2015/6/22

鬱屈とした毎日  
唯授一人の血脈相承について言えば、わたくしには沖浦氏を納得させるだけの用意がない、というのが結論である。ようするに御相伝書を用いるか否か、これが重要なポイントであって、もはや沖浦氏はそれを認めない立場なのだろう。だったら話は終わりである。これは前回も繰り返し言ったはずである。

それにしても沖浦氏は唯授一人とは書かず唯綬一人と書く、何か理由があるのだろうか?

 大聖人仏法が世界で10億人ほどの方が実践する時、世界にシンボルとしての戒壇建立の必要性が生まれます。

シンボル?

たぶん何の気なしに使った表現なのだろうけれども、まあ、これが沖浦氏の本門戒壇に対する理解度を示しているのだろう。本尊を道具と言ったり、戒壇をシンボルと言ったり、するとどうだろう、さしずめ題目はスローガンとか、そんな感じなのだろうか?

大聖人の仏法は三大秘法である。この三大秘法を名目だけで示せば、本尊と戒壇と題目ということになる。これを道具だのシンボルだのスローガンだのと言い換えてみるとどうなるか、である。ずいぶんチンケな感じがするのではないかと思う。つまりは推尊入卑ということだ。

アゲアシ取りの気味が感じられなくもないが、もう一つだけ指摘しておこう。

 殊更、伽藍としての戒壇建立にこだわる必要はございません。

このように言っていた人がである。

・・・シンボルとしての戒壇建立の必要性が生まれます。

と言うのだ。

伽藍としての戒壇建立は不必要だが、シンボルとしての戒壇建立は必要であると・・・二文を合体させれば、こうなるだろう。オイオイ、いったい何なのだ。

アゲアシ取りであるのは事実だろう。しかし、沖浦氏の理解度がこのテイタラクだというのも事実なのだ。そもそもが御書をもって説明すべしと言っておいたのに、それが出来ていないのだからどうしようもない。

ちなみに池田大作氏だったろうか、戒壇建立をモニュメントのような意味合いで言っていたことがあるけれども、これも間違いである。師匠がモニュメントと言い、弟子がシンボルと言う。師匠も師匠だが、弟子も弟子だ。カタカナ語というのは何となくわかったような気にさせてくれる意味で、ひじょうに好都合の言語である。しかし、実際には何もわかっていない。

じゃあ、オマエはわかっているのか?

このように問われれば、わかりません、と答える以外にない。大聖人の仏法をわかったつもりになるのがいちばん危ない。そしてわからない場合、さしあたっては御書の文言を忠実に拝する。これが正解である。ようは解釈をしない。解釈というものは、得てして自分の都合で文意をねじ曲げてしまうものだからだ。

以上で終わりにしよう。

ニワカ感などとずいぶん失礼なことを書いてしまったが、事実は事実である。誰もわかっちゃいない。もちろん、わたくしもである。

逆にわたくしの場合は、わからないことは正直にそのように言う習慣が身についていて、知ったかぶりをしないのだ。ゆえに今回は冒頭において唯授一人のことを書いた。結論はわからないということだ。けれどもこれは、ある意味では当たり前の話である。何しろわたくしは相承を受けていないのだから、わからなくて当然なのだ。わかっちゃったらおかしいだろう。

沖浦氏からは、これ以外に五人所破抄を中心とした詳細な論考が寄せられているが、割愛させていただくことにする。

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