2020/8/31
ギリ
今回の議論はこれで一区切りとする。ヨコヤリが入らず、その点はひじょうに有意義だった。
大沢氏から日霑上人と日開上人の御説法をご紹介たまわった。
言わんとしていることは、日達上人の御指南は上述の二人の上人の系譜に連なるものであって決して己義ではない、という趣きなのだろう。
極論すると上述二上人も間違っている、とわたくしは言いたいところなのだが、それを言ってしまうと話がややこしくなるので、別の角度から言わせてもらうことにする。ズバリ、背景が異なるのだ。かつての上人たちは篤信の人たちに向かってのみ御説法をされていた。ところが日達上人の場合は創価学会という圧力団体を相手に説法されていた。ゆえにそこに歪みが生じてしまっているのである。
いや、もちろん、当時の創価学会は正しかったという見方もあるだろう。その点は十分に承知しているつもりだが、結果的には大謗法団体に堕してしまった。
あの時点では正しかったのだから何の問題もない。
当然、そのような意見もあるわけだが、早い話がすでに当時から創価学会には慢心があった。少なくともその萌芽があった。それを見抜いていたのが浅井先生だった。残念ながら今の宗門はこの点にはまったく触れず、創価学会を大謗法団体だとして斬り捨て、同時に顕正会をも斬り捨てているのである。
これらの経緯を踏まえると見えてくることがある。
つまり、日達上人の御指南はくだんの二上人の純粋なる御説法とは相当に趣きが異なるものであり、いわば創価学会を庇うための詭弁だったのだ。この点の反省が足りず、なし崩し的に根源の事の戒壇などという、もっともらしい教義体系にまとめ上げている点が問題なのである。
ここまでの話はいわば歴史認識の問題であるからして、実際には議論百出でキリがないのかもしれない。では純粋に教義の問題として捉えるとどうなるか、ここからはそのような角度から書きたい。
仏法の邪正は経文の明鏡に依る。
今朝、拝読していた北条時宗への御状に出てくる一節である。大沢氏のコメントは膨大を極めるものの、御書の引用がほとんどない。上掲の御文が示すごとく、最終的には御書の明鏡によるべきが筋にもかかわらず、今の宗門では歴代上人の御指南を並べてそれで満足してしまっている。さらには公開されない秘伝があると言って満足してしまっている。
ここでの問題は秘伝の真偽ではなく、すでに公開されている大聖人の種々の御指南との整合性である。もし秘伝の内容が御書と真逆のことを言っていたらどうするのだろうか?
この点を踏まえて制定されたものが日興上人の御遺誡のあの一条なのだろう。あえて引用するまでもない。
二上人すら間違っていると書いたのはこのためである。
そしてわたくしの根拠とする御書は言わずもがな三大秘法抄である。ここでは思い切って省略形でご紹介しよう。
戒壇とは・・・戒壇を建立すべき者か。・・・事の戒法と申すは是なり。・・・戒法のみならず・・・戒壇なり。
事の戒法とは何か、このことで思索を巡らせた人がどれだけいるのだろうか?
実はそんなに難しく考える必要はないのだ。戒壇も戒法も同じである。つまり、事の戒法と申すは是なり=事の戒壇と申すは是なり、なのである。その理由も単純明快である。大聖人は重複表現を好まない。同じ言葉が続く時にはあえて表現を変えるのだ。類例はいくらでもある。
此の戒法立ちて後、延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき処に・・・
この一節に迷っている人が多いのかもしれない。先ほど書いたように戒法=戒壇である。すると、戒壇が建っていないのになぜに戒法立ちて後と仰せられるのか、その意味がさっぱりわからない人がいて当然ではある。
そこで登場するのが義理の戒壇である。
大聖人の直接の御指南に義理の戒壇は存在しない。三大秘法抄・一期弘法抄はいずれも事の戒壇を御指南あそばしている。しかし、義理の戒壇という概念がないと御法門としては整合しない。日寛上人が偉大なのはこの点を踏まえて教義体系を構築したことである。
御書に戻ると、三大秘法抄の前半に注目すべき一節がある。
・・・実相証得の当初修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり。
まさか久遠元初のその昔に戒壇が建っていたと考える人はいないだろう。むしろその意味からすると、当該御文は戒壇ではなく戒法としたほうが理解しやすい。これがまた先ほどの戒壇=戒法の傍証にもなるわけである。
おそらくはまだ説明が足りていないところもあるとは思うが、こんなところで終わりにしたい。
大沢氏から日霑上人と日開上人の御説法をご紹介たまわった。
言わんとしていることは、日達上人の御指南は上述の二人の上人の系譜に連なるものであって決して己義ではない、という趣きなのだろう。
極論すると上述二上人も間違っている、とわたくしは言いたいところなのだが、それを言ってしまうと話がややこしくなるので、別の角度から言わせてもらうことにする。ズバリ、背景が異なるのだ。かつての上人たちは篤信の人たちに向かってのみ御説法をされていた。ところが日達上人の場合は創価学会という圧力団体を相手に説法されていた。ゆえにそこに歪みが生じてしまっているのである。
いや、もちろん、当時の創価学会は正しかったという見方もあるだろう。その点は十分に承知しているつもりだが、結果的には大謗法団体に堕してしまった。
あの時点では正しかったのだから何の問題もない。
当然、そのような意見もあるわけだが、早い話がすでに当時から創価学会には慢心があった。少なくともその萌芽があった。それを見抜いていたのが浅井先生だった。残念ながら今の宗門はこの点にはまったく触れず、創価学会を大謗法団体だとして斬り捨て、同時に顕正会をも斬り捨てているのである。
これらの経緯を踏まえると見えてくることがある。
つまり、日達上人の御指南はくだんの二上人の純粋なる御説法とは相当に趣きが異なるものであり、いわば創価学会を庇うための詭弁だったのだ。この点の反省が足りず、なし崩し的に根源の事の戒壇などという、もっともらしい教義体系にまとめ上げている点が問題なのである。
ここまでの話はいわば歴史認識の問題であるからして、実際には議論百出でキリがないのかもしれない。では純粋に教義の問題として捉えるとどうなるか、ここからはそのような角度から書きたい。
仏法の邪正は経文の明鏡に依る。
今朝、拝読していた北条時宗への御状に出てくる一節である。大沢氏のコメントは膨大を極めるものの、御書の引用がほとんどない。上掲の御文が示すごとく、最終的には御書の明鏡によるべきが筋にもかかわらず、今の宗門では歴代上人の御指南を並べてそれで満足してしまっている。さらには公開されない秘伝があると言って満足してしまっている。
ここでの問題は秘伝の真偽ではなく、すでに公開されている大聖人の種々の御指南との整合性である。もし秘伝の内容が御書と真逆のことを言っていたらどうするのだろうか?
この点を踏まえて制定されたものが日興上人の御遺誡のあの一条なのだろう。あえて引用するまでもない。
二上人すら間違っていると書いたのはこのためである。
そしてわたくしの根拠とする御書は言わずもがな三大秘法抄である。ここでは思い切って省略形でご紹介しよう。
戒壇とは・・・戒壇を建立すべき者か。・・・事の戒法と申すは是なり。・・・戒法のみならず・・・戒壇なり。
事の戒法とは何か、このことで思索を巡らせた人がどれだけいるのだろうか?
実はそんなに難しく考える必要はないのだ。戒壇も戒法も同じである。つまり、事の戒法と申すは是なり=事の戒壇と申すは是なり、なのである。その理由も単純明快である。大聖人は重複表現を好まない。同じ言葉が続く時にはあえて表現を変えるのだ。類例はいくらでもある。
此の戒法立ちて後、延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき処に・・・
この一節に迷っている人が多いのかもしれない。先ほど書いたように戒法=戒壇である。すると、戒壇が建っていないのになぜに戒法立ちて後と仰せられるのか、その意味がさっぱりわからない人がいて当然ではある。
そこで登場するのが義理の戒壇である。
大聖人の直接の御指南に義理の戒壇は存在しない。三大秘法抄・一期弘法抄はいずれも事の戒壇を御指南あそばしている。しかし、義理の戒壇という概念がないと御法門としては整合しない。日寛上人が偉大なのはこの点を踏まえて教義体系を構築したことである。
御書に戻ると、三大秘法抄の前半に注目すべき一節がある。
・・・実相証得の当初修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり。
まさか久遠元初のその昔に戒壇が建っていたと考える人はいないだろう。むしろその意味からすると、当該御文は戒壇ではなく戒法としたほうが理解しやすい。これがまた先ほどの戒壇=戒法の傍証にもなるわけである。
おそらくはまだ説明が足りていないところもあるとは思うが、こんなところで終わりにしたい。
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