2020/8/25

ウリフタツ  
大沢氏より貴重なコメントを頂戴した。世間一般の常識からすれば穏便に振る舞うべき場面であるが、今回はかなり激烈な内容になるだろう。

わたくしは数年来、宗門の戒壇論はデタラメである、と言ってきた。

この意味からすると前回の拙稿はかなり妥協的に思えたかもしれない。しかし、それは表面的な読み方であって、基本的には何も変わっていない。戒壇論については顕正会のほうが遥かにマシである。問題は最近の対宗門における破折の切り口であり、それがいかにもヤクザっぽい感じがしてよろしくないのである。具体的には、もし〇〇だったらどうするんだ、どう責任を取るんだ、みたいな手法がいけないのである。

(「元妙信講問題について」73頁・「第一回正本堂建設委員会 猊下御言葉の要旨拝考」昭和四十七年三月二十六日 宗務院教学部)

さて、そこで今日は大沢氏が提示してくれた上掲について、わたくしなりの切り口で破折させていただくことにする。

現時における事の戒壇とは本門戒壇本尊所住の処即ち事の戒壇の意である。

まず、これに驚いた。現時における云々は正本堂訓諭に出てくる文言であり、昭和四十七年四月二十八日付となっている。ところがひと月前に同じ文言が宗務院教学部から出されているのである。すると気になるのはそれ以前にも存在するのかどうかであるが、差し当たっては調べる術がないので話を進めよう。

わたくしの思うに上掲の後半は、・・・即ち義の戒壇の意である、とするのが正しいだろう。

その事壇と一期弘法抄、三大秘法抄の事壇とは意義において当然相通じている。

理由はここにある。こんなデタラメな文章はない。単純化すれば、AとAはイコールである、と言っているに等しいからである。そんなの当たり前であり、なぜにそんな当たり前のことを言う必要があるのか、その必然性がまったく見い出せない。ゆえに最初の文章を修正すべきなのである。最初の一文が、義の戒壇の意である、となっていれば続きの文章は次のごとくなるだろう。

その義壇と、一期弘法抄・三大秘法抄の事壇とは、意義において当然相通じている。

これならば、AとBはイコールである、という文章になる。これならば、なぜにAとBがイコールなのか、という具合に話が続くのである。

三大秘法抄に「今日蓮が所行乃至事の三大事」と仰せたまう大聖人の御魂魄たる本門戒壇の大御本尊がおわしますところ法体の事の戒壇であり、一期弘法抄、三大秘法抄等は事相の事の戒壇である。

まさに、AとAはイコールである、というデタラメを前提に論じているから、このような結論になるのだ。

上掲、冒頭に三大秘法抄の引用があって、後半にも三大秘法抄が出てくる。ところが後半には具体的な引用がない。ようするに事相戒壇は説明しなくてもわかるからだろう。逆に前半は説明しないと誰もわからない。ではその説明の妥当性はどうなのか?

本門戒壇の大御本尊ましますところ法体の事の戒壇?

まったく説明になっていない。ただ単に、日蓮が所行・・・事の三大事、という引用から何となくを連想させるだけのことであり、それ以上の何物でもない。そもそもここでの法体とは戒壇の大御本尊のことを意味するわけなのだろう。ならば、大御本尊がおわしますところ法体の事の戒壇とは、AがおわしますところAの事の戒壇、と言っていることになる。デタラメもいいところだ。

法体の事なくして広布の暁の事相の事壇はありえない。

当たり前のことである。念のために書いておくと、ここでの「法体の事なくして」は、戒壇の大御本尊なくして、の意味であり、戒壇の大御本尊ましますところが事の戒壇という話ではない。

また事相の事壇がいかに高広厳飾を極めつゝもその根本は法体の事に由来する外の何物でもない。

ここでの法体の事も同様だろう。ちなみにこのくだりは正本堂という建物にこだわる池田大作氏を暗に批判している意味が読み取れるわけだが、当時の状況からするとそこまでの意図はなかったのかもしれない。

いま戒壇の本尊の御威光益々光顕して数百万の民衆の正法帰依と不惜身命の信行あってまさに事相の戒壇の実現を望むの感ある時、正本堂の建立寄進となる。

ご覧のごとく、数百万の民衆云々とある。ゆえに前掲が池田批判を含意していることは考え難い。

従って正本堂はまさに一期弘法抄の戒壇の意義を含んで未来の広布にのぞむ現時の本門事の戒壇というべきである。

ここがまさに一ヶ月後の訓諭と瓜二つである。

わたくしの結論は、現時における事の戒壇とは義の戒壇の意味に他ならない、というものである。すでに書いたように、事の三大事というフレーズから何となくを連想させるだけの話であり、もっと言えば、事の三大事というフレーズを悪用して錯覚させている、ということになるだろう。御書のどこを探しても、戒壇の大御本尊ましますところを事の戒壇とするような御指南は存在しない。

ここまで言うと、オマエは御書の表面しか読めていないのだ、御書を深く読んでいくと文はなくとも義があることがわかる、などと反論するかもしれない。

文はなくとも義がある。これが答えである。

戒壇の大御本尊ましますところは義理において事の戒壇に相当する。これを義の戒壇と称してきたのである。それがいつの間にか事の戒壇にすり替わってしまった。

宗門はこれを修正することなく、このままズルズルと行くつもりなのだろうか?

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