2015/2/18

曼荼羅道具論の終焉  
前回のコメント欄では白熱した議論が展開された。参加者こそ少ないものの内容的にはけっこう充実した議論だった。

その結果をズバリ言おう。沖浦氏の負けである。

んっ?氏の最初の一撃で勝負がついた。そこで沖浦氏はノックアウトされた格好である。

実は一年ほど前にも似たような議論があって、わたくしもあれこれと書いた。興味のある人は一昨年の暮れに遡って拙稿をご覧になられるとよいだろう。当時は学会未活動者という名乗りの人物が盛んに投稿していたが、ある日突然のごとく、消えてしまった。

物体本尊は本尊にあらず・・・

彼はこんなようなことを主張し続けていたわけだが、おそらくは己の間違いに気がついたのだろう。そこで消えた。

ところがその片棒(?)を担いでいた沖浦氏は、相も変わらず自説に固執し続けている。彼の曼荼羅道具論は事実上の破綻を来たしているにもかかわらず、ここに来て、再び持ち出してきた。

 曼荼羅は出世の本懐でも、三大秘法でもありません。
 私共が信心をするための道具です。


これに対する、んっ?氏の反論が秀逸だった。

2015/2/16 10:21
投稿者:んっ?
「百界千如は有情界に限り一念三千は情非情に亘る,
 不審して云く非情に十如是亘るならば草木に心有つて
 有情の如く成仏を為す可きや如何,
 答えて曰く此の事難信難解なり天台の難信難解に二有り
 一には教門の難信難解二には観門の難信難解なり,
 其の教門の難信難解とは一仏の所説に於て
 爾前の諸経には二乗闡提未来に永く成仏せず
 教主釈尊は始めて正覚を成ず法華経迹本二門に来至し給い彼の二説を壊る
 一仏二言水火なり誰人か之を信ぜん此れは教門の難信難解なり,
 観門の難信難解は百界千如一念三千非情の上の色心の二法十如是是なり,
 爾りと雖も木画の二像に於ては外典内典共に之を許して本尊と為す
 其の義に於ては天台一家より出でたり,
 草木の上に色心の因果を置かずんば
 木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり」(観心本尊抄)

「道具」などではない! 「非情」といえども「仏」!
誰かさんは,「道具」に帰命するのか?


結論を言えば、沖浦氏の曼荼羅道具論は易信易解の爾前権教にカテゴライズされる、ということだ。

別の言い方をすれば、沖浦氏には曼荼羅御本尊が仏様の当体であることがわからない、紙や板に認められた御文字が仏様の当体であることがわからない、とてもじゃないが信じられない、文字通りの難信難解ということなのだ。

それから蝸牛氏が常に念頭の置いているであろう、次の御書も重要である。

一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり。

これも観門の難信難解を仰せられたもので、まさに絶妙の御表現であられる。

沖浦氏にとっては、御本尊を道具としたほうが信じ易く解し易いのだろうけれども、それでは易信易解の爾前権教と見なされても文句は言えまい。習い損ないと揶揄されるのもムベナルカナだ。

以上、今回のポイントは易信易解・難信難解である。このキーワードを避けて百万言を費やしたところで、無意味である。もし自分は負けていないと思うのならば、これに正面から取り組むべきだろう。

今日はこれで終わりにしよう。実は体と用の関係について考えていたのだが、頭が悪いものだから考えがまとまらなかった。

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