2019/2/10

アマネク  
マイケル氏から繰り返し質問が寄せられているので、今日はそれについて思うところを述べたい。

ペットとして、飼われている犬や猫

野良犬、野良猫その他動植物

境界線を引いてるのは、私達人間じゃないですか。
生きとし生ける「命」やのに、何故一方は塔婆を立てて一方は立てないのか。

先祖代々って言いますけど、先祖をず〜っと辿っていけば、それこそ膨大な人数がいる訳じゃないですか。

その先祖に対しては、塔婆を立てなくていいんですかね?
(簡単に言えば、直近の先祖だけ塔婆供養しなくちゃいけない理由が知りたいという感じです。)


マイケル氏はかつて日蓮正宗の信仰をしていた。すると朝晩の勤行を実践していたはずである。その勤行のいちばん最後に読み上げるのが、乃至法界平等利益云々である。

すでにこの時点で境界線云々は否定されることになるだろう。

いわゆる屠畜場では定期的に供養が行なわれている。もちろん日蓮正宗の立場からすれば他宗他門の坊さんが御経を読んでも意味がないことになるわけだが、それはさておき一般的な見地からしても我々にはすべての生き物に対する敬虔な気持ちがあって、何もペットだけを尊んでいるわけではないのだ。あるいは食事の時にいただきますと言う。丁寧な人は両手を合わせる。まさに目の前の牛や豚や鳥などの命に対して手を合わせているのだ。さらに広く捉えると、動物だけではなく植物に対してもいただきますと言っていることになるだろう。

こうした考え方は、いわゆる仏教思想における不殺生戒が背景になっているらしく、西洋人の場合はやや感覚が異なるようである。

捕鯨の問題がわかりやすい。あるいはイルカでもいいだろう。わたくしはイルカを食したことがある。
ところが西洋人はこれらに対して、可哀想だからやめるべきである、と言っているらしいのである。
そこで日本人側からは、だったら牛や豚や鳥は可哀想ではないのか、みたいな反論が発せられるわけだが、これに対する西洋人たちの反応をわたくしは知らない。

話が脱線してしまったようである。

ともかく乃至法界平等利益が答えであって、個々の塔婆を立てる立てないは些末な話である。あるいは、ペットの塔婆を立てることはそのペット一匹だけの功徳ではなく、その周辺にも功徳を及ぼすことになる、という考え方もできる。有名な中興入道御消息の御指南を思い起こすべきである。

去りぬる幼子のむすめ御前の十三年に、丈六のそとばをたてゝ、其の面に南無妙法蓮華経の七字を顕はしてをはしませば・・・

あえて続きの御文を省略したが、あとはマイケル氏の信心に委ねるのみである。御書を紐解いてしっかりと拝読するべきだろう。

直近の先祖だけ塔婆供養しなくちゃいけない理由が知りたい・・・

単純な話である。人間は感情の生き物である。先ほどのペットの話も同じである。ようは自分の両親だとか祖父母など身近な存在に対しては特別な感情を懐く。しかし、それがたとえ直系だったとしても会ったこともないヒイジイチャンだとかヒイバアチャン、さらにはその何代も先となれば特別な感情など懐きようがない。それが普通だろう。

おおむね結論は出ただろう。あとは関連すると思われる御書を紹介しておく。

六道四生の衆生に男女あり。此の男女は皆我等が先生の父母なり。

これはまさに仏の知見であり、凡夫には実感の薄い話である。ようするに、世の中には男と女がいる、これらすべてが父であり母なのだ、という話なのだ。

願はくは此の功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん

法華経の言葉であるが、大聖人はこれを弘安二年の出世の本懐を御遂げになる、その前後において引用あそばしている。

しょせん凡夫は自分のことしか考えていない。もちろんわたくしもその一人である。けれども近親者の追善回向くらいはするだろう。差し当たってはそれでいいのである。それがやがては普く一切に波及することになる。大聖人の仏法にはそれだけの力があるのだ。

マイケル氏が拙ブログないしその周辺に留まっているのは、一つの求道心のあらわれではないかと思う。

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