2007/7/31

待ち人、来たらず  
つい先ほど、渡辺氏からコメントが寄せられた。忙しいなあ、もう〜ってな感じである。

おっしゃることはまったくそのとおりであって、何ら反論の余地はない。
ただし、少しばかり言い訳を書いておくと、ようするに創価学会員の中には本尊を道具扱いにする人がいる。あの戸田会長すら幸福製造機と言っている。もちろんこれは譬喩であるから、それを弁えていればいいのであるが、しかし、戸田会長ほどの人物がまったく根拠のないことを言うとは思えない。強いて御書の中からそれを選び出すとしたら、諫暁八幡抄の例の御文あたりが相当するだろうか・・・というような文脈で書いたつもりだったのである。
つまりは与の義であって、奪の義としてはおっしゃるとおりである。まさか大聖人のあらわされた御本尊に対し奉って、そんな恐れ多いことなど誰もできはしないだろう。


さて、今日のタイトルの意味であるが、昨日の沖浦氏のコメントに、お待ちしている、と書かれていたので、それを受けてのことである。

はっきり言って、待たれても困るのである。当ブログがなぜ独白をうたっているかといえば、そうしたやりとりが煩わしいからに他ならない。
掲示板などを見ていると、同じ主張の繰り返しで一向に議論が進展しないような場面をよく目にすることがある。わたくしはそれを時間のムダだと思う。もちろんそれが楽しくて生き甲斐にしている人がいれば、それはそれでけっこうである。だが、わたくしはそこまでヒマじゃない。
少しでもいいから前進したい。それがわたくしの常の心掛けである。

沖浦氏が当ブログにコメントを寄せられるようになったのは、七月一日が最初だったと思う。おそらくは今日もまたコメントを下さることだろう。皆勤賞である。
しかも投稿数が半端じゃない。わたくしは一日に一回しか投稿しない。どんなにヒマでもそれ以上は書かないことにしている。ところが沖浦氏は何回でも何十回でも投稿してくる。その情熱には脱帽する。
コメント欄では丁々発止のやりとりも見られたが、今では沖浦氏のパワーに押されて、誰も寄りつかなくなってしまったようである。

さて、いちおう以下は沖浦氏の過去のコメントを題材に書かせてもらうが、いつまでもそこに滞留しているつもりはないので、そこのところを了解願いたい。

 子供はね、親を超えてこそ一人前でしょう。
 もし、子供が親より身長で一ミリ小さいきまりなら、人類は今頃跡形もなく消滅していますよ。


これは逆もまた真であって、子供が親より一ミリずつ大きくなっていったら、そのうち人類は恐竜になってしまうだろう。
戦後の日本では体格が飛躍的に向上したという。しかし、このままずっと伸び続けていくことはないそうである。専門家ではないので詳しいことは知らないが、遺伝学的には親の形質を受け継ぐ以上、それほど極端にデカくなることはないらしい。ある程度のレベルで止まる。もし、そうでなければ、遺伝子に異変が生じていることになるそうである。
これはスポーツの世界でも同様であって、記録はいつか頭打ちになる。まさか百メートルを一秒で走れるようになるとは思えない。

減劫と申すは人の心の内に候。貪・瞋・癡の三毒が次第に強盛になりもてゆくほどに、次第に人のいのちもつゞまり、せいもちいさくなりもてまかるなり。

減劫御書の冒頭である。この概念がわたくしにはよくわからないのであるが、どうやら潮の満ち退きのごとく増減を繰り返しているらしい。ゆえにゼロになることはないのだろう。その幅を具体的な数値であらわすとどうなるものか、ご存知の方がいれば教えてほしいところである。
アバウトな言い方をすれば、これは一種のユラギのようなものであって、ある意味ではきわめて自然、これこそが自然界の実相なのであろう。

本と申すは仏性、末と申すは未顕の仏、九界の名なり。究竟等と申すは妙覚究竟の如来と、理即の凡夫なる我等と差別なきを究竟等とも、平等大慧の法華経とも申すなり。始めの三如是は本覚の如来なり。本覚の如来を悟り出だし給へる妙覚の仏なれば我等は妙覚の父母なり、仏は我等が能生の子なり。

子なれども親にまさる事多し。重華はかたくなはしき父を敬ひて賢人の名を得たり。沛公は帝王と成りて後も其の父を拝す。其の敬はれたる父をば全く王といはず、敬ひし子をば王と仰ぐが如し。其れ仏は子なれども賢くましまして悟り出だし給へり。凡夫は親なれども愚癡にして未だ悟らず。委しき義を知らざる人、毘盧の頂上をふむなんど悪口す、大なる僻事なり。


一念三千法門である。大事なことがいっぱい詰まっているので、まるまる一段を掲載しようと思ったが、さすがに長過ぎるので上掲の二文にとどめた。

子なれども親にまさる事多し・・・

これだけ拝すると、沖浦氏の主張の根拠となりそうだが、ここでの子は仏のことなのである。そして親というのがわれわれなのである。ここが難しいところなのだ。

なお、わたくしは何も沖浦氏の主張を否定するために引用したわけではなく、御書の拝し方というのはなかなか難しいものだと言いたいのである。その気になれば正反対の意味の御指南だって、いくらでも見つけ出すことができる。ようはそれらをどのように整理するかなのだ。

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