2019/6/5

マンマ  
前回の拙稿には重大なる錯誤があったので、まずはその点について反省したいと思う。

本年二月十六日に発刊された宗門書籍は、大日蓮出版のサイトから一般人も購入可能である。つまり、住職のみに限定配布されたというわたくしの理解は間違いであり、当然ながらくだんの書籍については顕正会側も容易に知り得る状況だった。よって宗門側に顕正会への内通者がいるというのも勝手な憶測だったことになる。以上、前回の冒頭に記したことはほぼ全面的に訂正せざるを得ないことを、ここに明記するものである。

その上で、やや煩瑣ながらも話を続けたい。わたくしはなぜに誤読したのだろうか?

生意気ながらも、わたくしはけっこう読解力があるほうだと自負している。それにもかかわらず大間違いを犯した。そこには必ず理由があるはずなのだ。もちろん単なる言い訳であってはいけないので、第一の理由は次のごとくであることを正直に書いておきたい。

すなわち、面倒臭がりの悪癖が祟った、ということである。

ようは裏を取る作業をまったくせずに書いてしまっている。ちょっと調べればわかりそうなことを面倒臭がってやらない。だから今回のようなことになるのだ。

しかし、それ以外にも理由があるのだ。

まず、法華講員がくだんの書籍についてほとんど言及していないという事情があった。これについては過去の拙稿でも取り上げたことがあるのだが、わたくしの推測では顕正会批判のエキスパートからみれば何を今さら出版しているのかという思いがあるのではないか、しかし、それを口にするのは問題なので口をつぐんでいるのではないかということだった。
もちろん隈なく調べれば言及している法華講員も存在するわけだが、これまた面倒臭がりのわたくしは自分の耳に届かないことで存在しないだろうと判断してしまった。この点に問題があることは否めない。
その上であえて言うと、本年はネット上でも法華講員と顕正会員の議論がそこそこ盛り上がっているように見受けられる。それにもかかわらず、なぜか例の書籍のことがまったく出てこないように感じられた。これが今回の誤読につながるわけである。すなわち住職限定配布ということだ。

それからもう一つ書くべきことがある。

三月度総幹部会の会長講演では、日目上人の御出現について言及があった。この講演で注目すべきは、ようはいきなり日目上人が御出現になられるわけではなく、その前段階として顕正会を支持する僧侶が二人三人と出てくるに違いない、という意味の発言である。

察しのいい人ならば、これが内通云々の伏線となることが容易に理解できるだろう。

つまり、わたくしの想像では、もしかしたらもうすでに内々で顕正会を支持している僧侶が複数名いるのではないか、と睨んだわけである。結論的にはそれが今回の誤読を惹起したわけであり、おそらくはわたくしが勝手に誤読しただけというのが真実に近いのだと思われる。

だが、しかし、あえて深読みすると会長講演にはそのような誤読を誘発する仕掛けが意図的に組み込まれていた、わたくしはそれにまんまとハメられた、ということなのかもしれないのだ。

ずいぶん面倒臭いことを書いていると思う。

ただ、これにも意味があって、ようは御遺命守護の戦いは壮大なるフィクションかもしれないという可能性を考えた時に、もしそれが事実ならば浅井先生は作家として相当の成功を収めていることになる。なぜならば熱心な読者(信者)を数万人も獲得しているからであり、やはりそこには緻密な計算に基づいた文章があるからこそ、人々を惹き付けることができたのだろう。わたくしは信者ではないものの熱心な読者である。ゆえに浅井先生の巧妙なる文章表現にまんまとハメられたしまったと考えられるのだ。

ただし、前述のごとく、わたくしが勝手に誤読したというのがいちばん真実に近いのだろう。上述は浅井先生を幾分かは買い被っていることになるわけだが、それにしても数万人を虜にするだけの洗脳力を持っているのは事実である。この点は顕正会研究ないし浅井昭衛研究の重要なテーマになるはずだ。

さて、いつもならば顕正新聞を読んでいくわけだが、今日は取りやめて別の話題を書きたい。

コメント欄の様相が一変した。

具体的に言うと、わりと高頻度で投稿していたマイケル氏と大沢氏がいなくなり、新しい人たちがたくさん来るようになった。古くからの投稿者の中で沖浦氏は別格だろう。氏は拙ブログだけに依存しているわけではなく、忙しい身でありながら手の空いた時に立ち寄る、そんな感じである。あとは正直なところ、誰が誰だかわけがわからない、というのがわたくしの偽らざる感想である。

以前にも書いたが、名前のハッキリしない人は相手にしないことにしている。いちばんの典型は通りすがりであり、わたくしはそれをトオリスガリ系と総称して、あえて返信しないようにしている。これまた繰り返し言っているように、わたくしのブログは独白を表看板にしているので、極論すればすべてのコメントを無視することもあり得るのだ。

そういうわけで、拙ブログに常駐するつもりならば、それ相応の名乗りをするべきだろう。いわゆるコテハンである。

インターネットも時代的な変遷がある。わたくしが最初にネット環境を手に入れた頃は掲示板全盛の時代だった。しかもその多くが匿名掲示板だった。
その後、ブログが流行り出した。個人ブログもさまざまのタイプがあるけれども、最初の頃はなるべく個人情報を出さない、当然、顔も出さない、そういうブログが多かった。しかし、今はわりと顔出ししているブログも多い。
そして今は動画サイトが隆盛を極めている。これも当初は顔出ししないチャンネルが多かったが、今は個人チャンネルであっても積極的に顔出ししている場合が少なくないようである。

かなり大雑把な説明だったが、ネットの時代的変遷を書いた。拙ブログの場合、およそ十五年ほど前に始めたわけだが、時代的な意味では個人情報を出さないわりと平均的なブログと考えられる。もちろん今となってはかなり前時代的である。

ゆえにリニューアルするとしたら、顔出し動画系にするのも選択肢の一つだろうと思っている。

拙ブログの一つの自慢は十五年前からまったく変わっていないことである。ようするに個人サイトをお持ちの人は装飾にこだわるのが普通なのである。背景色だとかレイアウトだとか、いろいろと変化を加えることができるのはわたくしも承知しているし、かつて別のジャンルでそのようなことをしたこともあった。しかし、拙ブログに関しては開設当初からまったく変更を加えておらず、そのためにずいぶんヘンなことになっている。具体的にはカレンダーのところがキレイに揃っていないのだ。しかし、それを直すつもりはまったくない。

ようするに文章がすべてなのである。わたくしは他人の誤字脱字にけっこう厳しい。もちろん自分自身に対してもである。なぜならば文章がすべてだからである。

そういうわけで動画系も一つの選択肢とは書いたものの、文章を大事にするわたくしの立場としては拙ブログが今もなお有効であると思っている。事実、爆発的なアクセスはないものの、常に一定数の読者がいて一定数のコメントが寄せられる。ゆえに今後も続けていくことだろう。

すでに何度も書いているが、もしこれが誰にも読んでもらえず、誰からもコメントが寄せられなくなれば、いわゆるオワコンであり、わたくしもその時にはひっそりと幕を閉じることになるだろう。しかし、なぜかそうはならないようである。

今日はダラダラと思うままに書かせていただいた。

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