議論のスタート地点から考え直さないといけない。

なお、今朝のコメントはどうかと思う。

 大聖人門下では無いですね、この志の小ささ低さは。
 創価学会は最初から世界をめざしています。


沖浦氏の言っていることは単なるアゲアシ取りである。わたくしは両者を兄弟関係と書いた。当然、創価学会を兄とし、顕正会を弟と見立ててのことである。差し当たって兄を目標にして何がいけないのだろうか?

しかもである。創価学会は最初から世界を目指している云々が本当ならば、その世界を目指している兄を目標にしているわけだから相当に志が高いことになる。

世間でありがちな話をすれば、兄は優秀、弟はぜんぜんダメ、というようなケースがあって、もはや兄に追い着こうとすら思わない人もいるのである。

ちなみに、わたくしの漠然とした印象を書けば、初期の創価学会は東洋広布を盛んに言っていた。世界広布を言うようになったのは池田大作氏が会長になってからである。

2021/3/8 21:22
投稿者:元顕正会員
200万達成の時に何かしましたっけ?
おそらく300万達成しても何もしないと私は思います。


元会員とのことだが、在籍期間が気になるところである。わたくしは二十万達成の前から百万達成の直後まで在籍しており、その後は送られてくる顕正新聞の情報を頼りにこうして情報発信を続けている。

そこでご意見についてわたくしなりの見解を書くと、三百万の時に何もしないのは詐欺に等しいので、何かしらやらないといけないのではないかと思う。ただし、前回の拙稿でも書いたように、思うような成果を上げられずにガッカリすることになる。おそらくは熱心な活動会員たちも落胆して、一国諫暁後には多くの離脱者が出る。つまり、やらなきゃ詐欺、やっても失敗、どちらを選んでもマイナスにしかならないのだ。

ちなみに二百万の時に一国諫暁をやらなかったのは、それなりの理由がある。簡単に言うと、百万の時に一国諫暁をしたが不発に終わった。この時の落胆はハンパないものだった。そこで離脱した活動会員も相当にいた。つまり、百万以降の顕正会は上昇カーブを描くどころか逆に低迷したのである。折しも『迷走する顕正会を斬る』という本が出た。熱心な活動会員たちは日々のノルマに追われて客観視することができない。しかし、わたくしは顕正会の迷走ぶりを俯瞰的に見ることができた。顕正会は流出する会員を補うために折伏のノルマをこなしているような、いわば自転車操業状態だった。それでダラダラと時間を費やして達成したのが二百万だった。ゆえに一国諫暁の準備も整っていなかったし、かつまた不発に終わった百万の時の悪夢が再現されると思えば、とてもじゃないが一国諫暁などできる状態ではなかったのだ。

矛盾したことを言えば、一国諫暁はいつでもできるのである。

かつては諫暁書を出版して書店に置いてもらうことが一つの有力な手段だった。ところが今は出版業界そのものが疲弊している意味もあって、以前と同じことをやっても効果が期待できない。いや、正確に言えば、以前だって不発だったのである、いわんや今はなおさらだろう、ということになる。

ご存知のごとく、出版業界が斜陽化しているのはインターネットの普及に原因がある。特に若者たちは紙媒体ではなく電子媒体で情報を得ている。かつまた情報発信も容易にできるのが電子媒体である。失礼ながら浅井先生の世代にはこの点がわからない。もちろん説明を受ければある程度は理解するのだろうけれども、自分自身が自由自在に使いこなせるようにならないと実感を持って理解することはできない。

紙媒体の場合、原稿を書いて、それが出版されるまでにはたくさんの工程を要する。ところがである。電子媒体は原稿を書いて終わりなのである。正確には原稿をタイプして終わりとなる。紙の原稿だとそれを機械に読み取らせないといけないが、タイピングであれば一発で終わるのだ。かく言う拙ブログも一発である。

つまり、一国諫暁もやる気になれば今すぐにでもやれるのである。

顕正会の公式ホームページに一国諫暁の文言を掲げた瞬間に、いちおうは全世界に発信されたことになる。それがインターネットというものなのだ。媒体は一つではない。ツイッターだとかフェイスブック、あるいは動画サイトもある。ネットの世界で人気のある人は、これらを複合的に上手く使いこなしている。基本、媒体そのものは無料でもある。

ただし、こうした媒体を利用することに顕正会が及び腰になることも頷けるところである。

なぜならば数字が出ちゃうからである。拙ブログだって数字にさらされている。現状、百人前後の人が閲覧している。これが多いか少ないかであるが、悲しいかな個人ブログだとほとんどゼロに近いアクセス数の人も少なくないので、その意味では百人もいれば御の字かもしれない。だが、顕正会がそんな数字だったらオシマイだろう。いちおう二百万人を謳っているのだから、そのくらいのアクセス数を集めないと話にならない。ようは電子媒体を利用すると、そうした数字上の欺瞞がバレちゃうのである。

今日は顕正新聞の話題を拾えなかった。

2021/3/8

ニソウ  
佐渡の雪山童子氏より挨拶をたまわった。現状、拙ブログは埋没してしまって、顕正会で検索しても上位には出てこない。ゆえに古くからの常連を除けば、新しい人が訪れることはほとんどない。よって氏がどのような経緯で拙ブログにたどり着いたのか不明だが、一つの情報源として役に立っているのであれば光栄である。

沖浦氏はめずらしく拙稿にコメントを寄せている。お書きになっていることは大筋で正しい。創価学会員ならば反発して当然であるし、最後の引用御書もお見事である。

浅井先生の目標は、創価学会に追い着け追い越せ、だった。

これは良い意味でも悪い意味でもそのまま使えるわけで、かつて両者が日蓮正宗の信徒団体だった時には、いわば兄弟関係にあって弟は兄を目標に頑張っていた。これは良い意味である。しかし、一方で悪い意味もあって、もともとの正宗の僧俗の中には創価学会の躍進を快く思っていなかった人たちもいた。そういう人たちにしてみれば、どうにかして創価学会をやっつけたいと内心では思い続けていたはずで、おそらくは浅井先生にもそのような気持ちがあったと推測されるのである。

毎度のように言っているが、浅井先生には大目標を掲げておきながら反古にしてしまっている事案がたくさんある。例えば一千万をいつまでに達成するみたいな話である。今はもっぱら三百万であるが、一時期、一千万を掲げていたのは厳然たる事実である。もしこれが名実ともに達成できれば、まさに追い着け追い越せが事相となる。しかし、直前にも書いたように今は三百万の目標が精一杯のところであるし、それにしたってしょせんは名目上の数字に過ぎない。

さて、顕正新聞である。

 「この重大事を、まもなく亡国に直面する全日本人に教えなければいけない」
 との三百万を急がれる先生のお心が身に迫り・・・


第十八男子部長(首都圏)の発言は相当に意味不明である。たぶん活動会員たちにはわかるのだろうけれども、一般人にはわけがわからない。そこでわたくしなりに解説を加えると、今の顕正会は力を蓄えている段階なのだ。いわゆる充電期間みたいなもので、充電完了が三百万なのである。ゆえに今は動かない、いや、動けない。

しかし、一般人は思うだろう。それが重大事ならば、すぐにでも教えるべきであると。

ここに顕正会の欺瞞がある。行き詰まりと言い換えてもいい。ようするに一国諫暁をやっても不発に終わることがわかっているから踏み出せないのだ。では三百万になったらどうするのかであるが、そこがかなり深刻なのである。やらないわけには行かない。しかし、やっても大した結果は得られない。おそらくはそこでまたしても大量の離脱者を出すことになるだろう。今まで頑張ってきた人たちも気づくのだ。ダメだこりゃと。

「浅井先生の見つめられる御馬前の戦いを早めお応えせん」

婦人部新横浜支区班長(首都圏)の発言である。これまた活動会員たちにはわかるものの、一般人にはわけがわからない。そこでわたくしなりに解説を加えると、三百万=御馬前の戦いなのである。三百万は数字だからわかる。では御馬前とは何かであるが、これは大聖人の御馬前という意味で、ようするに大聖人が大将であり、顕正会はその下で戦っているイメージなのである。

そこで先ほどの充電と併せてイメージすると、今は兵力の結集をしている段階で、十分な兵力を整えた上で大聖人の御馬前に馳せ参ずるわけである。

しかし、こうした譬喩表現は現実との齟齬・乖離が大きい。よって、その時を迎えると、なんだ、自分の描いていたイメージとはぜんぜん違う、ガッカリだ、ということになる。

さて、話は変わる。

身延派尼僧を経て入信・・・

女子部第三十三区組長(青森)は名前からして尼僧を彷彿とさせる。

〇〇妙眞

これは本名なのだろうか?

しかし、次の記述を読むと、途中で改名したとも思われる。

体が弱い私を心配した父の勧めで出家し、邪宗・身延派日蓮宗の尼になりました。

先日、自民党のわりと有名な女性議員が名前のことで問題になっていた。よくわからないが、どうやら結婚して姓が変わったらしいのだ。ところが議員として活動する時は旧姓を名乗っている。それの何が問題なのかであるが、彼女は夫婦別姓に反対の立場らしいのだ。ゆえに各方面から矛盾しているじゃないかとのツッコミを受けているわけである。

話が脱線してしまったようだが、ようは顕正会は謗法に関して物凄く潔癖であるからして、くだんの名前が尼僧時代に授かったものだとすれば問題になるだろう。

2021/3/6

ヘンイシュ  
顕正新聞第1534号を読んでいく。本号は一月度総幹部会の特集号であり、近年は名称を付すのが慣例となっている。

「総罰」特集号

一面で目を惹くのは女子部の体制である。なんと二つのグループに分割したのだ。当然、決定権は浅井先生にあるのだろう。しかし、女子部の事情は女子部の人たちがいちばんわかっているはずなので、先生が勝手に決めたとは思えない。この辺のプロセスが気になる。例えば女子部の最高幹部たちが話し合ってそのような方向性での決済を先生に仰いだとか、そういう具体的な話があれば興味深いところだが、残念ながらわたくしにはそうした情報源がまったく存在しないので真相はわからない。

聖人をあだめば総罰一国にわたる。又四天下、又六欲・四禅にわたる。

では二面から始まる会長講演を取り上げよう。ご覧の御書の続きは次のごとくである。

賢人をあだめば但敵人等なり。

わたくしは相変わらずの不勉強で、当該御文についてよくわかっていなかった。いわゆる所対によって罪の軽重があることを御指南あそばしているわけなのだろう。総罰特集号と銘打ったのも頷けるところではある。

しかし、それが現代にも当てはまるかどうかは甚だ疑問である。浅井先生の主張はここに特異性があるわけで、熱心な活動会員以外の人たちには理解し難い話である。

御遺命破壊の元凶、学会第3代会長・池田大作

めずらしい写真が使われている。まだ若い時期の日焼けしていて健康そうな姿が印象的であり、一般人の目にはなかなかの好男子に見えるのではないかと思う。

御遺命の「国立戒壇」を否定するために建てた偽戒壇・正本堂

この写真も初めてかもしれない。これまた一般人の感覚からすれば、何だかわからないけど凄い、と思うはずである。

これらは誰の判断で掲載されたのだろうか?

変異種

新型コロナの話題である。わたくしの記憶が確かであれば、最初の頃は報道各社も変異種と言っていた。しかし、途中からは変異株となって、今ではそれでほぼ統一されている。総幹部会が行なわれた一月二十三日時点でも、すでに後者が主流になっていたと思う。

それはともかく日本にもようやくワクチンが入ってきた。ところが浅井先生のみならず識者の多くが変異株の登場によってワクチンが効かなくなる可能性に言及している。するとコロナはいったいいつになったら終息するのか、まったく先が見えない状態である。

 二・三・四月法戦の目標は、少なく抑えました。

総幹部会特集号は一般人にも広く配布するつもりなのだろう。だとすると、ご覧のような発言はよろしくない。外部の人からすれば、いかにもノルマっぽいからである。
また、活動会員の立場から考えてもどうかと思うところで、すでに活動に行き詰っている人にとっては何の救いにもならない。何しろこの浅井発言を受けて、大幹部たちの多くが二月達成を云々しているからである。
つまり、外部的にも内部的にもプラス要素のない発言なのである。先生にその自覚がないところが恐ろしい。

ラップトップ

ディープ・ステート


アメリカの大統領選挙にまつわる話題である。わたくしも他人のことを言えた義理ではないが、浅井先生がカタカナ語に堪能だとは思えない。今回の話も全体としてはよくまとまっているとは思うものの、部分的にはニワカジコミの情報を書き連ねているような印象が拭えない。

 国の借金はいずれは国民が背負うことになる。まもなくハイパーインフレと重税に押し潰される国民の苦しさは、どれほどのものになるか。

まもなく、が気になる。浅井先生が言うと外れることが多いから、逆に先生のお陰で安定が保たれているのかもしれない。

 学会はまもなく音を立てて崩壊する。

これまた浅井先生のお陰で崩壊しないかもしれない。

イヤミはともかく、週刊ダイヤモンドが創価学会についての特集記事を出した。九大危機とのことだが、先生はその中から二つを取り上げている。

学会員の離反 集票マシーンの劣化

創価学会員は執行部に不信を懐き始めている。この点は今に始まったことではなく、過去にも離反者がたくさん出ている。ただ今はそれがよりいっそう顕著になってきたのかもしれない。

集票マシーンの劣化が注目である。ダイヤモンドでは具体的な数字を書いている。ようするに本年必ず行なわれる衆院選での得票数について、六百万を割るかもしれないと予測しているのだ。

時の天皇を弑し奉る・・・

不勉強のわたくしには馴染みのない表現である。これが初出なのか、以前の刊行物にも同様の表現があるのか、まったく思い出せない。

 大聖人様が広宣流布をあそばすその最終段階に御奉公が叶うとは・・・

これは浅井先生の持論であり、発言そのものに矛盾はない。しかし、わたくしの印象はひじょうに悪い。なぜならば最終段階を云々しているのは先生なのであって大聖人ではないからである。それでいて広宣流布は大聖人があそばすものだと言っているのは、何となく大聖人に責任転嫁しているように思えてしまうのである。

そんなのはオマエの勝手な印象に過ぎない、と思う人もいるかもしれない。では、次の発言はどうだろうか?

 私は前々から「20年代こそ広宣流布の決戦場」と思い定めておりましたが・・・

前々からと言っているものの、短期的にはそうでも長期的には違うだろう。つまり、もっと前には違うことを言っていた。けっこう凄いことを言っていたのだが、ぜんぶ反古になってしまった。その責任はどうするのかである。

これらのことを勘案すると、最終的には大聖人に責任をおっ被せて、それでオシマイにするつもりなのだろう。

2021/3/3

ハハノエン  
晃氏が本気を出してきた。一読して思うのは、筋の良い考え方であり、頭ごなしには否定できない、ということだ。

一方の沖浦氏は相変わらずの持論を展開している。目的がどうの手段がこうのと言っているが、しょせんは自分勝手な解釈に過ぎない。もし目的と手段について云々するのであれば、まずは大聖人がどのようにおっしゃっているかを示すべきである。

そこで両者に対して、ひとまとめに片付けてしまおう。

凡そ法華経の意は、譬喩即法体、法体即譬喩なり。

当体義抄の仰せは白米一俵御書に通ずる。白米は命なのだと。これが法華経の極意であって、単なる譬喩表現ではないとするのが大聖人の御考えである。爾前経では譬喩はあくまで譬喩であって、法体を説明するための手段に過ぎない。この点はまるで沖浦氏の主張そのものである。では晃氏の場合はどうかであるが、これは一考の余地があるのかもしれないと思う。いわゆる王仏冥合が実現していない意味においては、世間と仏法とが乖離していることになるからだ。

いずれにしても難解な議論であり、上述ではまったく説明が足りていないことを承知しているつもりである。とは言え、今はこれくらいで終わりにしておこう。

さて、顕正新聞である。

母の縁

成人式では四人の代表が登壇する。今回の四人に共通するのは、高校入学と同時に母の縁で入信した、という点である。さらに共通項を挙げれば、学校でのトラブルだろう。早い話が折伏に熱心な人たちが必ず直面する問題である。学校はまだしもと思う。なぜならば高校は三年間で卒業となるからだ。大学も普通は四年で卒業する。しかし、就職してからが問題である。同じ会社に定年までいれば三十年以上になるかもしれない。もしそこで熱心に折伏すればトラブルが起きる。そんな状態で三十年間も耐えられるのかである。実際、各種登壇記事には転職のことがわりと多く出てくる。あるいは他の宗教団体であっても同様の問題があるのかもしれないが、とりわけ顕正会の場合は深刻である。

 また小学六年生のときには登用試験、中学一年生のときには五級試験を受験・・・

男子部第四十七隊支隊長(首都圏)である。ようするに高校入学と同時に入信するのは形式的なことであって、彼らの多くは幼少の頃から勤行も実践しているし、会館にも出入りしている。もちろん母親に連れて行かれるわけだが、いわば員数合わせで集会にも参加するし教学試験も受けるのだ。当然、素直な子供だけではなく、反抗的な子供もいる。案外に大幹部の子女であっても活動していないことがある。

そこであえて余計なことを書くと、やはり教学試験は一級まで実施するべきだろう。彼は小学生の時にすでに登用試験を受けているのである。もし順調に合格し続けていれば一級に届くところまで来ているはずなのだ。ところが今の顕正会ではせいぜい三級までしか行なわれない。おかしな話である。しかもである。登用だろうが五級だろうが四級だろうがほとんど内容が変わらないのである。バカにしているのかと思う。これでは飽き飽きするだろう。離脱する理由はさまざまあるが、もしかしたらこれも一因かもしれない。

大勢の新高校生が集う中に、八〇代の父が・・・

これは女子部第二百三十四区支区長補(茨城)が八十七歳で亡くなった父親のことを語っている記事である。たまたま前述の話に関連するので紹介させていただいた。ようするに平成三十年の四月一日に水戸会館で入信したらしいのだ。そこには高校入学と同時に入信する新高校生たちが大勢いたという話である。

ここでも余計なことを書くと、別に四月一日じゃなくてもいいだろう。運転免許の更新みたいに幅を持たせてもいいし、極端な話をすれば小学生で入信してもいい。顕正会員の子女はそれでいいのだ。

最高峰の国家資格「不動産鑑定士」取得

男子部第百五十二隊班長(首都圏)の記事にはご覧の見出しがついているが、やや不審である。本文を読むと、司法試験や公認会計士に次ぐ難易度とある。その上で、不動産関係では最高峰の資格と書かれているのだ。まさに不適切な見出しと言えるだろう。誰が読んだってすべての国家資格の中で最高峰と読めてしまうはずである。

よくわからないのは、彼は不動産業界にいるのにもかかわらず、副業として不動産鑑定士事務所を開くと言っているのだ。普通、副業は本業とはまったく別の業種でなければおかしいだろう。極端な話、飲食店勤務の人がその隣に飲食店を開業して、両方を掛け持ちするみたいな話はまずあり得ない。よく聞く話としては、会社の給料だけでは生活が苦しいので、退社後に飲食店でアルバイトをするとか、逆に出社前に新聞配達をするみたいな話である。しかもかつては就業規則に副業禁止を謳っていたが、今は副業を認めるという会社が増えているそうである。日本経済の疲弊を象徴する話かもしれない。

いずれにしても登壇者は顕正会の中では異色である。何しろ顕正会員は御奉公優先であり、土日が休みで平日も残業がない会社を理想としているからである。

2021/3/2

ハイロンパ  
気がつけば三月である。めずらしくコメント欄が賑わっている。とは言え、実質的にはごく一部の投稿者が大量に書き込んでいるだけのようである。特に沖浦氏は相変わらずである。もはや一々取り上げる気にもならないが、それにしても明らかに間違いと思われる投稿があるので、そこだけは指摘しておきたい。

 ここからが本題です。
 立証は安国のための手段です。
 安国が目的、そのために立正が必要となる。
 すると、安国が本、立証が迹となります。
 目的が本、手段は迹、これは世の常識です。
 ですから、世法が勝、仏法は劣となります。
 これが大聖人思想の極意です。


立証は立正の打ち間違いだろう。相変わらずのアホである。しかし、問題はそこではない。

世法が勝、仏法は劣・・・

大聖人もさぞ迷惑していることだろう。

 世間の法が仏法の全体だと法華経は説く。

前後するが、沖浦氏は白米一俵御書を引用した上でご覧のごとく言っている。その後、ゴチャゴチャとわけのわからないことを書いて、その結論が前掲ということらしい。しかし、しょせんは沖浦氏の勝手な解釈であり、御文をこねくり回しているうちにトンチンカンな結論に至ってしまっただけの話に過ぎない。

実際には晃氏の主張を真っ向から否定するために気負い過ぎてしまったのだろう。両者のコメントを順番に追って行けば一目瞭然である。

いずれにしても答えは簡単である。世法と仏法で勝劣を云々しても仕方がない。少なくとも白米一俵御書の御指南は世法イコール仏法の意味に他ならない。それが答えである。

さて、顕正新聞の続きである。

あるとき池田大作が、側近の学会幹部の手を灰皿代わりにしていた、その傲慢な態度を目の当りにして不信は頂点に達し・・・

第五十七女子部幹事(香川・徳島)の記事である。ヤクザ映画のワンシーンにありそうだが、もしそれが事実だとしてもまさか会員たちの前でそんなことをするとは思えない。

しかし、当該記事の最大の問題点はそこではない。

学会版本尊を返納し・・・

登壇者は八十九歳になるご婦人の話を紹介しているわけだが、上掲に不審を懐かなかったのだろうか?

ご婦人は昭和三十七年に創価学会に入っている。ところが前掲のごとく池田氏の傲慢さを目の当たりにして、その後に脱会しているのだ。記事には昭和五十年に正信会に移ったとある。ならば学会版本尊とは何なのか、そこが問題である。

登壇者もどうかしているが、編集部もどうかしている。

臨終における前相と死相との関係を厳然と示されておりますが・・・

第三十八男子部長(長野)の記事にご覧の一節がある。ようは御書の一節を平易な言葉に変換しているわけなのだが、不勉強のわたくしにはちょっと疑問がある。

死する時と並びに臨終の後とに引き向けて・・・

かなり端折った引用だが、登壇者はこれを「死の前後を比較してみれば」のようなニュアンスで読んでいるのだとしたら、わたくしには誤読のように思える。

元自民党議員秘書だった九〇歳の〇〇さんは・・・

婦人部大宮北支区総班長(首都圏)の記事も凄まじい。まず上掲は具体的な議員の名前を知りたいところである。それはともかく、かつて頻度の高かった日目上人の御姿と浅井先生のお姿が重なるという話を久しぶりに目にしたような気がする。しかし、注目すべきはそこではない。もっと凄まじい記述があるのだ。

 〇〇組長は、法戦最中に姉・母・弟が相次いで病に倒れ・・・

家族三人がいっぺんに病気になったら大変であるが、続きの文章を読むと事態はもっと深刻のようである。

いま家族全員の成仏が叶った有難さを噛みしめ・・・

普通に読めば家族三人が病気で倒れそのまま亡くなったことになりそうである。

 また総班でも法戦最中、三人の組長が臨終を迎え・・・

掲載写真を見ると登壇者はそれほど高齢ではないと思われるが、冒頭の元秘書の話が象徴するように総班には高齢者がたくさんいるのだろう。一つ前の記事では法華講員の臨終のことが書かれていた。詳しい内容は紹介しなかったが、そこでは法華講員の臨終をアシザマに書いていた。しかし、上掲は逆に法華講員たちから痛烈なツッコミを食らうことになりそうである。

いよいよ広宣流布の最後の戦いへの烽火が上がった瞬間を見る思いになり・・・

第五十八女子部長(大阪)の発言はノロシの意味が悩ましい。例えば一国広布の出陣式と呼ばれるものがかつて存在した。もし同じ意味だとするとマズイだろう。

御馬前の戦い到達を急がれる先生に・・・

前後の文章を読むと、どうやら三百万達成が御馬前への到着を意味するようである。

わたくしは数年前からこの辺の微妙な表現について考えてきたが、いちおうは答えがわかったような気がする。今はすでに決戦場に突入している。ただし、それはどこか特定の場所を意味するのではなく、いわば進軍中なのだろう。このまま突き進めばやがては大聖人の御馬前へ到着する。

ところがである。ややアゲアシ取りとは承知しつつも言わせてもらえば、大聖人も馬に御乗りになって進軍されているのである。しかも大聖人のそれは駿馬である。ゆえに顕正会はいつまで経っても追いつけない。永遠に御馬前にはたどり着けないのだ。

いや、参った。顕正新聞がなかなか片付かない。


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