2006/1/30

王法本来のあり方とは?  
しかしこれらの解釈は、現代社会に即して王法本来のあり方を述べたものである。『四条金吾殿御返事』に、
夫仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり。故に仏をば世雄(せおう)と号し、王をば自在となづけたり。(新編一一七五頁)
と説かれているように、王法とは王の法である。つまり主権在民の現代にあっては、国民の総意に王の意義が存するのであり、その生活上の善悪に対する賞罰の法なのだから、王法に「あらゆる生活の原理」を含むことを教示されたのである。すなわち原理とは、善悪に関する因果の理法であり、これに一切を含むことは当然である。故に汝の「あらゆる生活の原理」などの意は微塵もない≠ネどの言が欺瞞に過ぎないことは、この御金言に明らかである。日顕上人の説かれる「王法イコール政治をふくむあらゆる社会生活の原理」とは、王法の語が仏法すなわち出世間法に対する世間法の全体に通じていることを示されているのである。


わかったようなわからないような微妙な説明だと思う。

御書を引用して、「・・・と説かれているように王法とは王の法である」というのだが、え? この御書のどこに「王法とは王の法」と説かれているのかしら? と思って当該御書の全文を拝読してみたところ、そのような御指南は見当たらなかった。

また現在における「王法」の義を「王の法」ととらえる上からは、現在の「国主」乃至「王」たる国民全体の法則・原理には、一切が含まれるのであり、国家統治にかかわる概念≠焉Aその中の一部に過ぎない。

すぐ後にもご覧のように「王の法」が出てくる。なんだろう、よくわからない。

浅井先生は、あらゆる生活の原理などの意は微塵もない、と言ったわけだが、邪義破折班では、これが欺瞞であることは御金言に明らかだ、と言っている。
はたしてこの御金言の意味するところが破折班の説明どおりなのかどうか、わたくしにはわからない。現代社会に即して、とか、主権在民の現代にあっては、という断りが入っていることからすれば、ひとつの解釈に過ぎないという気がする。

いちおう、これを正当な解釈だとしよう。
しかしながら、「国民全体の法則・原理には、一切が含まれるのであり、国家統治にかかわる概念≠焉Aその中の一部に過ぎない」というのはどうか?
ここはむしろ総別の二義でさばくところではないかと思う。すなわち、総じて言えば「あらゆる生活の原理」であり、別しては「国家統治にかかわる概念」である。ゆえに「その中の一部に過ぎない」というのは矮小化以外の何ものでもないだろう。

四条金吾殿御返事の当該御文はやや難解である。
現在のわたくしの理解を申し上げれば、ここでの仏法・王法は対立概念ではない、ということである。
減劫御書や白米一俵御書には仏法世法一体の御指南がある。また日興上人の御指南に仏法王法本源体一がある。してみれば、「あらゆる生活の原理」とは仏法そのものに当てはめてしかるべきだと思う。
世間・出世間ないし王法・仏法をわけて考える必然性がどこにあるのか、邪義破折班の説明では見えてこない。王法を「あらゆる生活の原理」としてしまったら、仏法もまた「あらゆる生活の原理」なのだから、なんだ本源体一ではないか、ってことで話は終わってしまうのである。

まさに王法が国家権力にかかわる概念ゆえに、現代においてはよりいっそう仏法との関係が注目されるのではないだろうか?

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