2021/6/14

ダイジテン  
沖浦氏の直近のコメントについて、簡単に触れておきたい。氏は涅槃経における教師の握り拳云々を、教行証御書を引いて論証しているつもりらしい。その上で次のごとく結論している。

 御書に書いてあるのですから、納得出来ない人は、文句を大聖人にお云いなさい!

逆ではないかと思う。御書には書いていないのだ。ゆえに沖浦氏もそのものズバリの御文を見つけられずにいるわけなのだろう。

例えば、相伝ないし相承で検索すると、御書の各所に出てくる。もちろん、そこでの意味内容が日蓮正宗の主張するそれであるかどうかは別の話であるが、ともかく大聖人の御使用あそばす語彙として存在するわけである。では教師の握り拳はどうかという話なのだ。

さて、顕正新聞である。

ひれ伏すべき大聖人様をも飛び越える池田大作の大慢心を・・・

第1544号の一面で総男子部長がご覧のように発言している。ところが二面の最初に載っている副総男子部長の記事には次のごとく書かれている。

・・・浅井先生のご雄姿はあまりに眩く、大地にひれ伏す思いになったものであります。

さらに隣の副総男子部長に目を転ずると、一つ前の引用と同様のことが書かれている。

ひれ伏すべき大聖人様を飛び越える大慢心の狂態を演じたこと・・・

顕正会の幹部たちがどのようなロジックで反論してくるのか興味深いところだが、わたくしの主張は単純明快である。現代人の言語感覚として、ひれ伏す云々はかなり特殊な印象を受ける。それが大聖人一人に限って使われているのであればまだしも、浅井先生にも使われてる点がきわめて特殊なのである。

歴史的大時点の日

ところでこの表現は何なのだろうか? これもかなり特殊な印象だ。

三面の総合婦人部長の発言も拾っておきたい。

・・・平伏いたしました。

これは浅井先生に対してである。ひれ伏すも平伏もほとんど同じであって、現代感覚からするとかなり特殊な印象を受ける。

密約を反故にし・・・

本門寺改称のことを言っているごとくだが、この決定的な証拠は存在するのだろうか?

ところで最近のわたくしは女子部ビイキになっていて、今回も四面の記事を読んでいて感心することしきりだった。まず、例のひれ伏すについては、大聖人のみに使用しているごとくである。この点はたまたまなのか、事前の申し合わせによるものなのか、どちらなのだろうか?

また撰時抄の文を捻じ曲げた大謗言・・・

総合女子部長のこの発言が興味深い。顕正新聞紙上の会長講演には該当する部分が見当たらないのだ。ゆえに想像で書くわけだが、おそらくは次のごとくだろう。

 私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想・文化・一切の指導者、最高権力者である。

これが池田発言である。そして撰時抄においては次の一節が相当すると思われる。

されば日蓮は当帝の父母、念仏者・禅衆・真言師が師範なり、又主君なり。

確かに雰囲気的には似ている。

全権を託されたご覚悟で臨まれ・・・

女子部第十六総部長(近畿・中国地方)のこの発言も秀逸である。
少し前に触れたように、この全権委任の話は新解釈と考えられるのだ。以前から同じ話は繰り返し聞かされてきた。今回も話そのものはまったく同じである。ただそこに新たな解釈が付与された。ようするに創価学会と妙信講との法論はいわば創価学会対法主であり、妙信講は日達上人の代理として創価学会との法論に臨んだのだと言っているわけである。しかし、これは後付けの解釈であり、恣意的な解釈と言われても仕方がない面がある。何しろ現実的にはこの後、妙信講は日達上人によって解散処分に付されているからである。
とは言うものの、上掲の言い回しは有効であって、そのポイントとなるのが「覚悟」である。この一語が素晴らしいのだ。ようは客観的に委任されたかどうかではなく、自分がそのように思ったという点に重きを置いている。これで問題はない。

極端な話、委任状はあるのかみたいなイチャモンをつける人もいるだろう。しかし、上述のごとく、委任状のあるなし云々ではなくそのような覚悟で臨んだとするならば、まったく史実に抵触することはなく、文句のつけようがない。あとは純粋に教義上の問題だけを論ずればいいのである。

そこで五面六面に目を転ずると、副教学部長名義で教義上のことが論じられている。次回はこれを取り上げたい。


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