2015/3/16

春の憂鬱  
各方面から熱烈なる投稿が続いている。それにしても宗門復帰という至極まともな正論に抵抗する人が、これほど多いとは驚きである。それはたぶん自己正当化の論理に基づいているのだろう。

偉そうなことを言っている人というのは、よく観察してみると、自分の都合に合わせて言っているだけの場合が多い。

自分にとっては甚だ不都合であっても、正論は正論であると、このように言える人は少ない。やはり自分が可愛いものだから、自分に不都合なことを肯定するのは難しいのだ。ゆえに自分の都合に合わせて論を組み立てる。それがバレバレだと格好悪いので、頭のいい人はそれを巧妙に行なうのだ。

そうした中で久々の投稿である高速太郎氏のそれは、わりとストレートなものであって、好感が持てるものだった。以下はじゃっかん文言を修正させていただいたものである。

宗門に復帰することですべての整合性が取れるのか?

少なくとも顕正会の場合は取れる。その理由は実に簡単である。もう今から十五年も前に御遺命守護の完結を宣言したが、この宣言には欺瞞がある。ようするに当初の青写真では、顕正会はこのタイミングで宗門に復帰していなければいけないのだ。結局はそれが実現しなかった。これがすべてと言ってもいい。

 もはや、宗門の教学では限界がある証拠では、ないでしょうか。

これはけっこう難しい問題で、確かにそういう部分もなくはないだろうと思う。しかし、物事には背景があって、それを踏まえて考えないといけない場合もある。

これも簡単な話で、ようするに破門されちゃった、破門されちゃったので仕方なく代替案を考えた、という背景があるのだ。ゆえに破門前と破門後で言っていることが違ってしまっている。これを佐前佐後になぞらえて破前破後などと言って正当化する向きもあるけれども、わたくしは甚だ疑問である。

ただし、けっこう難しい問題だと書いたのは、そうした背景、すなわち経緯ということだが、そういうもの一切抜きにして虚心坦懐に御書を拝した時にどうかという問題が常にあって、ある意味では沖浦氏がそこに果敢にアプローチしているとも言えるわけで、これはこれで真摯に取り組まなければいけないことである。法主本仏論ではないだろうけれども、宗門が権威ばかりを振りかざして頭ごなしに押さつけようとすれば、それは反発があって当然である。ゆえに、この点は高速太郎氏のおっしゃるように、宗門教学の限界というか、宗門僧侶の怠慢なのだろう。バージョンアップが必要ということだ。

そうは言っても背景ないし経緯というものがある以上、それを完全に無視することは出来ない。経巻相承ではないが、まったく日蓮正宗とは無縁の人が御書根本を唱えて宗派を立てるのならばまだしも、創価学会は過去の経緯からして正宗と無縁とは言えない。これは永遠に消えない事実なのである。

ゆえに、元の鞘に納まるのがベストであって、これこそがもっとも矛盾の少ない選択なのだ。

今日はもう書くのをやめようと思うが、たぶん、わたくしの対応に不満を懐く人もいるだろうから、間接的に応じておこうかと思う。次は大沢氏のコメントである。

浅井先生としては
「今までの顕正会の赤誠が猊下に認められて晴れて…」
と発表したいところでしょうが、そうはいかないでしょう。


わたくしの個人的願望としては浅井先生の名誉回復を期待したいところではあるのだが、おっしゃるとおり、そうは問屋が卸さないだろう。現実的にはほぼ絶望である。何しろ御相承の断絶まで言ってしまったくらいであり、今も盛んに宗門を批判してやまないのだから、ここから事態が急転換することはひじょうに考え難いことである。

そこで思うのは、この際、無条件降伏でもいい、ということである。極端なようだが、仕方がない。

わたくしを「日顕の『戒壇論』に与同・転向したヘタレ」と呼ぶ御仁もいるが、別にそんなのは構わない。さしたる痛痒を感じない。わたくしは常々、顕正会の主張する戒壇論を支持し、宗門の戒壇論のデタラメぶりを指摘してきたつもりである。今もそれに変わりはない。しかし、甚だ矛盾するようであるが、その顕正会が宗門に無条件降伏することをここに提案しておきたいと思う。


三月二十日追記:文言を修正した。

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