2006/10/23

池田本仏論の公式表明はあり得るか?  
昨日は、それぞれ現役の法華講員・創価学会員・顕正会員から、コメントを頂戴した。これはめずらしいことであるが、わたくしとしてはひじょうに嬉しいことである。まさに相互理解の道が拓けつつあるのではないかと思う。

aono氏が池田本仏論の事例をいくつか紹介しておられるが、わたくしなどよりもはるかに詳しいので、少し驚いているところである。
これらの情報をどこから仕入れたのか、それが気になるところだ。あるいは顕正会の内部において、そのようなことを教えているのだろうか? それともaono氏が独自にネットなどを介して得た情報なのだろうか?
もし顕正会で教えているとしたら、わたくしはどうかと思う。そんなくだらないことに時間を費やすよりは、もっと御法門のことを学んだほうがはるかに価値的だからである。

もし、池田本仏論を研究するのであれば、もっと真面目にやらないといけないだろう。これは単なる批判のためのネタとして論ずるような、そういう皮相的な捉え方をしてはならないと思う。なぜならば重要な問題がたくさん含まれているからである。
少々難しいことを言うが、われわれが大聖人を本仏と仰ぐのはそこに時差があるからである。御書の表現を借りれば、まさに「のちぐへ」なのである。大聖人を本仏とする根拠は、御書全体の割合からすれば希少と言うべきであって、なかなか見えてこない。それこそ御相伝書を除いてしまったら、さらに困難をきわめることであろう。ゆえに大聖人の御在世において、大聖人を御本仏と仰いでいた人たちがどれほどいただろうかと考えると、ひじょうに心許ないのである。
もっとも、このように書くと、読者はわたくしが日蓮本仏論を否定しているように受け取るかもしれない。しかし、わたくしとしては、そのようなつもりは毛頭ないのである。
ようは同時代の人には見えないこともある、時代を経ることによって見えてくることもあるのだ。世間の例でも、存命中よりも死後に名声を得るケースは決して少なくないと思う。

このようなことを踏まえて、池田氏のことを考えると、ひじょうに難しいものがあるわけで、もし仏であるとするとその根拠は何かを考えないといけないし、そしてそれが死後においても固着した評価となり得るかどうか、換言すればそこまでの意義付けが可能かどうかを検討する必要があるのではないかと思うのである。

批判者側の主張する池田本仏論は、大聖人こそが御本仏であられるのだから池田氏を本仏とするのは邪義である、というだけの話なのである。ゆえに本当の意味での本仏論ではない。

づら系氏のような良識のある創価学会員は、それを邪義だとちゃんと認識しているわけであるから、本来そこに問題はないのである。この意味では、批判者側があら探しをしてイチャモンをつけているだけの構図でしかないであろう。

つまり、本来ならば、池田本仏論は創価学会員こそが大いに主張すべきことなのである。そしてそれが、どれだけの蓋然性を持つ主張たり得るか、そこにこそ批判者は目を向けるべきなのである。

・・・あれ? 今日は何を書いているのだろう?

毎日、行き当たりばったりで書いていると、こういうことになるのだ。

ともかく第一歩としては、創価学会側が公式に池田本仏論を唱えるようにならなければ話は進まないのである。
そしてその暁には、ウィンズ氏が示す道理のごとく、はたして池田本仏論は久遠元初の御本仏を超えられるのかという、究極のテーマに行きつくことになるだろう。

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