2022/3/21

「オチぶれ顕正会員のグチ日記」終了  
拙ブログは本稿をもって終了します。今後、新規の投稿は致しません。なお、皆さんから頂戴した貴重なコメントの数々は、残念ながらブログサービスの終了時に消滅してしまいます。必要な方は今のうちに各自で保存して下さい。では、お元気で。

2022/3/18

主師親の補遺と一月度総幹部会各種登壇  
前々回のコメント欄に貴重な投稿があった。幸か不幸か拙ブログにはコメントがたくさん寄せられる。結果として貴重な投稿が埋没してしまうのだ。

『主師親』ではなく『主師父母』という語句の使い方に何の疑問も持たないのだろうか…

疑問がないと言えばウソになるかもしれない。

『し〇し父母』の『〇』が明確に読めないものをどう判断しているのだろう…

先手を打ったわけではないが、わたくしは本文中において、専門家に任すと断わっている。例えば開目抄は長らく身延山久遠寺に所蔵されていた。ところが明治八年に火事で焼失してしまったらしいのである。ゆえに御真蹟を確認することはできない。そこで重要となるのが古写本で、身延山の歴代の誰それが写したものによれば云々かんぬんという議論になってくる。そこまで行くと、もはやわたくしの手に負えるものではない。

まったくの想像であることをお断わりしておこう。開目抄の重要な部分において、こうした論争があってなかなか結論が出ない。あるいは本尊抄にも似たような問題があって、なかなか結論が出ない。具体的には釈尊を脇士とするのか否かという問題である。不勉強で恐縮だが、教学上の最も根幹に関わる部分において、いわば永遠の論争が起きている、はたして他の仏教各派やキリスト教やイスラム教などでも同様のことがあるのだろうか?

繰り返しになるが、開目抄・本尊抄という最重要御書の最重要箇所において、簡単には結論の出ない論争が起きている。こんなことが他の宗教でもあるのかと考えると、ないような気がする。つまり、これこそが大聖人の作戦であり、我々はまんまとその作戦にハメられてしまったのである。答えがわかった途端に興味関心を失ってしまう。誰もが経験的に知っていることである。ゆえに大聖人は容易には答えが出ないような仕掛けを作ったわけである。現状、大聖人の作戦は今も活きているし、おそらくは永遠に生き続けるのだろう。

さて、顕正新聞である。

 「詳しくは言えないが、長く皇室に仕えてきた。きょうは元始祭があり、その準備のために皇居に来ていた」

第六十五女子部長(首都圏・山梨県)の活動報告に出てくるセリフである。詳しくは言えないと断わっているものの、最後のほうでは次のごとく立場を明かしている。

「自分は宮内庁のOBである」

おそらくは定年か何かで退官になったのだろう。そこで疑問だが、定年後も皇居に出入りすることができるのだろうか? もし可能だとして、その場合の立場とか名目はどのようなものなのだろうか?

 「天皇は何に向かって祈っているのですか」

これは登壇者のセリフである。

 「天照太神が祀られている伊勢神宮です」

くだんの人物のセリフである。

 私は、それこそ皇室が威光勢力を失い、国亡ぶ原因であること・・・

悩ましいところである。拙ブログのコメント投稿者として長く君臨してきた沖浦氏は、神社参詣を謗法ではないと主張している。その根拠の一つとして、内房尼御前の氏神参りの事例をしばしば挙げている。いわば伊勢神宮は天皇家にとっての氏神に相当するのだろう。つまり、沖浦氏ならば天皇の祈りも是認されると考えているはずである。わたくし自身は、本尊抄・開目抄の論争と同様で、俄かには答えを出せないと思っている。

宮古島(沖縄)でも感染爆発 10日で100倍
 医師も認める「イベルメクチン」の効果


女子部第五十七区総班長(沖縄県)は宮古島在住で病院に勤務している。いわゆるオミクロン株なのだろう、昨年末に一人が発症してからあっという間に百倍に増えたという。もうすぐ日本全土でまん延防止等重点措置が解除になるが、第六波では沖縄県が最初に大変な事態を迎えていた。当該記事はその貴重な証言と言えるだろう。

 私は個人的な考えで接種しておりませんが・・・

基本、医療従事者は優先的にワクチンを打つことができる。ところが彼女は個人的な考えから打っていないという。どのような考えなのか気になるところではある。

それはさておき、またしてもイベルメクチン云々と。

これがわたくしにはわからない。本当に効果があるのならばもっと広まっても良さそうなものだが、ほとんど話題にもならない。そこが不思議である。

さて、体験発表は三本あって、いずれも臨終についてである。その中でわたくしが注目したのは、男子部第百十二隊組長(新潟県)の記事だった。

葬儀の御供養は八万円と交通費だけであること。

ようするに顕正会儀礼室に支払う費用のことである。わたくしの記憶が確かならば、こうした具体的な金額が載るのは初めてのことである。

これまでの記事には、通夜は地元の同志が営んで告別式に儀礼室委員が呼ばれた例もあれば、通夜告別式いずれも地元の幹部で執り行なったという例もある。本部から遠い地域だと上掲に宿泊費がプラスされるのかもしれない。その辺の費用のこともあって、儀礼室を呼んだり呼ばなかったりしているのかもしれない。

三級試験合格者一覧で気になったのは、第四十男子部の記載がないことである。合格者がいなかったからなのか、それとも組織そのものが存在しないのか、登用試験の合格者一覧などと照合すればわかるだろう。それはまた後日にしたい。

国交省統計改ざん発覚で
 馬脚を露わすアベノミクス


世相閻魔帳第二十七回である。次から次へといろいろなことが起きるのですっかり忘却している事案だが、これもけっこう深刻な話である。日本経済そのものがずっと低迷しており、もはやゴマカシが利かなくなってきている。その上でコロナがあり、ロシアの傍若無人があって、世界的にも混沌とした状況である。不幸にも浅井先生の言っている通りになってきている。

2022/3/14

ブログ移転についての中間報告とその他  
ブログの引っ越しを断念した。何回かデータ移行を試みたがいずれも失敗に終わった。拙ブログは文章のみなので容量的には軽い。ところが移行できない。おそらくは一箇所でもバグがあればエラーになってしまうのだろう。三千本の記事を精査することは不可能なので、もはや諦めるしかない。ちなみに新規でブログを始めることは容易である。今からでもすぐに実現できる。よって拙ブログ終了後には新天地で新規開店することになるだろう。

沖浦氏の回答は意外だった。御書に精通している氏のことだから、何かしらの根拠をひねり出してくると想像していた。いずれにしてもである。柱・眼目・大船は直接的には同一御書の前半に出てくる大覚世尊の大橋梁・大眼目・大船師などに相当するわけであって、そこから翻って我日本の柱とならむ云々は大聖人の仏としての御自覚ないし御決意と拝することができるはずである。ことさらに大聖人を矮小化するような発言は慎むべきと思う。

さて、顕正新聞の続きである。

広宣流布の大詰め・・・

婦人部第八総部長(首都圏・近畿・中部・山陰)は、カッコが示すように担当地域がたくさんあって大変だろう。しかし、使命感に燃えていれば苦にはならない。ましてや広宣流布の大詰めともなればなおさらである。

浅井先生のお姿と重ね拝さずにはいられませんでした。

上野殿の話である。現状、上野殿は大石寺建立の大檀那であり、その功績たるや歴史的にも不動である。では浅井先生はどうかである。今のままでは破門団体の首謀者で終わることになるだろう。

忽ちに相呼応する・・・諸天の治罰の凄まじさ

ここでは省略するが、ようするに社会事象を言っているわけである。浅井先生が何かしらの発言をする。その結果として社会的な大きな出来事が起きる。彼女はそれを諸天が呼応しているのだと言っているわけである。残念ながらそのように思っているのは顕正会の幹部だけだろう。

先生が大聖人様のお褒めを賜られるその日の一点を見つめ・・・

ある意味、前掲よりも深刻である。社会的な事象については諸天の呼応かどうかは別にして現実に起きていることであるが、上掲の場合はまったく具体性がないからである。このことで言えば、わたくしには具体的なプランがある。ようするに時の猊下からお褒めを賜ることができればいいのである。猊下は時の大聖人だから・・・などと言うつもりはない。そうではなく、現実的な意味では他に選択肢がないからである。ところが浅井先生はその選択肢すら捨ててしまった。結果として上掲は単なる夢物語であり、幹部たちはそうした実現性のないことを、あたかも実現するかのごとく錯覚してしまっているわけなのだ。

妙観講一幹部、大草一党の捏造認め謝罪文
「大草一男は法華講大講頭妙観講講頭を辞すべき」と


男子部第五総部長(首都圏)の報告記事である。これについてはすでに妙観講のほうで反論し、さらに顕正会側も翌月の総幹部会で反論への反論をしている。ゆえにそれらを踏まえて書くべきところだが、わたくしはこの記事が出た段階に立ち戻って自分なりの感想を述べたいと思う。

顕正新聞には謝罪・声明文の写真が掲載されている。文面もぜんぶが読めるようになっている。逆にそれゆえに疑問に思う部分がある。

1、私、竹平〇〇は・・・

拙ブログでは個人名を控えるようにしてきた。ただし、上掲の〇〇はわたくしの判断ではなく、新聞掲載時にモザイクを掛けて読めないようにしてあるのだ。なるほど、個人情報への配慮なのだろう。

令和3年12月9日 日蓮正宗 理境坊所属妙観講 第〇支区
           竹平〇〇拇印


同じく最後も名前の部分がモザイクになっている。それはいいとして、第〇支区はどうなのだろうか?

この判断がわからなかった。

前々回の拙稿では第二十二男子部幹事について言及した。顕正新聞の表記に従えば、大久保〇〇氏と書いても差し支えないことになるだろう。しかし、わたくしはほとんど姓も名も書かず、役職名だけ紹介してきた。逆に第〇〇男子部幹事と書いたらおかしいだろうと思うのだが、世間一般の感覚ではどうなのだろうか?

以上のような理由から、第〇支区としている段階でインチキ臭いとわたくしは思った。

次にやや煩瑣ながらも比較のために紹介したい。本当は写真を見れば一目瞭然なのだが、拙ブログは画像の貼り付けすら過去に一度もやったことのない、今の時代においてはひじょうに珍しいブログなのだ。

私、竹平〇〇は平成17年の浅井会長からの対決申し入れから
逃げた法華講大講頭・妙観講講頭の大草一男が、


冒頭の二行である。次は文末の二行である。

虚偽を弄し、愚にもつかぬ弁明をしている姿は見苦しい限りであり大草一男
は法華講大講頭・妙観講講頭の職を辞すべきと思います。

手書きゆえに字数が一致しないのは当然とは言え、冒頭二行と最後の二行では字間も行間も違い過ぎる。文字も後半になるほどに小さくなっている。わかりやすく言うと、後半になって余白が少なくなって無理に詰めて書いた印象なのだ。

そこから想像されることは、すでにタイプされた見本の文面があって、あるいはタブレットなどの画面にテキストが表示されていて、それを書き写したのではないかということである。

報告記事の本文からも一つ引用しておこう。

 ついに竹平は
 「あなたたちと話していると、自分の信仰がおかしくなってきているのを感じる」と動執生疑を起こし、最後には自筆の謝罪文を書き、提出してきたのでした。


妙観講員による自筆の謝罪文とのことである。そこで謝罪文の内容について一点だけ疑問を呈しておく。

浅井会長 大草一男

浅井会長は普通かもしれない。では大草一男はどうだろうか? 妙観講員が大草講頭を呼び捨てにするだろうか?

妙観講一幹部

見出しの一部を再掲した。自筆の謝罪文には第〇支区と書かれているだけである。顕正会ならばさしずめ平会員となるだろうか?

以上、わたくしは妙観講がどのような反論をしているのか知らない。あくまで独自の見解として思いつくままに書いた。いずれ続編を書くことになるだろう。

2022/3/13

開目抄における三大誓願と主師親の三徳の関係性について  
沖浦氏はわたくしの質問を理解できなかったようである。もしくは理解しつつも答えたくなかったのかもしれない。

いわゆる開目抄の三大誓願のくだりにおいて、日蓮正宗では柱・眼目・大船を主・師・親の三徳に当てはめている。とりあえず宗門では伝統的にそのように解釈しているので、あえて根拠を求めずとも問題とはならないだろう。ところが沖浦氏は宗門を御書の読めない連中だと言っている。ならば上述については独自の根拠を述べないといけない。

なぜに柱が主で眼目が師で大船が親なのか、その理由を説明しなければいけないのだ。

沖浦氏のお陰でちょっとした発見があった。三大誓願は日蓮宗でも言っていることである。ところが彼らはそれを主師親の三徳には当てはめない。よくよく考えればそれも理由があってのことで、彼らにとっては都合が悪いからに他ならないのだ。それを今から説明しよう。

夫一切衆生の尊敬すべき者三つあり。所謂、主・師・親これなり。

開目抄の冒頭である。

日蓮は日本国の諸人に主師父母なり。

開目抄の最後の一段における最重要の御文である。

当該御書は長文であるためにボンヤリと読むと論旨がわからなくなってしまうかもしれない。ところが実に単純明快な構成なのだ。冒頭の一節と結論とが見事に一致している。これをもって日蓮正宗では大聖人を末法の御本仏と仰ぐのである。

身延系には都合が悪いからなのか、彼らは結論部分の読み方を変えている。二つの読み方を並べてみよう。

しうし父母

したし父母


前者が日蓮正宗の読み方であり、しう(主)し(師)父母(親)となる。後者は親し父母と読んで、いわば主と師を否定しているわけである。いや、否定と書くと誤解があるかもしれないので言い直すと、大聖人は主と師を省略して親だけを挙げておられるのだと彼らは主張しているようである。

さて、話を戻そう。

身延系との議論は専門家にお任せするとして、彼らが三大誓願を主師親の三徳に相当すると読まないのは上述の理由からである。すると身延系を尊崇する沖浦氏としては、ひじょうに困ったことになる。改めて問おう。

柱=主、眼目=師、大船=親

これは日蓮正宗の解釈であるが、沖浦氏は宗門を否定しているにもかかわらず、なぜに同じ解釈をするのか、その根拠はどこにあるのか、答えていただきたい。

まあ、しかし、答えを待っていても仕方がないので、話を進めたい。

ちょっと捻ったことを言うようだが、身延系が三大誓願を言うのはおかしい。甚だ手前ミソながら、大石寺が言うのは構わない。理由を説明しよう。

我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。

厳密には三つではないのだ。・・・等、だからである。「しうし」ではなく「したし」が正しいと主張するほど精密な御書の読み方をしているならば、「等」を見逃してはいけないだろう。大石寺の場合はいい意味でアバウトである。ゆえにここでの「等」は重視せず、くだんの三つをそのまま三徳に当てはめる。そこから逆戻りして三大誓願と言っているわけなのだ。

さて、開目抄から、さらにもう一つだけ引用しておこう。

 三には大覚世尊、此一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁・大船師・大福田等なり。

前掲と酷似していることに気づくはずである。ここでは釈尊について御説明されているわけだが、例のくだりでは大聖人は御自身について仰せられているのである。そこで想像を逞しくして「三には大覚世尊」を「日蓮は」に読み換えたらどうだろうか?

わたくしは異議なしである。

改めて問おう。沖浦氏は柱・眼目・大船を主・師・親であると解釈している。その根拠はどこにあるのか?

ちなみに上掲の場合、大導師=師、大眼目=師、大橋梁=主、大船師=師、大福田=親、といちおう当てはめてみたが、あくまで暫定的なものである。例えば独裁国家では独裁者が主であるのはもちろんのこと、さらに師であったり親であったりすることもある。偉大なる指導者だとか国の父とか、そんな表現を今でもどこかの国では使っているかもしれない。つまり、一つひとつを厳密に解釈する必要はないのである。

結論的には、沖浦氏は知らず知らずのうちに日蓮正宗の教義に依存してしまっているわけなのだろう。そこに気がつかず悪態をついている意味では、無邪気で可愛らしい幼児なのかもしれない。

2022/3/12

カングリ  
大沢氏とドットコム氏の連係プレーが奏功し、沖浦氏の所論は木端微塵に粉砕されてしまった。このように書くと、負け嫌いの沖浦氏のことだから何やかんやと言ってくるはずであるが、面倒臭いのであくまでわたくしの印象ではそのように映っていると言っておこう。

さらに恐縮だが、沖浦氏にはわたくしから質問しておきたいことがある。

 『我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。』
 (開目抄下)

 具体的に三徳をご説明です。
 ですから戸田先生は国士訓で、
(以下は省略)

まず、具体的に三徳を御説明されているとのことだが、おそらくは柱(主)・眼目(師)・大船(親)と言いたいわけなのだろう。しかし、なぜそのように言えるのかが問題である。

次に戸田城聖氏の国士訓において、やはり同様にそれがイコールで主師親との説明はどこにも見当たらない。どこかにそのような説明があるのだろうか?

とりあえず回答を待ちたい。

さて、ブログ移転について中間報告的なことを書くと、ひじょうに申し訳ないことが判明した。当該ブログは本文記事のみエクスポート可能であって、延べ数五万三千有余のコメントはエクスポートできないようである。ゆえにブログを移転する時に、皆さんの貴重な投稿は消失してしまうことになる。もしかしたらコンピュータに詳しい人ならばデータをうまく移行できるのかもしれないが、わたくしには無理である。まさか手動で全コメントをコピペするわけにも行かないだろうから、そこはひじょうに申し訳ないのだが、ご容赦願いたい。

晃氏推奨のブログについて書く。実は試しにインポートしてみたのだが、ダメだった。本文だけで三千本近くあるので時間が掛かるのだろうと丸一日待ってみたものの、反映されなかった。

よって今現在は、他のブログサービスで引っ越し可能なところがあるかどうか、いわば引っ越し先を思案中である。

あるいは過去の記事はすでにわたくしのパソコンにエクスポートしてあるので、それはそれで保管しておいてゼロスタートでブログを書き始めるのもいいかもしれない。

さて、顕正新聞1569号である。

「正本堂崩壊、大扉開かず」特集号

かなりバランスの悪いタイトルと思う。正本堂崩壊は大きな出来事だが、大扉開かずは大した出来事ではない。それを並べてしまっている点がいかにもアンバランスなのだ。

歴史的な講演・・・

顕正会の場合、どうだろう一年に一回くらいの頻度で歴史的が使われているような気がする。しかし、自分たちで言っちゃオシマイかもしれない。第三者が評価してこそ価値があるのだ。

 広布史上重大な二大現証・・・

これも同様である。将来、広宣流布が達成された時に、そこでようやく確定する話であって、今の段階で歴史的だとか広布史上などと云々しても、しょせんは自画自賛に過ぎない。

そもそも大扉は宗門でもそのように呼称しているのだろうか?

わたくしの勝手なイメージでは、俗な言い方をすると電動シャッターのようなものだと思っているのだが、違うのだろうか?

日本語の場合、厳密には戸と扉は異なる。ところが現代人は、その辺がゴッチャになっている。ゆえに顕正新聞を読む限りでは、どちらなのか判然としないのだ。

第二十二男子部幹事(首都圏)

一面下段の人事で目を惹いたのは、かつて男子部ナンバーツーないしナンバースリーだった人物の復活である。この人が鳴りを潜めていた理由は何だったのだろうか?

さて、二面からは一月度総幹部会の会長講演である。

信・行・学兼備の人材

これは宗門でも言うだろうし、創価学会でも言っていることである。基本、日蓮系全般で使えるフレーズのはずだが、わたくしの印象では身延系で使っているのを見聞きしない。

実に39年ぶりのインフレです。

アメリカのことらしい。

いま「食糧インフレ」は史上最悪の様相を呈するにいたった。

この辺の話は先見の明があると言えるかもしれない。前後するが、次のようなくだりがある。

 ことに食糧の中でも、小麦の主要生産国であるロシア・カナダ・米国の収穫量が激減したので世界的に需要が逼迫し・・・

日本語は難しい。わたくしの素人感覚では供給が逼迫と思えるのだが、経済オンチゆえに自信はない。それはさておき、当該講演は一月二十二日なのである。ゆえによほどアンテナを鋭くしていないとロシアとウクライナの問題には気がつかない。たぶん浅井先生もそこまでは気がついていなかっただろう。結果論ながら、このほぼ一ヶ月後に始まったロシアの軍事行動によって、食糧インフレによりいっそうの拍車が掛かったことは誰も否定できない。予言とまでは言えないが、おおむね浅井先生の発言どおりの方向に突き進んでいることになりそうである。

会長・原田稔に言わせ・・・

これ以降は過去の焼き直し的な内容ばかりであるが、重複を恐れずにいくつか取り上げようと思う。まず上掲がちょっとだけ目新しいかもしれない。今までは池田大作氏が自ら言っていたかのような説明だった。しかし、拙ブログでの指摘が目に入ったのだろうか、ここで少し修正してきた。

ただこれも本当かどうかはわからない。すでに池田氏は指示を出すような能力を失っているかもしれない。浅井先生も場当たり的であり、ある時には池田氏を生ける屍などと言ったりもしているわけだから、もしそれが事実ならば上掲はウソになるだろう。どっちかにしてほしいものである。

 これが完成したとき・・・

これもちょっとヘンかもしれない。これとは正本堂のことであり、完成は文字通り建物の完成を意味する。ところが引用している文言は完成前のものなのである。不親切な説明で恐縮だが、ようするに時系列がデタラメになっているのである。仮に浅井先生の記憶違いだとして、編集部はそれを修正せずに掲載してしまっていることになるのだが、それでいいのだろうか?

 もしこれが「言い過ぎ」や「はみ出し」で許されるならば、法然の「捨・閉・閣・抛」も、弘法の「第三戯論」も、慈覚・智証の「理同事勝」も許されることになるではないか。

悩ましいところである。かなり筋違いのようにも思えるし、逆に解釈すると浅井先生は日顕上人を高く評価していることにもなりそうである。

この大扉は電動であるが手動でも開けられる。

ずいぶん詳しいが、どこから仕入れたネタなのだろうか?

わたくしの勝手なイメージで恐縮だが、例えば金庫があるとしよう。ダイヤル錠になっている。番号を忘れてしまったらどうなるかが問題で、もしかしたら専門の鍵屋が開けてくれるのかもしれないが、それすら不可能だとすれば壊すしかないことになる。もし奉安堂のそれが誰にも開けられない状況になっていて、もはや壊すしかないとすれば相当である。正本堂崩壊に比べればまだまだではあるものの、かなりバランスが取れてくると思う。

 このような不思議は宗門七百年の歴史に曽てない。

大袈裟である。上述のごとく、ぶっ壊さないと開かないくらいになってから言うべきである。

 実はこの前年、阿部日顕は「法主」の地位に固執するあまり・・・

何回も言っている通りである。これは浅井先生の考え違いである。下衆の勘繰りと言い換えてもいい。むしろ逆の話と考えるのが自然なのだ。

日顕上人は創価学会すら破門にしてしまうほどの大法主であられる。御自分の地位に汲々とする必要などまったくない。むしろ法主の地位について明確な規定を設けられたのは後継を考えてのことである。

もし浅井先生がこれにまったく気がついていないとすれば、まだまだ未熟である。修行が足りない。逆に気がついていながら、あえて都合よく解釈しているとすれば、これは歴史的大悪人と言わざるを得ないだろう。

2022/3/9

フクエキ  
どうやら今お借りしているブログスペースは運営会社の都合で終了になるらしい。何しろ無料で使わしてもらっているのだから文句は言えない。問題は今後どうするかである。これを機会に引退するのも一つの選択肢だし、もちろん引っ越しするのも有力である。ケチな話だが、せっかくここまで続けてきたのだから、このまま終わらせてしまうのはモッタイナイという気持ちがある。ゆえに現状では移転して今後も継続する方向性で考えてはいるが、先ほども書いたように卒業もあり得る。いずれにしても最終決断はもう少し考えてからにしたい。

さて、最近のトレンドは人間日蓮のようである。これについてダラダラと議論が続いているようだが、わたくしのほうから一つだけ言っておきたい。

三徳者についてである。

又主を王といはゞ百姓も宅中の王なり。

一家の主もその範囲においては王であると仰せられている。これは師にも親にも応用できるだろう。つまり、限定的な意味では、それぞれが主であったり師であったり親であったり、あるいはその三つを同時に併せ持っていることもあり得るのだ。しかし、あくまで限定的であり、きわめて狭い範囲に過ぎない。

されば日蓮は当帝の父母、念仏者・禅衆・真言師等が師範なり、又主君なり。

まるでレベルが違う。まさにこれが宅中の王と大王との違いである。

ちなみに宅中の王は現代における主権在民の考え方にもよく合致するわけで、大聖人の時代においてすでにこのような発想があったこと自体に刮目すべきと思う。とは言え、その上位概念として大王の存在を云々している点も忘れてはならないだろう。日本においては今も皇室が存在するので、これもまた現代に合致しているのかもしれない。

さて、顕正新聞である。

住職は
 「もちろんです。御本尊も見せます。そうしないと次に進めないでしょう」と信じられないようなことを述べてきました。


男子部第十五総部長(九州)の記事でヤリダマに挙がっているのは本源寺の住職である。未入信者に御本尊を見せるかどうかの議論であるが、どうやら顕正会では見せるのは信じられないことらしい。しかし、それには矛盾があるはずだ。

顕正会でも儀礼室で葬儀を執行するだろう。その時には御本尊を奉掲する。まさか顕正会員以外は葬儀に参列させないのだろうか?

 私が「では早瀬日如管長の責任だな」と確認すると、住職は平然と「そうですよ」と言い切り、そのあまりの無道心にはもはや呆れて言葉も出ませんでした。

話が飛んで恐縮だが、ここは妙観講のことをあげつらった上で、その最終責任は御当代にあると認めさせているくだりである。

しかし、常識的に読めば違和感の拭えないところであり、むしろ誰もが登壇者の感覚を疑いたくなるはずである。何しろ住職は認めているのである。だったら無道心ではないだろう。たぶん文章にはあらわれていない住職の態度などから、一種の居直り的なものを感じてそれを無道心と言っているのだろうとは思う。ならばそれを一言でも書き加えないと通じない。総部長クラスがこのテイタラクでは困る。

もう一つ、覚命寺の話も書かれているが、面倒臭いのでやめておく。

元衆議院議員、顕正新聞をファイリング
「一生成仏・広宣流布」に感激の入信勤行!


男子部第四十一隊支隊長(群馬県)の記事には立憲民主党所属の元議員の話が出てくる。名字が出てくるので調べればわかるかもしれないが、やめておこう。失礼ながら元議員などザラにいる。現職の議員が入信したという記事ならば大注目であるが、国会議員レベルでは聞いたことがない。

婦人部日南支区総班長(宮崎県)の記事を紹介しよう。

 しかし罰は止まらず・・・

創価学会員の話である。ぜんぶを書くのが憚られるほどの不幸の連続である。上掲の続きには次のごとく書かれている。

不可抗力の事故と警察も認めたにもかかわらず、交通刑務所に二年間入ることを余儀なくされたのでした。

これがわからなかった。警察がそのように言っているにもかかわらず、なぜに服役しなければならなかったのだろうか?

こんどは消したはずのお風呂の残り炭から出火して家が全焼してしまい・・・

いつ頃の話なのかが気になった。

ちなみにわたくしは都会生まれの都会育ちであるが、幼少の頃は自宅に風呂がなかった。裕福な家は別にして、おそらく中流家庭であっても自宅に風呂がある家は少なかったと思う。つまり、銭湯が一般的だったのだ。その銭湯もかつては薪をくべて風呂を沸かしていた。

話を戻して、消したはずの残り炭というのがわたくしにはやや不審である。わざわざ消さなくても勝手に消えるだろう。風呂に入ってサッパリした後で、一々そんな作業をするものなのだろうか?

男子部第百三十四隊支隊長(新潟県)は糸魚川の市議会議員のことを書いている。

 「私はバブル崩壊からそうなると思っていた。自分の支持政党だから声高には言えないけど、だいたいバラマキなんて最低だ」

自分の支持政党が不審である。所属政党ではないのか?

 市議は入信には至りませんでしたが・・・

いわんや国会議員をやである。

さて、世相閻魔帳も気がつけば第二十六回である。わたくしは次の一節を読んで筆者の年齢を想像した。

 そのカネで遠山は高級クラブに通っていたのだろう。遊び人の「遠山」といえば「この桜吹雪に見おぼえがねぇとは言わせねぇぜ!」と悪人たちを処断していく江戸町奉行の「遠山の金さん」が想起されるが、遠山清彦は裁きを受ける悪代官だったようだ。

わたくしの勝手な印象では、これがわかるのは五十代以上と思う。四十代以下はちょっと苦しいだろう。二十代三十代はチンプンカンプンのはずだ。

ひょっとして浅井先生が自ら執筆しているのだろうか?

「次世代のリーダー」「次の次は党代表」

次世代のリーダーはその通りだった。しかし、後半はちょっと違うような気がする。わたくしの記憶が確かであれば、次は党代表、と言っていたはずなのだ。

本年夏の参院選が見物である。

もちろん注目すべきであるが、ここには相当の欺瞞がある。遠山問題が発覚したのはかなり前のことであり、彼は早々に議員辞職している。顕正会ではこの問題が影響して都議選や衆院選で公明党が負けると見ていた。ところが結果は逆だった。ことに衆院選は浅井先生的には面白くなかったらしく、結果についてはまったく言及しなかった。皇室問題を持ち出して誤魔化してしまったのだ。

 八月末に新型コロナに感染して・・・

 しかし十月に入ると敗血症を発症・・・


第十四婦人部幹事(神奈川県)は総班長の臨終を伝えている。最終的には十一月八日に亡くなったわけだが、この人もコロナの死者に含まれるのだろうか?

取り上げなかったが、婦人部延岡支区に所属する男性部員も母と叔母をコロナで亡くし、息子も中等症で二週間ほど入院したそうである。

あばら家だった池田大作の家が豪邸に変わり・・・

最後は婦人部十日町支区の男性部員である。彼は昭和三十七年の入信らしいので、それなりの古参会員ではある。池田氏とも間近でたびたび会っていたと書かれているので、その意味では上掲を信用していいのかもしれない。ただし、わたくしの漠然とした記憶では、池田氏は週刊誌ネタとしていろいろなことが言われてきたわけだが、豪邸の話は聞いたことがないのである。単にわたくしが知らないだけなのだろうか?

正本堂 工事中に
 大量の水あふれる


この小見出しの一段は次の一節で締め括られている。

 今、正本堂が御遺命を抛って建てられた魔の殿堂だったことを知り、納得するものであります。

ぜんぜん納得できない。むしろ偏向が甚だしくていけない。

地下工事における漏水は日常茶飯事である。大きな工事になればなるほど漏水が激しくなる。ましてや大石寺周辺は白糸の滝に代表されるように、ちょうど富士の地下水が湧き上がってくる場所なのである。ゆえに何の不審もないことであって、むしろ水が出ないほうがおかしいのである。

ちなみに富士の地下水に達するほどの教学力を有すると言われている人物は、浅井という名前である。浅井は浅い。こんなダジャレというかイヤミな批判もあるわけだが、深井よりも浅井のほうがいいに決まっている。大石寺周辺は押しなべて浅井なのだ。逆に天生原はどうだろう。ちょっと掘ったくらいでは水は出ないかもしれない。

誤解のないように言っておくが、上述はあくまで水の話であって戒壇論は別である。

2022/3/5

イケイ  
賢王と愚王の違いは、最終的には正法を用いるか否かで決まる。仏法の弘まる以前においては、いわば五常が正法に相当する。今日においては信教の自由という側面もあるし、各国の宗教事情の異なりなどを勘案すれば、単純に五常を当てはめることはできないし、ましてや大聖人の仏法を基準に云々しても仕方がないだろう。この場合、差し当たって基準となるのは国際ルールである。プーチンのやっていることはルール違反であり、どのような理由づけをしようとも無辜の民を死に至らしめてしまっている時点でアウトなのだ。

殷の代の濁りて民のわづらいしを、太公望出世して殷の紂が頸を切りて民のなげきをやめ、二世王が民の口ににがかりし、張良出でて代ををさめ民の口をあまくせし、此等は仏法已前なれども、教主釈尊の御使ひとして民をたすけしなり。

前時代的な発想のように思えるが、現代においても近似の事例はいくつもあるに違いない。少し悠長ながらも最も無難なのは、ロシア国民が手続きを踏んだ上でプーチンを排斥することだろう。即効性を求めるならば、太公望や張良の出現が俟たれるところだ。

さて、顕正新聞である。

日興上人は、富士一跡門徒存知事に
 「『本化国主』は広宣流布の時、必ず前生受持の『本門戒壇の大御本尊』を尋ねて、これを国立戒壇に安置し奉るべく『勅宣』を下される」
 と御自ら仰せになられていることを伺い大衝撃でありました。


今、珍しくしくじった。午前十時を過ぎたくらいだが、ここで投稿ボタンを押してしまったのだ。今から続きを書くので、この段階でご覧になっている人は午後にでも再確認されたい。

話を戻す。

婦人部第六総部長(首都圏)ともあろうものが、何を言っておるのかと思う。御書を確認すれば、上掲がどれほどデタラメであるかわかるだろう。少なくともこれは浅井流の解釈であって、これを直訳だと思ったら大間違いである。いわば浅井先生は、いくつかの御書ないし御相伝書、そして日興上人の御指南を、総合的に考えればこのようになると言っているわけなのだろう。

台湾在住22年、中国の武力統一に危機感
 亡国寸前の台湾を救う決意 肚の底から


台湾主任・男子部第五十六隊支隊長(台湾)の記事に付された見出しである。前回も書いたように、わたくしはむしろ武力統一は遠のいたと思っている。当該号は一月二十五日号であり、登壇は少なくともそれより前のものである。つまり、ウクライナのことはまったく考慮されていない。あのような傍若無人は世界中を敵に回すことになる。そこまでして台湾を攻めて何のメリットがあるのだろうか?

 このとき後醍醐天皇に奏進された申状は、他でもなく日目上人の申状であれば、天子を前にした日尊が、いま奉持した御遺骨がどなたのものか、その経緯とともに後醍醐天皇の耳に入れしめたであろうこと、むしろ当然であり・・・

第三十五男子部長(首都圏)のイメージは、日尊が後醍醐天皇に謁見して説明を行なったというものだろうか?

もしそうだとしたら、おそらくは間違いだろう。今も昔もそれほど変わらないはずで、もし浅井先生が諫暁書を今上天皇に直接渡そうと思ってもほぼ無理である。宮内庁の職員に手渡すのが精一杯に違いない。しかも相当に下っ端の役人かもしれない。そこから上司に渡って、さらにその上司に渡って、という感じになるはずで、途中で止まってしまう可能性のほうが高いかもしれない。

さはなくして或は使ひを悪口し、或はあざむき、或はとりも入れず、或は返事もなし、或は返事をなせども上へも申さず。

上掲は十一通申状の時の様子だが、男子部長クラスならば知っていてもおかしくはないだろう。推して知るべしである。

日淳上人の御遷化の際の先生のお心が重なり・・・

第十八婦人部幹事(愛媛・高知県)の発言である。たぶん引用が短くて意味不明だと思うが、結論的には日目上人と浅井先生が重なって見えると言っているわけである。次もその線で読めばいい。

すべてが浅井先生と重なっては、畏敬の念でいっぱいになりました。

前掲では省略したが、続きには「ひれ伏す思いになりました」と書かれている。つまり、日目上人と浅井先生を重ねることで、結果として先生に対してひれ伏したり畏敬の念を懐いたりしているわけである。

今現在、午前十一時を過ぎたところ。今日はこのくらいで終わりにしよう。

2022/3/4

グオウ  
当然ながらロシアによるウクライナ侵攻の話題を避けるわけには行かないだろう。

まず、この第一報を聞いた時の正直な感想は、かなり明後日の方向とは承知しつつも、浅井先生がどのような発言をするだろうか、ということだった。わたくしは中国による台湾侵攻を、少なくとも当面はあり得ないと主張してきた。ところが先生は冬季五輪が終わればすぐにでもと言っていた。皮肉にも中国ではなくロシアが動き出したという意味では、先生の予言はまたしても外れたことになるわけだが、しかし、わたくしはそうは思わなかった。何しろ先生はここ数ヶ月、中国とロシアは事実上の軍事同盟を結んでいる、と繰り返し言っていたからである。つまり、浅井先生のロジックだと、ロシアがやって中国がやらないわけがない、となるのだ。ちなみに北朝鮮もこのところかなりの頻度でミサイルを発射している。

以上のような理由から、あり得ないと思っていたことが今はあり得ると言わざるを得ない状況に変化した。今日のウクライナは明日の台湾であると、また今日の台湾は明日の日本であると、多くの識者も言っていることである。

しかし、ロシアの軍事行動が始まってから一週間を経た今の段階では、また考えが変わった。

当面、中国は動かないだろう。これが結論である。

わたくしは本日現在、浅井先生がこの問題でどのような発言をしているのか知らない。二月度総幹部会が行なわれた日付も承知していないので、タイミング的にそこで発言があったかどうかも知らないのだ。
ゆえに先生の最新の発言がどうであれ、それは後に検証することとして、台湾有事についてわたくしが否定的である理由をここに述べておくと、プーチンに対する世界中からの大バッシングを見れば、習近平も自ずと学習するはずなのである。先ほど紹介したように、浅井先生的なロジックからすると、プーチンがやって習近平がやらないわけない、という考え方もないわけではないが、むしろ逆の考え方のほうが自然だろうと思う。少なくとも当面はやらないほうが得策だと考えるのが常識的である。
よって、もし浅井先生が上述のようなロジックで発言しているとすれば、それは不見識きわまりないものであり、またしても予言が外れることになるだろう。むしろ台湾統一があるとすれば軍事的にではなく他の方法によるはずなのだ。

さて、晃氏である。

このところ盛んに投稿しているが、わたくしの立場から忠告しておくと、もう少し熟考してから投稿したらどうか、ということになる。もともと独自性の強い投稿をされていたし、それが氏の魅力であることは事実である。ゆえに内容的には賛否が分かれるものの、ご自分の主張を続けられることは大いに結構と思う。ただし、どうも連続投稿の雰囲気からしてその場の思いつきで発言してしまっているように見受けられるのだ。一方の大沢氏は理路整然とした投稿が多く、短時間でこれだけの文章が書ける意味で、他の追随を許さないものがある。この点は晃氏も見習うべきだろう。

 難じて云はく、彼の時仏法無し。故に亦謗法者無し。何に依るが故に国を亡ぼすや。答へて曰く、黄帝・孔子等治国の作方五常を以てす。愚王有りて礼教を破る故に災難出来す。

ようするに晃氏の言わんとしていることはこの御指南に基づくのだろう。しかし、これをウクライナばかりに当てはめるのは偏波の謗りを免れない。ロシアにも当てはまることなのだ。現状、ロシアは世界中を敵に回したも同然である。プーチン=愚王ということであって、その報いは必ずある。彼は事実上の独裁者であるが、いちおうは大統領選を経て権力を掌握している。ロシア国民だって、いつまでも彼を支持し続けることはあり得ない。

唐突で恐縮だが、確か池田大作氏とゴルバチョフは親交があったと思う。創価学会員が自慢していたはずである。その後に出てきたのがエリツィンで、その後がプーチンである。どうだろう。今でも創価学会はロシア首脳とパイプがあるのだろうか?

池田氏が表舞台に出てきてプーチンを説得することができれば凄いことだが、さすがにそれは無理だろう。

もう一点、安倍晋三という日本の総理大臣として最長不倒記録を樹立した人物がいる。彼は長いこと首相だったこともあり、各国の首脳とたくさん会談している。プーチンとは二十七回も会っているそうだ。彼がプーチンを説得できれば大したものなのだが、どうやら無理そうである。

たぶん世相閻魔帳でもこの点をネチネチと書くだろう。

何しろ直近のニュースでは、共産党の志位委員長と口喧嘩みたいなことをしているらしいのだ。向かっている方向があまりにもショボすぎる。いや、もちろん、これは日本共産党をディスっているのではなく、安倍元総理に対する批判である。


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