2015/5/14

悩み多きブログ  
相変わらずの炎上ぶり(?)である。しかし、悲しいことに、それは拙稿に対しての炎上ではなく、沖浦氏に対しての炎上なのだ。だからしっかり管理しろと言われれば、確かにそれは一理も二理もあることだが、しょせんは注意を喚起するくらいしか方法がないのも事実である。アク禁にすればいいじゃないかと思う人もいるかもしれないが、では具体的に誰をアク禁にするのかが問題である。そんなことを決められるほど、わたくしは偉くない。それならばいっそのことブログそのものを閉鎖するほうがいいだろう。

過去の不祥事云々で、めずらしくユタ氏から反論めいたコメントが寄せられた。これについては『迷走する顕正会を斬る』の一節を参考にされたい。

 完工式への異教徒参列が堂宇を汚し、その不浄が二度と永遠に解除されないとする浅井説は、道理を欠いた詭弁だと言わざるを得ない。

キリスト教の神父が正本堂を汚した。その不浄は二度と永遠に解除されない。著者はこれに異議を唱えている。すなわち道理を欠いた詭弁であると。

これをそのままスライドさせると、どうやらユタ氏の言っていることも道理を欠いた詭弁になりそうである。

ホリエモンが一つのモデルケースかもしれない。有名人になればなるほど、失脚すると二度と復活できないような場合も少なくない。具体例は控えるが、覚醒剤事件などで特に重犯だと、またやったのかよ、コイツはもうダメだな、ということになる。そういう芸能人が何人もいる。ホリエモンの場合は経済事犯とでも言うのだろうか、素人のわたくしには罪状そのものがよく理解できていないのだが、ともかく刑に服したのは事実である。その彼が今は復活を遂げて、わりとテレビなどにも頻繁に出ているようである。討論番組などでは政治家や大学教授、あるいは評論家などと激論を交わしている。

彼はもともと口八丁のような感じで、若い頃からけっこう生意気なことを言っていた。それは今も変わらない。しかも他の論客たちに比べれば、今もじゅうぶんに若い。それで言いたい放題、好き勝手なことを言っているのだから、快く思わない人たちもいることだろう。

しかし、わたくしの視聴した範囲では、他の論客たちがホリエモンの過去の不祥事をあげつらうことはなかった。これが節度あるオトナの態度なのだと思う。

ただし、これを逆に言えば、沖浦氏はそれほどに怨みを買っているということなのだろう。他人から怨まれるようなことをした。まさに二度と永遠に解除されないくらいの怨みを買っている。その現証が各種掲示板ないしコメント欄に如実にあらわれている。これは怨む側の問題もさることながら、怨まれる側の問題も相当であろうということだ。どっちもどっち、喧嘩両成敗と言ってしまえば簡単だが、なぜそこまでイガミ合うのか、和解することはあり得ないのか、この辺が興味深いところではある。

何しろわたくしは顕正会の宗門復帰を唱える立場であるから、沖浦氏のケースが好ましい方向に行ってくれれば、自ずと宗門と顕正会の関係も希望が持てるのだ。

まあ、しかし、これまでの成り行きを見ていると、やっぱり絶望的と言わざるを得ないだろう。

さて、サボっている間に、顕正新聞が溜まってしまった。もはや大して書くべきこともないのだが、せっかく年間購読をしているのだから、それをムダにすることもあるまい。ということで、今日は第1341号を少し取り上げたい。

最も大事なこの五年、全員で足並み揃え猛進せん・・・

女子部総務・第二十一女子部長の記事に出てくるフレーズである。そして次は第十二婦人部長の記事だ。

国立戒壇に大御本尊様がお出ましになるまでの限られた年数・・・

前掲の五年とここでの限られた年数とは一致しない。前者は二百万達成までの年数を言っており、後者は国立戒壇が建立され大御本尊が御遷座されるまでの年数を言っているのだ。

二百万達成のほうはいいだろう。万一、多少の前後が生じても、ほぼ確実に達成されるものと考えられる。ゆえに目くじらを立てることもあるまい。

しかし、国立戒壇建立はどうか、である。

まったく見えない。これが現実である。少なくとも現時点では国家的な議論にもなっていない。ゆえに計画も立たないし、用地買収も出来ない。ましてや工事など始まる道理がない。

それでいて彼女は言うのだ。限られた年数と。何だろうね、これは。

屁理屈を書けば、限られた云々は有限という意味である。無限ではない。もし無限だとすると、先日紹介した、広宣流布しないことを広宣流布というんだ、という意味になるだろう。あるいは、広宣流布は流れそれ自体、ということかもしれない。むしろ永遠性の意味ではこちらのほうが正しいのかもしれない。もちろん彼女の言う意味は、広宣流布は必ず達成される、創価学会が言うごとき期限のない漠然とした流れなどではない、必ず達成される時が来るのだ、ということである。

まあ、しかし、これは最大限・善意に解釈した場合であって、普通は違うだろう。限られた年数と言えば、普通は想定する年数があるはずなのだ。それがもし仮に漠然としたものだとしても、おおよそ数年後であるとか十数年後であるとか、あるいは数十年後であるとか、そうした想定年数があってしかるべきである。

さて、彼女は国立戒壇建立まで、あと何年を想定しているのだろうか?

そしてその実現性はいかに?

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