2007/12/13

御義口伝を中心に  
今日はまず、訂正から申し上げなければならない。

わたくしは先日来、御本尊のことを依報・正報で捌くのはナンセンス、という意味を再三にわたって書いてきた。だが、これは不正確であり、誤解を招く可能性があることに、ようやく気がついた。
簡潔に書こう。本因・本果の法門という言葉がある。法門上、本因・本果はきわめて大事な要素であるが、実はもう一つ忘れてはいけない要素がある。それが本国土である。これを度外視してしまったら、仏法は成り立たないのだ。わかりやすく言えば、地に足が着いていないようなものなのである。
なるほど、耕治氏はこの点に着目していたのだ。氏の研鑽の深さを垣間見る思いである。

御本尊のことを正報・依報の捌きで説明すると1
たとえば御義口伝に

//第十六得見恒沙仏の事
法華経の法師品にですね、「恒沙の仏を見たてまつることを得る」という段があります。

//御義口伝に云く
この段の読み方を大聖人様は説かれていらっしゃいます。その内容は、ご本尊と私たちの関係の一側面が説かれているのです。
(後略)

http://diary.jp.aol.com/ganko/956.html?b=10

わたくしは昨日、耕治氏の上掲コメントを、理解に及ばないと書いた。
しかし、ここに「一側面」とある。この意味では理解できるのである。あくまで一側面なのであって、これがすべてではないということであれば、さしたる問題はないであろう。
耕治氏は引用を省いているが、法師品の得見恒沙仏の事には、次の御文がある。

得見の見の字と見宝塔の見とは依正の二報なり。得見恒沙の見は正報なり。見宝塔の見は依報なり云云。

つまり、御本尊には依正の二報がそなわっている、二面性があるということなのだ。ゆえに、もしこれを無視して御本尊を依報の一面のみで捉えようとすれば、これこそ切り文の典型となるだろう。次の阿仏房御書は大いに参考になると思う。

阿仏房なさがら宝塔、宝塔さながら阿仏房

次は寿量品の、時我及衆僧 倶出霊鷲山の事、であるが、煩瑣を避けて一部を引用する。

御本尊は此の文を顕はし出だし玉ふなり。・・・霊山とは御本尊並びに今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者の住処を説くなり云云。

ひじょうに面白いところである。わたくしには二様の拝し方が思い浮かぶ。
一つには、霊山=御本尊という読み方だ。しかし、この場合は少々無理がある。
自然な読み方は、御本尊のまします場所が霊山なのだという読みであろう。これは申すまでもなく、御本尊を正報の側に捉えているわけである。

その明確な文証は同じく寿量品の、建立御本尊の事、に出てくる。

本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。

御義口伝の難解さは、次のような御文があるからだろう。

今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者の希有の地とは、末法弘経の明鏡たる本尊なり。

これは法師功徳品四箇の大事、第四 是人持此経 安住希有地の事、に出てくる御文である。
地というのは依報に相当するだろう。単純に読めば、地=本尊となる。だが、ここはいわゆる依義判文して、次のごとく拝してもいいだろう。先ほどの二様の拝し方に通ずるはずである。

希有の地とは、末法弘経の明鏡たる本尊の住処なり

いちおう補強の意味で、普賢品六箇の大事から、第六 此人不久 当詣道場の事、を引いておく。

御義口伝に云はく、此人とは法華経の行者なり。法華経を持ち奉る処を当詣道場と云ふなり。此を去って彼へ行くには非ざるなり。道場とは十界の衆生の住処を云ふなり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり。此を道場と云ふなり。

今日はもっぱら御義口伝を引用させてもらったが、しょせんは俄か勉強なので、いろいろ間違いがあるかもしれない。

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