2015/2/2

中心概念と包摂概念  
沖浦氏の情熱には頭が下がる。よくも飽きずに投稿を続けるものと感心する。

 私は何十年もそう言って来ましたよ。

 これも何十年も言って来ました。

 少々臆病に見えます。


細かい内容は省略させていただいたが、ようするに沖浦氏は創価学会よりも先行しているわけだ。創価学会は沖浦氏が何十年も前から言い続けてきたことを、今頃になってようやく言い始めた。しかし、まだオッカナビックリで、遠慮がちに言っているだけである。これが沖浦氏の見方のようだ。

遠慮がちなのは確かにそのとおりだろう。けれども実際は違うのではないかと思う。

なぜならば、彼らは日寛上人の御指南を、あるところは用いてあるところは用いないといった、イイトコ取りを企てているようなのだが、わたくしに言わせれば実質的な全否定に近い。考えても見よ。上人は戒壇本尊本懐論者であり、それがすべてと言ってもいいのだ。ゆえに、それを抜きにしてしまったら文字通りの骨抜きであり、何も残らない。都合のいい部分だけを抽出しようなどと考えるのがそもそもの大間違いなのだ。

また、忠言は耳に逆らうではないけれども、感情論としてもどうかと思うところがある。

仮に五分五分だとしよう。日寛上人の御指南の半分は用いるが半分は用いない。現実的には無理な話だが仮にそのようにしたとする。わたくしの感覚からすれば、半分否定された時点で終わりである。つまり、半分否定されただけでも、感覚的には全否定されたに等しいくらいの衝撃を受けるものなのだ。

わたくしもここでは言いたい放題であり、宗門批判のようなことも書いてきた。おそれながら猊下に対しても批判めいたことを書いたことがある。けれども、たぶん比率としては十のうち一くらい、いや、もっと小さい値だろう。その程度の批判である。これなら批判されるほうも聞く耳を持つかもしれない。

この辺は感覚的なものなので必ずしも正確ではないけれども、おおむねこんな感じであろうかと思う。

すると、残念ながらと言うべきか、もはや創価学会は引き返せないところに足を踏み入れてしまったと考えられるのだ。つまり、今はまだ遠慮がちのように見えるかもしれないが、この先どんどんエスカレートしていく。すでに日寛上人全否定へ向けての第一歩を踏み出してしまった。これはもう、そう簡単には止められないだろう。

ところで沖浦氏は、日寛上人のあの有名な御指南、戒壇の大御本尊を究竟中の究竟・本懐中の本懐と謳われる一段に対して、次のごとく言っている。

 これは大聖人の仏法から逸脱した邪義です。

相変わらず口の減らない御仁であるが、それはさておき、問題は創価学会の見解である。現時点の見解はどうなのだろうか、当該御指南を用いるのか用いないのか、それがひじょうに気になるところである。

ともかくこれでわかっただろう。沖浦氏から見ればまだまだ腰が引けている創価学会ではあるが、日寛上人の御指南をつぶさに拝すれば拝するほど、これは使えない、ということにならざるを得ないのだ。あれも使えない、これも使えない、ぜんぶ使えない。ただ現状では、いわゆる創価学会版の本尊が足枷となっているので、全否定するわけにはいかないのだろう。矛盾が生じないように気をつけながら教義を改変していく。ご苦労なことである。

さて、今日はあまり書く気がしないので、あとは簡単に終わらせよう。

法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり。

ここに含むというキーワードが出てくる。あるいは当該御文を持ち出してきて反論を構える人がいるかとも想像したが、さすがにそこまで頭の悪い人はいなかったようである。

弘安二年の御本尊も含まれる・・・

昨日、わたくしはこれに噛み付いた。なんだこの言い方は、ケシカランではないか、ということだ。

これに対して前掲の三大秘法抄の一節を持ち出してくる人がいても不思議はないと思った。ようするに大聖人が同じような用法を使用しているのだからいいではないかというわけである。

面倒臭い議論だ。

たぶん簡単に説明するならば、構造上の違いに気づけ、ということになるだろう。法華経と三大秘法の関係は、蔵と宝物になぞらえるとわかりやすい。蔵の中に宝物がある。当たり前の話だ。
ところが創価学会の言っていることは違うのだ。出世の本懐の本義ないし意義ということだろう。つまり、蔵の話をしているわけではなく、いきなり宝物の話をしているのだ。
ゆえに、もし宝物の中の宝物とでも表現すれば大したもので、これは本懐の中の本懐と同じ意味になる。ところが彼らの言っていることは宝物の中の一つに過ぎないというニュアンスなのである。これはケシカランだろう。

一大秘法、三大秘法、六大秘法、八万法蔵

この関係を等号で結ぶか不等号で結ぶか、考えるとけっこう悩ましい。たぶん、さまざまの解釈が可能なのだろう。

たとえば包摂という概念がある。専門的には違っているのかもしれないが、わたくしは次の法華題目抄の御指南などがそれに相当するのではと思う。

此の経の一字の中に十方法界の一切経を納めたり。譬へば如意宝珠の一切の財を納め、虚空の万象を含めるが如し。

ここでは御本尊と書いておこう。御本尊の中に八万法蔵のすべてが含まれている。

これとは別に中心概念とでも言うべきものがある。先の三大秘法抄の御指南などがそれに相当するだろう。法華経の中に三大秘法がある。あるいは開目抄のいわゆる文底秘沈の御指南もそうだ。直前の説明と合わせる意味で、ここでは法華経の中に御本尊があると書いておこう。この場合、御本尊は法華経の一部分に過ぎないということではなく、ようは心臓部、すなわち中心を意味するのだ。

同じ含むという表現を使うにしても、使い方次第で意味が違ってきてしまうことが、これでよくわかったのではないかと思う。

以上、おそらく創価学会としてはいろいろ苦心した結果、あのような説明文になったのだろうけれども、わたくしに言わせればケシカランの一語に尽きる、というのが今日の結論である。

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