2005/12/31

二而不二は難解な概念か?  
本年最後の投稿である。
だからといって特別な用意があるわけではなく、いつものようにぶっつけ本番の行き当りばったりで書いていくのみである。

いったい我らがいつ阿部日顕(上人)は戒壇の大御本尊と不二の尊体≠ニ述べたのか。昭衛よ、汝の言は文意の歪曲とすり替えである。我らは、大聖人よりの法水を受け継がれる御法主日顕上人の御内証には大聖人の御魂魄(こんぱく)が在されるのであるから、大聖人が御魂魄を墨に染めながして御顕示遊ばされた本門戒壇の大御本尊の御内証と而二不二であると汝に教えているのである。汝は、この而二不二の深意が判らないから、難しい理屈はいらぬ≠ネどと言い訳をしているにすぎないのだ。

「砕破す」からの引用である。
浅井先生の二度目の文書に対する返書に「御当代法主上人の御内証は、本門戒壇の大御本尊の御内証と而二不二にまします」という文言がある。それを先生は「阿部日顕は戒壇の大御本尊と不二の尊体」と言い換えた。これを破折班ではスリカエであり歪曲だというのである。

しかし、これはひじょうに悩ましいところだと思う。なぜならば、いわゆる「能化文書」と呼ばれるものがあって、それに「不二の尊体」という言葉が出てくるからである。能化文書というのは日蓮正宗側の見解であり、そこにこのような表現があるのだから同趣旨のことを言っているのだろうと思われても仕方がないのではないだろうか?

 「本宗の根本は、戒壇(かいだん)の大御本尊と唯授一人血脈付法(ゆいじゅいちにんけちみゃくふほう)の御法主上人であります。具体的(ぐたいてき)には、御法主上人の御指南(しなん)に随従(ずいじゅう)し、御本尊受持の信行(しんぎょう)に励(はげ)むことが肝要(かんよう)です。なぜならば、唯授一人の血脈の当処(とうしょ)は、戒壇の大御本尊と不二(ふに)の尊体(そんたい)にましますからであります。したがって、この根本の二つに対する信心は、絶対でなければなりません」
                     (大日蓮 平成三年九月号八七頁)


これはいわゆる折伏教本と呼ばれるものから引用させていただいた。

http://homepage3.nifty.com/y-maki/syakbk/260.html

宗門では「法主は大御本尊と不二の尊体である」といっているが、これは謗法の論ではないか・・・との質問が設けてあって、それの回答の中に上掲の文章が出てくるのである。
回答では、あなたの質問は能化文書(のうけぶんしょ)の一部分を曲解(きょっかい)したところから出てきたものだと言い、結論として、 あなたの質問は創価学会の曲解(きょっかい)と捏造(ねつぞう)に影響(えいきょう)されたものだと言うのである。

破折班によれば「申すべき事」は創価学会や正信会の受け売りで書かれているということらしいが、なるほどこの折伏教本の記述からしても浅井先生は創価学会の曲解と捏造に影響されていることになりそうである。

しかし、「汝は、この而二不二の深意が判らない」というが、はっきり言ってわたくしにもわからない、わかりにくい、わかりづらい、わかりがたいのである。もう少し平易な表現ができないものかと思う。

法主が大聖人様の代わりだと、即座(そくざ)にこういうことを言うと、外から非難(ひなん)されますから、よくその点に注意していただきたい

再び折伏教本からの引用であるが、これは日達上人の御指南だという。つまり、法主本仏論だとか法主信仰というような指摘はすでに先々代の時代からあったことがうかがわれる。この「外から非難される」というのは何を指しているのか、興味が惹かれるところであるが、それはともかくとしてようするに日達上人のこの御指南からしても能化文書ははなはだ不明瞭と言わざるを得ないと思うのである。わざわざ誤解されるような非難されるようなことを書く必要があったのだろうか?

ねじれ現象がある。
妙信講は兄貴分だけど弟分から情報をもらって生きている。「申すべき事」の大半が弟分からの受け売りである。
がしかし、いわゆる「法主即大聖人」批判に限っては妙信講のオリジナルといってもいいだろう。であるから、現在は情報を逆輸入しているようなものである。

かつて顕正会では質問会というのをよくやっていた。
その中で、「創価学会員から、猊下は時の大聖人である、と言われたのですがどのように応じたらよいでしょうか?」というような質問があったのである。平成二年以前に顕正会で活動していた人ならば、実際に創価学会員からそのようなことを言われたことのある人はざらにいたはずである。かく言うわたくしにしても創価学会員からそのようなことを言われた経験があるのだから、これは間違いのないことである。

何がねじれ現象かといえば、何もかもである。
かつては顕正会員がいくら道理を説いたところで、猊下は時の大聖人であるから猊下に背くものは大聖人に背くものである、と創価学会員はこの一点張りだったのだ。
その創価学会が今はご存知のテイタラクであり、顕正会もまた昨年あたりから宗門批判を強め、そのネタを創価学会から輸入しているのである。

また、邪義破折班もねじれ現象を象徴的にあらわしているのかもしれない。
というのは、護法の精神がみなぎっているのかどうか知らないが、彼らの文章の激烈さは文章だけを見るならば天下一品であり、かつての創価学会を凌駕し、また顕正会も舌を巻くところである。ようは口が汚いのだ。
護法の精神はけっこうであるが、もう少し礼節を重んじてもいいような気がする。
ある意味、創価学会や顕正会の悪い部分ばかりを真似しているような印象を強く受けるのである。
言葉はていねいでも内容が鋭ければじゅうぶん破折になるはずであり、それが大聖人の御意にもかなうであろうとわたくしは思うところである。

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