2005/12/23

人間の生命だけが貴重なのか?  
 では幸福とは何か。“人によってさまざまである”などという曖昧なものではなく、万人に共通する普遍的な幸福とはいったい何であろうか。
(中略)
 すなわち、生命の維持・発展が妨げられない状態を「幸福」といい、妨げられている状態を「不幸」というのである。
 ゆえに死は最大の不幸であり、またこの死をもたらすもの、すなわち生命の維持・発展を妨げるものを、人は不幸として本能的に恐れそして忌みきらう。大地震・戦争等が恐れられ、また病気・貧乏・家庭不和・仲間はずれ・軽侮されるなどが忌みきらわれるのも、これらが直接・間接あるいは肉体上・精神上の差はあっても、生命の維持・発展を妨げる要因になるからにほかならない。


顕正会員にとってはおなじみの、折伏理論書の一節である。

正直に書くと、わたくしはこの文章に少々不満がある。「生命の維持・発展が妨げられない状態が幸福である」といわれれば、そりゃそうだ、って思うけれども、しかしどうだろう、これでは消極的な意味での幸福論に過ぎないと思うのだ。つまり、「発展」はいいにしても「維持」というのはただ生きているだけのニュアンスが強いし、さらに「妨げられない」というのがまた消極的な表現である。

いわばこれは幸福のためのスタートラインであって、ここからが本当の勝負なのであろう。それぞれ自分の志望がある。けれども多くは志望どおりに行かないのが人生である。それはなぜならばライバルがいるから、競争があるからである。つまり、生命の維持はともかくとして、発展していくためには競争に勝ち抜いていかなければならない。

自利利他という言葉があるけれども、実相としては自利害他なのではあるまいか?
しょせん、多くの人は自分を利することばかり考えて他人のことなど考えはしないものである。ましてや競争相手ともなれば、どうやって相手をやっつけるか、ポストが一つしかなければ相手を蹴落とすしか己れの立身出世はないのであるから、自利利他とはならないだろう、これが世の実相である。

確かに、生命次元においては折伏理論書の説明どおりだろう。
しかし、世俗的な意味での幸福論ないし幸福観からすれば、生命の維持発展云々は如何にも場違いであって、わたくし自身はあまり実感を持てないのである。
まあ、こういうことを書くと、オマエは世俗的な名聞名利を追求しているだけの三毒ヤロウだ、みたいなことになるのだろうか?
そうすると、仏法は世俗的な意味を超越したところにある、いわゆる現世利益を否定するものだろうか?
そうではないはずだ。なぜなら顕正会員の体験発表にはきわめて即物的な利益を「功徳の体験」として発表しているものが少なくないからである。

さて、生命次元においては折伏理論書の説明どおり、とすぐ上に書いたわけだが、ここで問題になるのが不殺生戒なのだ。
われわれは生命の維持発展のために食事を必要とする。そして昨日書いたごとく、食事のために牛・豚・鳥などの多くの命を奪っているのである。つまり、人間の生命の維持発展のために、動物たちの生命を奪っている。彼ら動物たちは人間のために、生命の維持発展が妨げられてしまっているのだ。

折伏理論書の理論で行くと、食肉となるために生まれてきた動物たちは不幸である。これはどうにも覆らない事実であろう。
僧侶の肉食妻帯を批判する投稿を目にすることがあるけれども、妻帯はともかくも肉食に関してはもはや僧侶だけでは済まない問題なのではあるまいか、という思いをわたくしは懐いている。
つまり、不殺生戒をまじめに考えるならば、もはや肉食はできないのではあるまいか、と思うのだ。

これは大変なことになってきた。どうしたものだろうか?

わたくしは大の肉好きなのである。

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