2015/2/1

今月最初の独白  
蝸牛という変わった名乗りの人物からコメントが寄せられている。どうやら過去にも登場したことがあるらしく、実際に調べてみたところ一年ほど前に来られていた。当時のやりとりを読むと、多少の出入りはあるものの、基本的には同じメンバーで議論が展開されている。主には沖浦氏である。結局はいつまで経っても堂々巡りの議論を繰り返しているわけだ。進歩がない。もちろん、わたくしを含めてである。

そうした中で創価学会は少しずつ変化を見せている。とりわけ昨年の十一月八日に発表された見解は大きな変化であり、自ずと反響も大きかった。そしてつい先日、教義改正についての解説が発表された。

んっ?氏が抜粋してご紹介下さっているので、感想を述べたい。

「日寛上人の教学には,日蓮大聖人の正義を明らかにする普遍性のある部分と,
 要法寺の法主が続き,疲弊した宗派を護るという要請に応えて,唯一正当性を強調する
 時代的制約のある部分があるので,今後は此の両者を立て分けていく必要がある。
 其の意味で,日寛教学の一大秘法,六大秘法という用語は,今後用いない」


これは一言、自分たちに都合が悪いから用いないと言っているようにしか見えない。それだけの話だ。

「「出世の本懐」の本義は,大聖人の御生涯において,末法万年の一切衆生の救済のために
 三大秘法を確立されたこと,それとともに,立宗以来27年目に,熱原の法難において
 農民信徒たちが大難に負けない不惜身命の信仰を示したことによって証明された
 民衆仏法の確立である。
 大聖人が「弘安2年の御本尊」を御図顕されたことも,此の三大秘法の確立と
 民衆仏法の確立という意義の中に含まれるものと考える」


問題はこちらのほうだ。

んっ?氏はこれをもって、戒壇様を否定していないとおっしゃるわけだが、しかし、いかがなものだろうかと思う。確かに否定はしていない。さりとて積極的に肯定しているようには見えない。つまり、従来の見解からすれば大幅な後退と言わざるを得ないのだ。

三大秘法の確立
民衆仏法の確立

この二項目が出世の本懐の意義だそうである。そして弘安二年の御本尊もこの意義の中に含まれるという。

含まれる・・・

これが気になる表現である。

含まれるというのは全体の一部を意味するわけだろう。含まれないよりは遥かにマシではあるが、しかし、従来は弘安二年の大御本尊がそのままイコールで出世の本懐に位置付けられていたわけだから、明らかなる後退である。より具体的に言えば、一閻浮提総与の破棄である。

三大秘法の確立とは何かが不明である。これを戒壇の大御本尊のことだとすれば、具体性において不満はない。また、将来において本門戒壇を建立するという具体的目標があれば、これも不満はない。しかし、今の創価学会にそうした考えはなさそうである。すると、結局のところ彼らは三大秘法の確立などと言っているけれども、弘安二年のあの時点において、いったい何が確立したのか、まるで説明できていないことになるのだ。

民衆仏法の確立は、まさに農民信徒たちの不惜身命こそがそれに当たるのだろう。彼らは全民衆を代表して不惜身命の振る舞いを示したわけで、これが一閻浮提総与と密接にリンクしていることは自明の理である。

つまり、創価学会側の論理を当てはめるならば、本来、民衆仏法の確立と弘安二年の大御本尊は等値の関係にあるとしなければならないはずである。なぜならば一閻浮提総与だからである。全民衆の帰依と一閻浮提総与とが同等の意義を持つ、これこそが出世の本懐の本義だろう。

此の五字は日蓮出世の本懐なり、之を名づけて事と為す。

御義口伝であるが、この続きが重要なのだ。

日本国の一切衆生の中に日蓮が弟子檀那と成る人は「衆生有此機感仏、故名為因」の人なり。夫が為に法華経の極理を弘めたるは「仏承機而応、故名為縁」に非ずや。

これが熱原の人たちと戒壇の大御本尊との、延いては全民衆と大御本尊との関係であると、こう読むのが従来の創価学会教学だったはずである。それを今回大幅に変更した。民衆仏法の確立のほうは、表現はともかくそれでいいだろう。しかし、三大秘法の確立とは何事か、アイマイにも程があるというものだ。

含むという表現に噛み付いたのは、他にも理由がある。

 一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし・・・

本尊抄だ。

そして聖人御難事には次の一節がある。

 彼のあつわらの愚癡の者どもいゐはげましてをとす事なかれ。

一念三千を識らざる者と愚癡の者どもが相似の関係にあることは誰も疑わないだろう。つまり、前者は全民衆、後者は熱原の人たちを意味するのだ。そしてこれが総別の二義に相当することも、これまた自明の理である。

ならば答えは明快だ。

大聖人のあらわされた曼荼羅御本尊はいずれも出世の本懐に相当するが、別して言えば、戒壇の大御本尊こそが本懐中の本懐である。

 大聖人が「弘安2年の御本尊」を御図顕されたことも,此の三大秘法の確立と
 民衆仏法の確立という意義の中に含まれるものと考える


再掲であるが、この文章がマズイゆえんは改行後の字並びにある。

民衆仏法の確立という意義の中に含まれる・・・

何だかオマケみたいな話ではないか。大聖人のあらわされた御本尊がオマケのわけがない。本尊抄では仏大慈悲を起こしと仰せなのだ。民衆は大慈悲に包まれる側であろう。いや、もちろん、御法門の上では逆の捌き方もあるわけだが、ここでそれを持ち出す人はおるまい。

先ほど御義口伝を引用したが、たぶん創価学会の考え方であれば最低でも等値の関係となるはずである。それをオマケみたいに扱ってどうするのかと思う。

竜門御書に引用されている法華経の一句もきわめて示唆的である。

願はくは此の功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん

おそれながら、「普く一切に及ぼし」は一閻浮提総与を示唆し、「我等と衆生と皆共に」は等値の関係を示唆すると、いちおうは解釈しておこう。

最後に重ねて申し上げる。

今回の創価学会の見解は弘安二年の大御本尊を完全否定するものではないと読める。しかしながら従来の見解に比べれば大幅な後退としか言い様がない。どうやら正宗教学を適度に否定し適度に換骨奪胎するという、早い話がイイトコ取りをして教学体系の再構築を考えているような感じがする。しかし、そんな面倒臭いことをやってどうするのかと思う。今までどおりでいいじゃないか、ということだ。

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