2016/2/7

シブシブオウジル  
相変わらずのデタラメぶりである。

 大聖人仏法の基本を書いておきましょう。
 先ず、ご本仏とは一切衆生です。
 この点は、総別のたてわけはございません。


総別の二義を否定するとは驚きである。

沖浦氏がしばしば引用するところの船守抄には我等衆生が教主釈尊だと認められており、また、勝氏が懇切丁寧に引用している御義口伝の数々の御指南にも同様のことが説かれている。しかし、ここには自ずと総別の二義があることを知らなくてはいけない。

つまり、総じては一切衆生がそうなのであり、別しては日蓮大聖人御一人がそうなのである。沖浦氏はこの点をすっかり忘却しているらしい。

前にも言ったはずだ。まず、三徳者という考え方を知らなくてはいけない。三徳は申すまでもなく主師親の三徳だ。そしてこれは誰もがそれぞれのレベルにおいて自ずと持っている。いわゆるブンザイである。分際と書くとやや失礼なニュアンスが感じられるかもしれないが、大聖人がそのような御表現をあそばしているので、ご了解いただきたいと思う。ともかく徳というものはそれぞれのレベルで持っているものだ。

たとえば一家の主がわかりやすい。これはどれほど貧乏の家であっても、一家の主という概念は存在する。また、子供から見れば、親はそのままで師でもある。人生全般の、というよりも生活していく上での日常のさまざまのことを教わるのは、まずは親から教わるのが普通である。

つまり、○○家の主人は世間的にはどうであれ、その家の子女にとっては主師親の三徳を具備している存在なのである。

今、世間的にはどうであれ、と書いた。ようはそれぞれはちっぽけな存在であって、赤の他人からすれば主でも師でも親でもないのである。これが厳然たる事実というものだろう。

そうした中で、全人類にとっての三徳者は誰か、いや、全人類と書くと人間界に限定されてしまうのでまだ甘い、ようは一切衆生にとっての三徳者は誰か、という話をしているわけなのである。

以上、沖浦氏の言っていることがどれほどデタラメであるか、久しぶりに書かせてもらった次第である。

勝氏も勝氏だ。

日顕上人の発言を拾ってきて云々しているが、これはやや恣意的な引用の感じが拭えない。わたくしの読む限りでは、本尊抄の御文を念頭に置いて発言していらっしゃるのだろうことが明瞭なので、それほど違和感はない。強いて言えば、創価学会に対して過剰に反応していらっしゃるのだろうと思われるので、あるいは正直を旨とする上人のことだから、機会があれば行き過ぎがあったと反省の弁を述べられるかもしれない。やや気負い過ぎなのは事実であろう。

但仏界計り現じ難し、九界を具するを以て強ひて之を信じ、疑惑せしむること勿れ。

勝氏は沖浦氏に対し、百パーセント最初から仏だったら修行も何も必要ないじゃないか、という意味のことを書いているが、だったら日顕上人の御指南も善意に拝するべきだろう。

理性所具の一念三千、実相証得の一念三千

これも沖浦氏に対し、これまで繰り返し言ってきたことだ。ようするに理論上は百パーセント仏なのである。だが、しかし、実際はどうか、という話なのだ。理論上はそうでも現実的には違う。こんなことは誰だってわかることである。

以上、この線で日顕上人の御指南を拝するならば、何の不審もないことに気づくはずである。

なお、些末なことではあるものの、次のくだりがひじょうに気になった。

亦、「四条金吾殿御返事(梵音声御書)」に宣わく、

「此の法相宗は大乗なれども五性各別と申して仏教中のおほきなるわざはひと見えたり、なを外道の邪法にもすぎ悪法なり、月支 震旦 日本 三国共にゆるさず、終に日本国にして伝教大師の御手にかかりて此の邪法止め畢んぬ」

浄土宗と大聖人仏法の大きな違いの一つは、この部分にあります。


勝氏らしからぬ、トンチンカンさである。

誰もが思うだろう、あれ? 引用御書の冒頭には法相宗云々とあるのに、勝氏の説明ではヤブカラボウに浄土宗のことが出てくる、何じゃこりゃ? と。

あるいは五性各別に意味を見出しておられるのかもしれないが、しかし、文脈無視も甚だしいところだ。当該御文の前後をよく拝するべきである。

仏陀すでに仏法を王法に付し給ふ。

顕正会が国立戒壇に固執する理由の一つがこれであろうと思う。わたくしは国立戒壇の名称には固執しないが、考え方としてはほぼ一致しているつもりである。

しかればたとい聖人・賢人なる智者なれども、王にしたがはざれば仏法流布せず。


強大なる国家権力を前にしては、個人の力がいかに非力であるかを痛感させられるところで、佐渡御流罪の真っ只中にあらせられた大聖人の御心境がよくあらわれた御文と言えるかもしれない。

そしてこの御文の流れの中に、くだんの法相宗のことも出てくるのだ。

(法相宗は)大なるわざわひなれども太宗これを信仰し給ひしかば、誰の人かこれをそむきし。

以上、当該御文においては各宗の教義上の誤謬ないし問題点を破折あそばすというよりは、国家と仏法との関係性について重大なる示唆をあそばすものと拝するべきである。そして後年、三大秘法抄において王仏冥合を御指南あそばすに至って、国家と仏法の関係がどれだけ重大なことなのかに、我々はようやく気がつくことが出来るのだ。

う〜ん、しかし、不思議なものだ。

勝氏はこれを狙っていたのか? わたくしがこう書くであろうことを予想して、うまく誘導した、逆に言うと、うまく誘導に乗せられた、ということなのだろうか?

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