2015/1/11

本年最初の推論  
元法華講氏の所属を暴露するコメントが寄せられた。現時点では、これについて本人が何も言っていないので、わたくしがとやかく言うのは筋違いであろう。

それにしても次の一文は不審極まりないものである。

私は、大聖人様が六老僧を定められる前に、身延から大聖人様の命を受けて建立された大本山に所属する宗派の末寺に所属しています。

大聖人の命を受けて建立された大本山?

これには何か根拠があるのだろうか?

たとえば池上だとか中山だとか、これらは大聖人とその弟子檀那ゆかりの地であり、そこに後年、寺院が建てられたことは誰も疑わない。広くは大石寺もそこに含まれるわけだ。たぶん身延山久遠寺を除けば、ほぼすべての寺院がそうなのであろう。

ところが上掲によれば、久遠寺以外にも大聖人の命を受けて建立された寺院が存在するという。本当だろうか?

この点、ぜひともご回答願いたいものである。

明治期の合同云々は確かにおっしゃるとおりであるが、しかし、これと血脈相承とは無関係である。仮に現代において、強権的に日蓮宗全派合同が行なわれたとしよう。日蓮正宗といえども権力には逆らえないので、仕方なくこれに参加したとしよう。そこで管長をどうやって決めるかが問題となるが、当然ながら数の力では勝てない。ようするに日蓮正宗の法主が全派合同の管長になる可能性は低い。しかし、それはそれ、これはこれ、である。日蓮正宗の法主は大石寺の住職である。この人が次の住職に血脈相承すればいい。それだけの話である。

識字率についてはおっしゃるとおりである。ゆえに大聖人は信徒のレベルに応じて御指南あそばされている。つまり、そのレベルに応じて学んでいけばいいのである。それだけの話だ。

六老僧に関しての考察はありがたく拝見させていただいた。とは言うものの、正直なところ物足りない。考察とおっしゃるのであれば、もう少し思考のプロセスを開示したほうがよろしかろうと思う。たとえば性格上のパターンがどうのこうのと書いておられるけれども、大聖人にそのような御考えがあられたという根拠がなければ意味がない。それ以前に、その六パターンなるものがどれほどの合理性に裏付けられているのかという問題もあるわけで、もしそれにもさしたる根拠がないのであれば、もはや考察などと呼べるシロモノではないだろう。

さて、沖浦氏のほうは少々厄介である。

神社参詣についてはひじょうに難しいところで、わたくし自身も未だによくわかっていない。ただし、あの日興上人がそんな初歩的な間違いを犯すだろうかという点がどうしても解せないところであって、むしろそれが事実ならばなぜに日興上人はそのような間違いを犯したのかという意味での積極的な考察を伺いたいところである。けれども、たぶん無理だろう。なぜならば日興上人は間違っていないからである。

http://white.ap.teacup.com/ganko/1890.html

リンク先は以前の拙稿であるが、我ながらよく書けていると思う。そしてこの時は、どういうわけかコメント欄が空白である。つまり、これに誰も反論しなかった。

ということで、沖浦氏にはぜひともリンク先を踏まえて反論を書いていただきたい。

 少なくとも二箇相承が本当で、久遠寺の別当であるなら、逃げ出してはいけませんね。

これも難しい問題だ。

逆に、だから二箇相承は嘘っぱちである、というのが一般的な言い方なのだろう。それを沖浦氏はやや婉曲にというか、あるいは与えて論ずるということなのか、二箇相承が本当なら逃げ出しちゃいかん、という言い方をしているわけである。

わたくしの言えることはすべて推測でしかない。これをお断りした上で、少し考えを述べてみようと思う。

泣く子と地頭には勝てぬ

これが答えかもしれない。権力の横暴ということは今も昔も変わらないわけで、今でも冤罪事件が後を絶たない。昨年だったか、四十数年にわたって拘束されていた死刑囚が釈放されたということがあった。死刑が執行されなかったのは幸いであるものの、もはや失った時間は戻ってこない。文字通り、時は金なりである。どれほどの賠償金を積んでも贖い切れるものではないだろう。権力とは恐ろしいものである。

現代においてすらかくのごとし、いわんや鎌倉時代をやである。

又夜廻りの殿原はひとりもたのもしき事はなけれども、法華経の故に屋敷を取られたる人々なり。

大聖人は数々の法難を受けられている。門下もまたしかりである。上掲の事例は詳細不明であるものの、決して看過できないことだ。命を取られるのが最大の法難だとすれば、これはそれに匹敵する法難である。法華経のゆえに屋敷を取られるなど、信教の自由が保障されている現代ならば考えられない理不尽な出来事だ。

はきりどのの事は法門は御信用あるやうに候へども、此の訴訟は申すまゝには御用ひなかりしかば・・・

いよいよ核心に迫ってきたとお思いかもしれないが、さにあらずである。とりあえず、何が言いたいかを示すと、ご覧のように大聖人は弟子や檀那たちに対して訴訟のアドバイスをあそばされていた。他にも事例がいくつもある。

ならば、である。くだんの夜廻りの殿原たちも例外ではないはずなのだ。屋敷を取られて黙っている道理はない。何らかの訴訟を起こしたかもしれないし、それに大聖人がアドバイスされた可能性も考えられるわけだ。

しかし、すでに述べたごとく、くだんの話は詳細不明である。

つまり、大聖人の時代には弟子や檀那たちに関係するたくさんの訴訟問題があったけれども、それらがすべて御書に残っているわけではないのだ。我々が見ているのは全体の三分の二かもしれないし、三分の一かもしれない。あるいは五分の一かもしれないし十分の一かもしれない。この数字を確定することはたぶん不可能だろう。ともかくわかっていないことがたくさんあるということだ。

話を戻そう。権力の横暴、権力による理不尽な行為は、何はさておき大聖人御自身がいちばんお受けになられている。

我今度の御勘気は世間の失一分もなし。

理不尽の政道出来す。

大事の政道を破る。

去ぬる文永八年九月十二日都て一分の科もなくして佐土国へ流罪せらる。


これらは鎌倉幕府の横暴を意味する御文である。大聖人が対峙したのは主に幕府の権力者だったが、それ以外の事例も存在する。最初に示した泣く子と地頭には勝てぬもまた事実なのだ。

・・・東条左衛門入道蓮智が事に依って此の十余年の間は見奉らず。

大聖人はかつて東条景信と訴訟合戦をして勝っている。しかし、この時の訴訟で怨みを買ったものか、それが後の小松原法難に結びつくことになる。暴力団の抗争でもあるまいし、現代ならば絶対に許されない暴挙が行なわれたわけだ。そこで上掲の御文であるが、おそらく景信は公言していたのだろう、日蓮房が帰ってきたらぶっ殺す、と。ゆえに大聖人は故郷へ足を踏み入れることができなかった。その期間が十余年ということなのである。しかし、母君の危篤を聞いて、危険を顧みずに帰郷した、そこを景信が襲ったわけである。

地頭の横暴ぶりがよくわかる事例かと思う。

これらを勘案するならば、日興上人が身延を離山したことをもって、逃げちゃいかんなどとは、そう簡単には言えないだろう。原殿御返事にはけっこう詳しいことが書かれているけれども、実はそれ以外にもさまざまの要因があったかもしれないのだ。すでに説明したごとく、そうしたことどもがすべて文献として残っているわけではないのである。

はきりどのの事は法門は御信用あるやうに候へども、此の訴訟は申すまゝには御用ひなかりしかば・・・

再掲であるが、この辺がひとつのヒントではあるのだろう。いずれにしても本稿は推測の積み重ねに過ぎず、結局は何もわかっていないというのが現状なのである。

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