2021/6/9

ロウガン  
今日は顕正新聞第1544号を読むが、その前に沖浦氏にお返事申し上げねばなるまい。

まず、本物か偽物かの議論については差し控えたい。例えば今は音楽もコピー音源がたくさんある。いわゆる海賊版だが、わたくしはその音楽が聴ければ何だっていいと思っている。おそらく熱心なファンであれば、応援している歌手を一位にしたいと思って、正規版を買うのだろう。わたくしはそういうタイプではない。その意味で御本尊の効能(?)がどれも同じならば、特にこだわりはないので沖浦氏の主張も相当に有力だと思う。

しかし、それとは別の問題がある。

わたくしの記憶では平成二年の秋以降に宗門と創価学会の関係が悪化して、翌年にはどうやら修復困難の様相を呈してきた。顕正会ではそれを修羅と悪竜の合戦と言っていた。
当然、創価学会員は寺院に参詣しない、あるいはできない。すると、葬儀の問題もあるし、入信者をどうするかも問題だった。それまでは創価学会員も寺院で御授戒を受けていたのである。
創価学会は大組織であるから、上述の問題をどうするのか、全国各地から一斉に問い合わせがあったとしてもおかしくない。誰々が亡くなったけど葬儀はどうしたらいいのですか、とか、入信したいと言っている人がいるけど御授戒はどうしたらいいのですか、みたいな感じである。

ゆえに決断を迫られたのだろう。平成五年には早くも創価学会独自で本尊の下付を行なうことにした。

わたくしは今、資料なしに書いているわけだが、細かい点はともかくも大筋では合っているのではないかと思う。創価学会の本尊下付はそれほどに大事件だったのだ。ゆえに宗門側もこれには過剰に反応した。ところが顕正会は静観していた。

この点、後に法華講員たちから猛烈なツッコミを受けることになる。

正確な年月は憶えていないというか、わたくし自身も当時はリアルタイムで知らなかったことなのだが、平成十年前後に下野正信氏が本を出版した。おそらく顕正会におけるニセ本尊疑惑はここを起点にするのだろう。やはり下野氏も上述のことを指摘していた。顕正会が創価学会の本尊下付について言及しないのは自分たちにもヤマシイところがあるからだ。実際、宗門と創価学会の抗争について、当時の浅井先生は何度も言及していた。しかし、本尊下付についてはほとんど言及していない。なるほど、確かにヤマシイ気持ちがあるからなのかもしれない。

前回も書いたように、顕正会員は遥拝勤行が基本である。しかし、会館には御本尊が安置されており、いわゆる自宅拠点にも御本尊が安置されている。ちなみに会館の数は誰もが容易に知ることができるが、自宅拠点はわからない。漠然とした印象で言えば、全国津々浦々に無数に存在する。

当然、これらの御本尊の由来については、公式な説明がある。

浅井先生が何度か説明しているのだが、その複数回の説明を精査すると細かい点で齟齬がある。この点は顕正会批判を得意とする法華講員が詳しい。わたくしはほとんど用意がない。

さて、そこで沖浦氏のために簡略に説明しよう。

妙信講は妙縁寺に所属する法華講の一つだった。妙縁寺はそれなりの古刹であり、常住御本尊を多数蔵していた。また、創価学会の大躍進も手伝ってのことだろう、かつては日寛上人の御形木御本尊を下付していたので、その在庫が大量に残っていたと考えられる。
妙信講は解散処分を受けた。その時、妙縁寺の住職は妙信講の味方をしたのである。結果として御自身も日蓮正宗の僧侶としての立場を失うことになる。もちろん住職も罷免となる。
しかし、その前にくだんの常住御本尊ないし御形木御本尊を妙信講に託した。この辺の法律的な問題はまったくの不案内であるが、少なくとも妙信講が勝手に持ち出したのではなく住職が住職の権限を用いて妙信講に譲渡した。

現在、顕正会の会館ないし自宅拠点に安置されている御本尊は、すべてがかつて妙縁寺に所蔵されていた御本尊である。

これが顕正会の公式見解なのだ。

ところがである。さすがに数が合わないのではないかという指摘があるのだ。日寛上人の御形木御本尊がどれだけストックされていたか不明であるが、無限に存在するわけではあるまい。つまり、顕正会の会館ないし自宅拠点に安置されているであろう御本尊を合計すると、もはや妙縁寺所蔵のそれを上回ってしまうのではないか、という指摘である。

さらに紙質であるとかサイズであるとか、細かい指摘もあるわけだが、わたくしはそこまで承知していない。

いずれにしてもである。創価学会は平成五年に本尊の独自下付を発表した。ゆえに沖浦氏の言う本物・偽物の概念とは別に、創価学会公式のホンモノの本尊なのである。

では、顕正会はどうか、である。

もし仮に顕正会が独自に本尊を増刷しているとしたら、それはニセモノの本尊となる。頭脳明晰な沖浦氏ならば、この道理が手に取るようにわかるだろう。公式発表と違っているからである。

沖浦氏の主張を踏まえて言うならば、ニセ本尊ならぬウソ本尊となるだろうか?

しょせんは内部規定である。これが沖浦氏の常の主張ではあるわけだが、顕正会の立場はあくまでその内部規定の範疇に位置するわけである。ゆえに御本尊を勝手に作るわけには行かないのだ。

以上、今回の話は沖浦氏の言う本物・偽物とは別の意味であり、平たく言えば、浅井先生がウソツキかどうかを問うているのである。現状、顕正会員の流失が止まらないのはここに問題があるからで、普通に顕正会に失望して去っていく人も相当数いるものの、それよりも深刻なのは法華講に移ってしまう人が後を絶たないことである。当然ながら人々はホンモノを求めている。しかるに顕正会の本尊には上述の疑惑がまといついて離れない。沖浦氏にもこの深刻さが少しは伝わっただろうか?

今日は顕正新聞を取り上げるつもりだったが、上述の件で紙数を費やし過ぎたのでやめておこう。ぶっつけ本番で書いていると、こうなる。


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