2006/2/23

本有の本当の意味  
昨日の投稿では、本有の王法をさぐるカギとして、大聖人が人王以前すなわち天神七代・地神五代のいわゆる神代のむかしについて、どのように御指南下さっているかが注目されるところであろう・・・などという意味のことを書いた。

しかし、これは考え過ぎかもしれない。
というか、すでに浅井先生によって答えが示されていることを、わざわざ難しい方向に持っていってしまっているだけのことかもしれないと、だんだん思うようになってきた。

大聖人が経・論・釈ないし外典等を引用あそばす時、それが肯定なのか否定なのかをわれわれは正しく拝さなければならない。昨日は、公卿・殿上人らが言った言葉を大聖人は肯定の意味で引用されていると考えられる、しかしそれが世間普通の義によるものか仏法上の意義を持つものなのか判断が難しい、という意味を書いたわけであるが、浅井先生が一月度総幹部会において引用した諸御書を素直に拝せばその指し示すところは明らかではなかろうか?

天照太神は久遠下種の守護神であり、その本地は教主釈尊である。ゆえに日興上人は仏法と王法は本源体一であると仰せになられたのであろう。
また、事の広宣流布の時に出現される国主は無辺行菩薩の化身である。だからこそ本化国主と御表現あそばすのであろう。

これらはもはや世間普通の義を超越している、まさに仏法の領域である。

だが、これで終わるとまた批判を受けることになるだろうから、もう少し話を進展させてみよう。

「本有の王法」は存在する。
なぜならば十界本有常住だからである。最近の顕正会員は知らないだろうが、昔の経本には十界本有常住と書かれていた。おそらく今でも大石寺蔵版の御経本にはあることだろう。
単純に言えば、御本尊には十界のすべてが認められている、そのうちの天上界に属する聖衆こそ、まさしく本有の王法なのではなかろうか? そして天照太神・八幡大菩薩は日本における本有の王法ということになる。

つまり、本有の王法というのは永遠に天照・八幡なのである。皇室はその子孫であり、王法に他ならないが、あくまで「王法」であって「本有の王法」ではない。これでどうだろうか?

天照太神の本地は釈尊である・・・はたして、そこに血のつながりがあるのか?
八幡大菩薩にしても、むかし霊鷲山で法華経を説いたというけれども、そこには血のつながりがあるのか?
三大秘法抄には大聖人が二千余年前に釈尊より付嘱を受けたことが説かれている、すなわち上行菩薩であられることを御みずから宣言あそばす、だが二千余年前の上行菩薩と大聖人に血のつながりがあるとは聞かない。

それはそうである。いわゆる化身とか権化というものは、そのような表面上の血統などを問題としていないのである。

してみると、天照・八幡の子孫というだけでは本有の王法たり得ないことは自明であるし、未来においても無辺行菩薩の化身とされる御方が皇室の血統とは必ずしもならないのかもしれない。

それにしても、最近はこればっかやっているなあ。

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