2017/6/14

梅雨寒の一日  
一大秘法に関してはマイケル氏が一本取った格好である。狭い日本の中で地域によって教えている内容が異なるとしたら、これほど面倒臭い話もないだろう。ましてや関西だけに真実を教えた、それ以外には教えなかった、などという話が本当ならば、関西以外の創価学会員はバカにされているようなものである。そんなわけがあるまい、というのが常識的な答えのはずだ。

さて、顕正新聞の話題に移ろう。第1408号だ。

 葬儀は林婦人部長の導師のもと・・・

婦人部千葉支区総班長の記事に出てくる一節である。従来、葬儀は儀礼室委員の仕事だったはずだが、今はそれが崩れつつあるのかもしれない。これがどんどん拡大していけば、創価学会の葬儀とまったく同じになってしまうだろう。もっともくだんの記事を読むと、同婦人部長の導師のもと、母と伯母と自分の四人で見送ったと書かれているので、そうした限定的なケースにのみ適用される話かもしれない。

下段には婦人部坂戸支区組長の記事があって、こちらにも葬儀のことが書かれている。

父の葬儀に
 13人の坊主


この小見出しから容易に想像がつくだろう、ようは入信前の出来事を綴っているわけだ。

近所に禪宗の曹洞宗寺院があり・・・

神主が泊りがけでお祓いに来たり・・・


なるほど、山梨県で生まれ育ったそうなので、そうした地方の旧家においては上掲のような宗教行事が当たり前のように行なわれていたわけなのだろう。それにしても葬儀の時に十三人もの僧侶が来るとは驚きである。よほどの名家なのだろう。

創価学会や顕正会をやめて宗門に移籍する人たちの理由の一つに葬儀の問題がある。そんな話をどこかで聞いたような気がするが、確かに有力な理由かもしれないと思う。他宗では十三人もの僧侶が来て盛大に葬儀を行なうのである。それと創価学会における同志葬や顕正会の儀礼室葬を比べたならば、結局は宗門に移籍して御僧侶を呼んだほうが世間的にも格好がつくと思う人がいて不思議はないわけである。

もっとも今は葬儀も相当に簡略化されてきて、むしろ上述のような意識を持っている人は古い人なのかもしれない。さりとて創価学会や顕正会の葬儀が新しいわけではなく、宗教色のない葬儀こそが今の最新のトレンドなのだろう。

どうでもよいことを書くと、禪宗の表記が気になった。しかも禪宗の曹洞宗寺院が重複的でどうかと思うのだが、いかがだろうか?

左側の記事も臨終ないし葬儀のことが書かれている。

登壇者は女子部第九十区の平会員で、班長をやっている娘さんの折伏で創価学会から入会してきたそうである。登壇者の母親も創価学会員である。

母は話は聞くものの、地域中が学会員ということもあり、「今さら変えられないよ」としがらみから抜け出せず、弟の反対もあって入会は叶いませんでした。

ところがである。

母はついに「信心は変えられないけど、自分が亡くなった時には顕正会で…」と言い始めたのです。

これは凄い話である。そして実際に顕正会儀礼室で葬儀を行なったそうなのだ。

今までのケースだと亡くなった人が名ばかりの入信で、家族親戚が大反対して儀礼室での葬儀ができず、いわゆる邪宗での葬儀を余儀なくされることがあった。そしてその娘さんないし息子さんが立場的には喪主に相当するにもかかわらず、謗法与同になるから葬儀には参列しないというような、何とも忸怩たる登壇記事が散見された。その意味からすると上掲の話はコペルニクス的な大転換である。

おそらくはパワーバランスの問題なのだろう。

ようするに顕正会員の一人ひとりが世間的な意味においても実力をつけて行けば、こうした場面場面においても有利になるわけだ。また、ごく単純に、数の論理が当てはまる話でもある。ようは顕正会の熱心な活動会員が多数を占めれば、あらゆる場面において自分たちの意見が通る。国立戒壇の建立もこの理屈だろう。当たり前過ぎる話だ。

それにしても最近の顕正新聞は臨終ないし葬儀の話が目立つ。もちろん大事な話ではあるのだが、わたくしはもっと現世利益的な体験発表がなされるべきだと思う。そのほうが入信者が増えるに違いない。

もっとも現世利益なるものが、あまりにもコドモダマシの内容であれば、返って墓穴を掘ることになるわけだが・・・

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