2020/7/11

シュイ  
類は友を呼ぶ、とはよく言ったものだと思う。まさに拙ブログに集っている面々がそれなのだ。わたくしは面倒臭い時は受け流すようにしているわけだが、今朝のコメントを拝見していると、なかなかそれでは気が済まない人もいるようである。しかもわたくしのそうした態度にも問題があるかのごとく書いているので、仕方がないから今日はこの話題をとことん書くことにする。

まず、面白いものをご覧に入れたい。

https://blog.goo.ne.jp/localfor/e/2a85101d68caeca34063548b26a824bc

たぶん拙ブログの愛読者ならばご存知だろう。問題はリンク先のコメント欄である。普通は本文に対する感想などを述べるものだと思う。ところが先方のコメント欄は本文とはまったく別の話題で盛り上がっている。事情を知らない人が読むと意味不明であるが、実は拙ブログのことを云々しているのである。

しかもである。

https://9207.teacup.com/wakataka/bbs/9307

これが驚きだった。今現在、リンク先の掲示板は閑古鳥が鳴いている。そんなところでコソコソと書いていても誰も読まないだろう。

わたくしは独白を看板にしていることもあって、他のブログや掲示板などはほとんどチェックしていない。しかし、ごく少数ながらもチェックしているところがある。ここで一つだけ紹介しておくと、旧名ユタ氏のブログである。実は失礼ながら彼の小説はほとんど読んでいない。主に読んでいるのはコメント欄である。つい先日書いたように、拙ブログのコメント欄はごく限られた少数の人しかコメントしない。実はユタ氏のブログも似たり寄ったりであり、投稿者はほとんど決まった人たちである。しかもコメントの内容は本文とは関係がない場合がほとんどで、そのうちの何割かは拙ブログの話題なのだ。変わった人たちである。

以上、拙ブログには変わった人たちが集まっているわけだが、拙ブログの周辺にも変わった人たちが集まっているようである。

さて、話を進めよう。

類は友を呼ぶの言葉通り、変わり者が集まっている。これは誰も否定できない事実だろう。では、その中心者は誰なのか、そこが問題である。当然、拙ブログに集まっているわけだから、拙者すなわちわたくしが中心なのだと考えられる。いや、そうではなく、沖浦氏が中心である。これも有力な説だと思う。

しかし、わたくしはどちらも違うと思っている。

例えば浅井先生のところには数千人ないし数万人の人たちが集まっている。しかし、類は友を呼ぶとは言わないだろう。カリスマ的な存在のところに集まってくる場合、そのカリスマは文字通り別格であり、類ではないのだ。もちろん友でもない。

話を戻して、拙ブログに集まっている人たちの中心は誰かと問われれば、わたくしは誰でもないと思っている。中心者など存在しないのだ。逆に言うと、全員が中心者なのである。

友だち関係を想像すればいい。

もちろん友だち関係であってもそこにリーダー的な存在がいる場合もある。ただ多くは全員がフィフティーフィフティーの関係にあって、あまり窮屈な思いをしない、緩い結びつきなのではないかと思う。

ここからは実生活の一端をさらけ出すことになるわけだが、わたくしにはそうしたコミュニティがない。言葉を換えれば友人がほとんどいない。これはウソイツワリのない事実なのである。そしてご存知のごとく、顕正会というコミュニティからも離脱してしまった。普通の人の場合、顕正会があまりにも特殊なコミュニティゆえに馴染めなかったというケースが多いのだろうけれども、わたくしの場合はまったく異なる。何しろ顕正会を離脱してからどこにも所属していないからである。無所属を標榜しているのもそのためである。

いわば社会不適応者なのだ。

大沢氏はこれを早くから見抜いていたわけなのだろう。氏は沖浦氏に対しても社会的不適応を指摘しているわけだが、実はわたくしの見立てでは沖浦氏は遥かにマシなのである。その比較対象はわたくしである。つまり、わたくしのほうが遥かに重症なのだ。これがわたくし自身の自己診断である。

話が脱線したかもしれない。

実生活では友だちがいない。どこにも所属するコミュニティがない。コメント投稿者の皆さんがそうだとは思わないが、少なくとも現時点でそこそこ居心地の良いウェブ上のコミュニティ、それが巌虎独白のコメント欄なのだろう。だから一日に数本、場合によっては十本以上もコメントを投稿するのだと考えられる。こういうことを書くと、だったらもう投稿しねえよ、というふうに離れていく人もいるかもしれない。わたくしはそれを承知しつつも、そうなったらそれで構わないと思っているし、事実としてそのような意味のことを何度も書いてきたわけである。つまり、今も投稿し続けている人は、すべてそれらのことを納得した上で投稿しているわけなのだ。

さて、そこで具体的な議論に入ると、沖浦氏のシュイ問題は氏の限界を示しているのだと思う。

簡単な話だ。御書はキッチリと引用するクセに、なぜに歴代会長の言葉はシュイなのか、ということを考えればいいのである。負け嫌いの沖浦氏はそれなりに御書を勉強してきたのだろう。ゆえに御書の引用頻度が高い。ただし、本人も認めているように、それはネット御書からのコピペなのだ。もちろんそれをダメだとは言わない。しかし、じゃっかんは手抜きの気味がある。
なぜならばわたくし自身はほぼすべて自分で打ち込んでいるからである。これはかなり前に下野正信氏が言っていたことを踏襲したのである。氏はなるべくコピペを使わず自分で打ち込むようにしていると語っていたのだ。ゆえに沖浦氏のそれは手抜きに思えるのである。
さて問題は歴代会長の言葉である。おそらくはデータ化されたものが存在しないのだろう。なぜ存在しないのか、一つには膨大過ぎてデータ化できないからであり、しょせん会長の言葉などは価値がないと創価学会首脳は思っているのが二つ目の理由であり、それに付随して宗門から矛盾を突かれるのがイヤだから、というようなことだと思われる。
確か池田会長全集というものがあって、通巻で百巻以上あった。今調べたら百五十巻あるらしい。もし沖浦氏が本気を出せば全巻通読することも可能なのだろうが、たぶんやらないだろう。あるいはやれないのかもしれない。

つまり、これが沖浦氏の限界なのだ。

理由は上述の中にある。御書で手抜きが身に付いてしまっているので、やりたくても無理なのだ。また、首脳部の本音と同様であって、しょせんは大して価値のあるものではないと沖浦氏も思っているのかもしれない。なおさらモチベーションが上がらないわけだ。

ともかく沖浦氏に対してはツッコミどころが満載なので、キリがないのである。ゆえにわたくしはある程度のところで終わりにして、次の話題に取り組むようにしているわけである。

以上、これで今現在のコメント投稿者たちが一斉にいなくなれば、それはそれでキレイサッパリして気持ちいいのだが、なかなか現実にはそうはならないようである。

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