2020/3/8

キレアジ  
顕正新聞第1500号を読んでいく。まずは総男子部長の記事である。

二度にわたって早瀬管長の不作為の罪に言及されましたが・・・

ひじょうに悩ましいところだ。顕正会側の言い分としてはまさにその通りなのだろう。けれども宗門側にも言い分があるはずだ。

単純に言うと、国立戒壇を是とするか非とするか、である。

顕正会の主張は国立戒壇を絶対的に正しいと前提しているがゆえに、日如上人がそれについて何も言わないのは不作為の罪に当たると言いたいわけなのだろう。けれども宗門は国立戒壇を正しいとは考えていない、もしくは国立戒壇の名称を使用するのはよろしくないという考え方なので、日如上人の態度は至極当然なのである。

もっとも上述は極めて大雑把な理屈であって、例えば日如上人が日ごろどのような御指南をあそばしているかとか、細かく言えば教学的な傾向がどのような感じなのか、わたくしにはまったくわからないので、もしかしたら的を外しているのかもしれない。

極論すれば、猊下がある日突然国立戒壇を言い出すかもしれないのだ。

もちろん顕正会側の希望的観測に過ぎず、現実的にはなかなか起こり得ないことだろう。ただいつも言っているように凡夫には未来のことはわからないわけだから、どちらに転ぶかはまったくわからないのである。

いかに早瀬管長が動かずとも、大聖人様の大慈大悲のお力と先生の大忠誠心によって・・・

男子部第六総部長(首都圏・沖縄)の発言である。管長が動かなくても宗門に正義が蘇るのだそうである。おかしな話である。最終的には管長が動かなくてはいけない。管長が動かざるを得ない状況を作り出すべきなのだ。もちろんわたくしの言っていることはアゲアシ取りであって、彼の言いたいこともまったく同じなのだろう。

具体的なシナリオとしては、やはり宗門僧侶の中から国立戒壇を言う人が出てこないといけない。今は正信会系の僧侶が言っているだけであり、さすがにそれでは管長を動かすことはできない。

「私が法論を申し込んで早瀬管長が受けなかった場合、『日蓮正宗は正義ではないと認めた』ということでいいか?」

第二十二男子部幹事(首都圏)が妙観講員とのやり取りを紹介している。ご存知の人も多いはずだが、逃げているのは浅井会長のほうだ、と妙観講では言っている。大草講頭が何度も法論を申し込んでいるにもかかわらず、浅井先生は一度も応じたことがないのだそうである。顕正会側の言い分としては、逃げているわけではない、大草ごときが先生と法論するなど百年早い、ということなのだろう。上掲はそうしたニュアンスを含んだ切り返しである。

まあ、しかし、こんなテイタラクではいつまでも法論は実現しない。ヤジウマ根性丸出しで言うが、ぜひとも浅井先生の雄姿を見てみたい。過去の虚飾の混じった武勇伝ではなく、今ならば映像で記録が残せるのだから、それを誰もが見てみたいはずなのだ。

おそらく今の浅井先生はかつてのようなキレアジがなくなっていて、それは本人がいちばん自覚していることなのではないかと思う。ゆえに実現は難しい。

とりあえずトップ対決ではなくとも、中堅戦くらいは実現してほしいものである。もちろん映像付きの法論をである。

 この裂帛の大師子吼に魂は強く揺さぶられ・・・

副総合婦人部長も懲りない人であるが、だったら中堅戦ではなく大将戦をやるべきだろう。いや、相手が大将である必要はない。誰でもいいのだ。例のカエリタマエ事件では女性妙観講員が相手だった。彼女たちは先生との法論を望んでいたのである。望みを叶えてあげればいい。上掲のごとくの裂帛の大師子吼で瞬殺してしまえばいいのだ。

なんと、婦人部第十総部長(首都圏)も大師子吼派である。ゆえに他のくだりにおいても凄いことを言っている。

この宇宙の中で唯一正しい仏様と、唯一正しき師匠に同時に巡り値うことが叶い・・・

会長本仏論である。ちょっと見には控えめに思えるかもしれないが、実はそうではないのだ。まず控えめの意味を説明すると、仏は主師親の三徳を備えているが、先生はその中の師徳のみを持っている。ゆえに大聖人よりは下位となる。ところがである。大聖人は常住此説法であるから未来永劫の存在と考えられる。では浅井先生はどうかであるが、彼女は今この時代に生きていて浅井先生と巡り値うことができたと言っているわけである。つまり、浅井先生との関係のほうが希少、すなわち貴重であると言っていることになるのだ。大師子吼派オソルベシである。

2020/3/6

ゼンモウ  
顕正新聞の続きである。例の声明文のページには、下段に活動報告が二本載っている。男子部第五総部長(首都圏)と男子部第十二総部長(東北)である。いずれも宗門ないし正信会がらみの話題であるが、ここでは割愛させていただく。

 私は生まれつき全盲のゆえ、海も刀も光も目にしたことがありません。

この人は八八〇グラムの超低出生体重児だったそうである。それが原因で生まれた時から全盲だった。そして上掲であるが、基礎教学書を点字で読んだら竜の口の光景が瞼に浮かんだと言っているわけである。

いちおう五体満足であるわたくしにとっては、想像を絶する話である。

世の中には途中で失明する人もいる。そのような人は失明以前の経験をもとに、いろいろな想像が働く。ところが最初から目の見えない人には無理な話である。ゆえに上掲はウソである・・・と言いたいわけではない。むしろそのようなハンデを背負った人たちは、強靭な精神力の持ち主であり、ポテンシャルを最大限に引き出すことができるのだろう。逆に健常者は頑張ればもっと成果を出せるのに、実際には怠けてしまって能力の半分も発揮できていないのだと思う。もちろんわたくしも例外ではない。

次は創価学会歴五十年の男性である。

 また、私も自転車で走行中、ノーブレーキで車に突っ込まれ、自転車ごと国道に飛ばされる事故に遭いました。その瞬間「私の人生、七十八歳で終わったか」と気を失いましたが、すぐに立ち上がり、そのまま自転車で帰ることができたのです(笑)

当然、顕正会へ入会した後の功徳の体験を語っているわけだが、それにしても内容的にどうかと思うところである。

 されば、いよいよ広布最終段階に突入した本年・・・

この文章を字句通りに理解するならば、昨年までは広布最終段階ではなかったことになる。しかし、現実には広布最終段階を云々する文証がたくさん存在する。もし彼がそのことを知ったらどうするのだろうか?

姉の山本婦人部長、素晴らしい臨終
 魔障から組織を守り愛媛婦人部の礎築く


当然、登壇しているのは妹なのだろう。第十八婦人部幹事(愛媛)という肩書きになっている。

 その直後の総幹部会において先生は、平成二年の「本門寺改称陰謀」の時、顕正会の諫暁に追い詰められた学会が、当時、高知の組織の分裂を図った「寺田事件」に言及されました。

ややこしい構文である。

 そのころ、愛媛においても多大な影響を受け、高知の組織に所属していた松山市在住の人たちが、次々と「寺田」に誑かされ、松山の組織の幹部までもが先生を誹謗中傷し、退転していきました。

登壇者のお姉さんは愛媛婦人部の礎を築いた偉大な存在であり、現役の婦人部長のまま人生を全うした、という話なのだと思う。途中、寺田事件の時にも組織を守り通した。引用の前後はそのような文脈である。

わたくしが思い起こすのは松本夫妻である。特に婦人のほうは愛媛の中心者ではなかったかと思うのだが、あるいは記憶違いなのだろうか? 少なくとも今も活躍していれば、副総合婦人部長の肩書きを冠していてもおかしくなかったはずである。

さて、次に行こう。

複数の場所で同時に起こる甚大な災害に対応が間に合わず・・・

女子部第八十七区班長(茨城)は茨城新聞に載るほどの優秀な人材である。消防署に勤務し、救急救命士という難関の国家資格にも合格している。上掲は昨年の台風十九号などの事例を紹介しつつ、人力の限界を痛感したという感慨を述べるくだりである。

直近の問題で考えると、新型コロナウイルスの感染拡大が深刻であり、予断の許さない状況が続いている。もし爆発的な拡大が始まったら誰にも止められないだろう。

 また現在勤務する消防本部では、年間一万件近くの救急要請がありますが、その約一割が自殺によるもので・・・

これも深刻な問題だ。

次は八十六歳の男性婦人部員である。

 当時、正式に学会員として認められるには、一ヶ月一世帯の折伏と、入信者に勤行が身に付くよう指導するという、二つの条件がありました。

昭和三十一年のことである。上掲だけでは判然としないところがあるものの、ようするに当時の創価学会はただ単に数を増やすことだけに躍起になっていたわけではないようである。では今の創価学会はどうかという話になりそうだが、わたくしはむしろ顕正会のほうが問題だと思う。何しろ入信勤行の一回きりで終わってしまう人が少なくないからである。

勤行だけは毎日続けておりました。

唐突過ぎて恐縮だが、大雑把に数えて四十年くらいだろう、彼は組織を離れて独りで勤行を続けていたらしいのである。凄い話だ。

 されば、浅井先生とともに、もう一度、御生骨を拝観させて頂きたく・・・

つまり、彼はかつて御生骨を拝観しているのである。

まあ、しかし、彼が宗門に所属して真面目に参詣を重ねていればその後も拝観の機会はあったはずだし、これからもあるはずなのだ。浅井先生もしかりである。ここでも現実的には宗門復帰の問題が絡んでくる。今の顕正会はそれに対するビジョンがまったくない。

2020/3/3

ドデカイ  
引き続き顕正新聞を見て行く。まずは理事長の記事から取り上げよう。

 そして迎える二月は、昨年十一月に奉修された「新仙台会館御入仏式」のビデオ放映が全国で開催されます。

日本に残された時間は少ない、だとか、三百万を急ぐ、みたいなことを言っている団体にしては、ずいぶんノンビリしている。今はライブ配信すらも容易に実現できる時代である。編集が必要ならばそれも急いでやって、一週間後には公開できるようにすべきだろう。どうせならばビデオ放映ではなく、動画配信をやればいい。そうすれば視聴回数が丸見えであるし、評価ボタンを使えるようにしておけば、高評価と低評価の数も一目瞭然となる。その気になれば今月からでも実行できるはずだが、おそらくはやらないだろう。

正信会の足立淳正住職「声明文」を発表

昨年の出来事として正信会系の僧侶が顕正会の主張を支持・賛同する動きがあった。その中でも際立ったのが上掲の人物である。その後、どうやら正信会の執行部から圧力があったらしく、詫び状を強要されたとの話である。

ついには正信会の退会を余儀なくされました。

声明文の一節であるが、印象としては少しアイマイな感じがする。具体的にはどのような処分を受けたのか、そこがハッキリしないのだ。わたくしの勝手な想像では、詫び状を書けと強要された、それに対して断固として拒否した、だったら出て行けと言われた、それで自主的に出て行った、という感じなのではと思う。

そもそも正信会の組織がどのようになっているのか、それがわからない。言葉は悪いがジリ貧状態のようにも感じるし、もしそれが事実であれば正信会に所属していてもメリットはないのだろう。

問題は今後のことである。顕正会とどのような関係を保っていくのか、そこがひじょうに難しいのだ。

何しろ今の顕正会は塔婆不要論だとか戒名不要論を唱えている。葬儀は儀礼室が行なっている。すると究極的には僧侶不要論に至るわけであり、必然的に彼の存在意義はほぼゼロに等しいことになるのだ。

 また、平成23年には、いわゆる「法人派」と称する「宗教法人正信会」が分かれました。

これもよくわからない話である。正信会の歴史の中ではわりと最近の出来事と言えるものの、わたくし自身はまったく聞いたことのない話だった。

あとはアトランダムに気になったところを拾ってみたい。

池田創価学会の擁護を受けて登座した阿部日顕師・・・

師と書いているだけマシではあるものの、擁護云々はおかしな話だろう。日顕上人は日達上人から御相承を受けて登座したのである。ゆえに創価学会が日顕上人を外護するのは、信徒団体として当然である。

三大秘密の法

足立住職の所持している御書が何なのか知りたい。上掲は顕正会が一貫して掲げている表記だが、御書全集や平成新編では「大」の文字を入れていない。もし顕正会の受け売りならば本末転倒だろう。僧侶としての矜持を持ってもらいたいものである。

私は後年、知るに至りました。

ようするに浅井先生の御遺命守護の戦いを知ったのは後年のことだと言っているわけである。

 亡き師・足立堅泉が平成15年に遺した言葉を我が命に刻み・・・

父親と思しき人物が平成十五年に亡くなった。その時に遺した言葉が何なのかはどこにも書かれていないようである。

わたくしの引用意図は前掲の補強である。ようするに彼は父親の跡を継いで住職になったのだと考えられる。つまり、正確な年齢はわからないとは言え、御遺命守護の戦いをリアルタイムで知る立場にはなかったことがここからも窺えるのである。

その意味で彼の主張は顕正会の受け売りであり、すでにいくつか指摘したように、どうかと思うところがある。しかし、逆に当事者ではなかったがゆえに、客観視できている部分もある。

 さて、現在の日蓮正宗正信会はその存在価値そのものが問われるような状況となってきております。

続く文章が大事なのだが、ここでは省略しよう。

ここに日蓮正宗正信会の限界があるのであります。

早い話が、御遺命に背いた日達上人を旗頭にしているのが正信会であるからして、いつまでも日達上人を旗頭にしている以上は前に進めない、という意味である。

なるほど、鋭い観察眼ではある。

当然、現宗門も前に進めないし、創価学会も前に進めない。国立戒壇を否定しているからである。唯一、前進できるのは顕正会だけなのだと、そう言っているわけなのだろう。

ここはそれぞれの言い分があるはずなので、このくらいでやめておくが、では顕正会には限界がないのか、そこが問題である。

わたくしの思うに、もうそろそろ限界だろう。

何しろ今まで下方修正を繰り返してきたのである。どでかい目標を掲げても結局は達成できず、何度も先延ばしにしてきたのである。そんなことがいつまでも許されるはずがない。

実はすでに限界を迎えているものの、数字のマジックだとか言葉のマジックを駆使して、誤魔化している。それが正しい見方かもしれない。

公言は避けれども・・・

最後に、わたくしは文法に疎いので断言は避けるけれども、上掲にはちょっと違和感がある。

2020/3/2

マチマチ  
めずらしくコメント欄が賑わっている。お返事申し上げるべき事案もなくはないが、こういう時は得意の独白の世界に引きこもってしまおう。

そういうわけで、一月度総幹部会の会長講演に突入したい。

 いよいよ大聖人様の御馬前に馳せ参ずることが叶うと思えば・・・

昨年、一貫して指摘してきたことである。すでに二千二十年代に突入した。では今が大聖人の御馬前なのかと聞けばどのように答えるのだろうか?

わたくしの読解力では、おそらくは三百万に到達した時がそれなのだろう。しかし、この辺の認識は各幹部の間でもマチマチのようである。

未だ曽てない多数の組長が抜擢された・・・

もちろん顕正新聞に載せるのは無理なのだろう。とは言え、総数くらいは言ってもよさそうなものである。通常、班長会の参加人数は一万数千人規模であるから、ピラミッド型の組織であれば組長の総数はそれ以上のはずである。ところが顕正会は組織が歪んでいるので、おそらくは発表することが憚られるのだろう。

・・・長き病苦のすえ、昨年九月に命終した。

日顕上人のことを言っているわけだが、長き病苦とは具体的にどういうことなのだろうか?

年数だとか病気の内容が気になるところである。年齢的に考えると何らかの病気を抱えていたとしても不思議ではないし、わたくしの認識ではわりと晩年まで御隠尊の御立場で活躍されていたので、その意味からして上掲はかなり悪質なデマのように感じる。

 一月三日、アメリカ軍はイランの革命防衛隊のスレイマニ司令官を、無人機・ドローンを使って殺害した。これで一気に中東全体が凍りついた。緊迫した。

これは深刻な事態である。

 イランには、アメリカと正面切って対決するだけの力がないから、すぐには全面戦争にはならない。

その通りなのだろう。ただ泣き寝入りはしない、復讐の機会を虎視眈々と狙っている。

中ソ友好相互援助条約

不勉強のわたくしはこういう話を浅井先生から学んでいる。

ちなみに上掲は中ソ友好援助相互条約と表記される資料もあるし、前掲ではソレイマニとなっている文献も多い。大した問題ではないが、いちおう備忘録的に書いておく。

 その第一条にはなんと日本を指して「中ソ共同の敵」と明記されているのです。

だからどうした、という気分である。

平成五年に男子部大会があって、そこで浅井先生は中国の首脳部が「二十年後の主要敵は日本」と言っている旨を述べた。凡夫には未来のことはわからない。ゆえに当時のわたくしは二十年後の世界情勢がどのようになっているのかを漠然と想像するのみだった。ところが今はもうすでに二十年後を通り越してしまっている。あれは何だったのだろうかと思い返すが、結局のところ浅井先生はずっと似たような発言を繰り返しているだけなのだと気がついた。

 またロシアの核兵器保有数は、アメリカを凌いで世界第1位です。

米ソ冷静時代の延長線上にある。ただそれだけの話だろう。現状、核兵器は抑止力のための飾りであり、その多寡を云々しても意味がない。また、もし使用するにおいても弾の数ではなく命中率が物を言う。先のドローン技術などが好例だろう。

4人の有名な地震学者が口をそろえて・・・

今年、首都圏直下地震が起こるかどうか、これまた凡夫には未来のことはわからない、というのが結論である。地震学者も凡夫である。浅井先生もしかり。

中国の新型肺炎

一月二十四日の発言である。この段階では日本のことにまったく言及していない。上述のごとく、浅井先生が凡夫であることの証拠である。

現状、日本ないし世界において感染が爆発的に拡大するかどうか、瀬戸際に立たされている。もちろん終息を願うばかりだが、こればかりはどうなるかまったくわからない。最悪、オリンピックの開催すらも危ぶまれる。もっともわたくしは最初からやらなくていいと思っているわけだが・・・

 だが、バブルは必ず破裂する。世界同時不況はすでに始まっており・・・

引用が中途半端で恐縮だが、これはその通りだろう。しかもコロナウイルスという想定外の問題が世界規模で起きている。

 さあ、三百万を見つめて、いよいよ新しい前進を開始したい。

ここで最初の話に戻るのだ。御馬前だとか決戦場だとか、いろいろなキーワードがあるけれども、何がどのようになっているのか、よくわからない。

 本年の初陣二・三・四月法戦の誓願は「三万」といたします。共に励まし、この三万を大きく突破したい。

結局はこれが答えなのである。いつもと同じなのだ。ただひたすらノルマをこなしていく。熱心な活動会員もこの無限ループに気がついた時、一気にやる気が失せることになる。

今日はこんなところで終わりにしよう。

2020/2/25

オサムイ  
まず、沖浦氏の脳内コピーに驚いた。しかし、それ以上に驚いたのは頚椎後縦靭帯骨化症のことである。それでいてスポーツ選手として数々の記録を持っているのだから、驚異的である。

それに比べると、今朝の話は大したことがないように思う。加齢によって起きる変化の一つに過ぎないと考えられるからだ。もっとも逆に怒りっぽくなる人もいるらしいので、それよりはいいのだが・・・

ミカン氏は徐々に独自の宗教観のようなものを開陳し出した感じである。

天界に行ける人は心の浄化が進んでいるか否かが決すると考えています。

仏法においては仏界が最高位であり、天界はいわゆる六道の頂点ではあるものの、仏界から見ればまだ相当に低い境地である。もっとも氏の言わんとしていることは、顕正会員はそれよりもさらに低いところで呻吟している、という感じなのだと思われる。これについては弁護の余地はないのかもしれない。何しろ現実に苦しんでいる会員が少なくないからである。

さて、顕正新聞の話題である。

「国立戒壇建立 即 立正安国」特集号

第1499号の名称は上掲のごとくである。当該号は一月度総幹部会を中心に組まれているが、近年は特集号と銘打つのが慣例のごとくなっている。その基準は浅井先生が出席するか否かである。逆に言うと、特集号以外はツマラナイと、自ら公言しているようなものである。先生に頼るのも結構だが、編集部が独自で特集記事を書くようにならないとダメだろう。

広布の決戦場みつめ画期の大人事

ここで注目されるのは新理事だろう。一人は総合女子部長である。ウッカリ失念してしまったが、前総合女子部長は理事だったのかどうか、もし理事だったとしたら今はどうなっているのか、おそらくは解任されたのだろうと思うが、そうした報告はなされないのだろう。

思いつきで言うが、公式サイトがあるわけだから、そこに詳細な組織図でも載せればいいのである。班長レベルになると膨大過ぎるのでわけがわからなくなるが、例えば隊長区長以上の全人事を載せるのであれば壮観であり見栄えがいいと思う。もっとも年がら年中、離脱者が出る組織だから、やりたくてもできないのだろう。

もう一人の理事が意外だった。婦人部の大幹部ではあるものの、少し地味な存在のような気がする。まあ、しかし、わたくしは顕正新聞を眺めているだけであり、実際の組織内での人望だとかその他もろもろの事情をまったく知らないので、かなり的外れなことを言っているのかもしれない。

第六総部長が第二男子部長を兼任・・・

男子部の人事で注目したのが上掲である。これは新聞の引用ではなく、わたくしが便宜的に書き直したものであるが、ともかく画期の大人事と謳っているわりには内情はお寒い限りである。

いつも言っているように、真っ先に問題になるのが前任者である。まさか離脱してしまったのか、あるいは病気事故などで活動できなくなったのか、その辺の事情がまったくわからない。

それと筋的には、第二男子部所属の隊長たちから有能な人材を抜擢すべきだろう。それができないのは、組織の実態がスカスカだからである。まさにお寒い状況である。

本来ならば続いて会長講演を取り上げるべきところだが、今日は三級試験の合格者について書きたい。

受験者数:5481名
合格者数: 940名


合格率については言及を控えよう。合格者一覧は、それぞれが地方別に整理されている。ここでの地方とは、第一男子部・第二男子部というような具合である。ここで驚くのは、合格者がたった一名という地方組織がたくさんあるのだ。ぜんぶで九組織だろうか?

もう一つ、驚くべき事実がある。

有里、資子、真弥、幸子

これは合格者の下の名前である。ほぼ女性名だと思われる。しかし、いずれも男子部の欄に名を連ねているのだ。

もちろん逆のパターンもある。女子部ないし婦人部のところに男性名がある。極端な例を紹介しておこう。

勇二、哲雄、邦広

基本的に合格者は成績順に書かれている。第十八婦人部はぜんぶで十八名の合格者を出しているので、わりと優秀な組織と言えるだろう。ところがである。その上位三名がどうやら男性らしいのである。

恐るべき組織の実態である。

浅井先生が言っていた。異性部員はなるべく早く組織替えすべきであると。ところが現実はご覧の通りであり、三級試験ともなれば少なくとも登用・五級・四級を経なければ受験できないのだから、ようは四年以上も囲い込まれていることになる。浅井先生の弟子と言っているわりには先生の言うことを守らない。とんでもない連中である。

2020/2/23

ヒトシオ  
ミカン氏いわく、顕正会関連のユーチューバーを六人確認した、と。ずいぶん熱心にお調べになっているようだ。わたくしはコメントにも名前が挙がっている、えらてん氏以外、ほとんど知らない。いや、厳密には顕正会を話題にしている人物が他にもいることは承知している。けれども、人数までは確認していない。

現段階で言えることは、えらてん氏を除くとほとんどが注目されていない。実際、視聴回数がぜんぜん伸びていない。えらてん氏だけが別格なのである。

氏は本を何冊も出版しているし、政治家の立花孝志氏に噛みついたりして、注目度が高い。もともとポテンシャルの高い人物ゆえに、いわば多くのファンを獲得できたのだろうと思われる。おそらく氏にとっては多くの宗教の中の一つに過ぎない、それが顕正会なのだろう。

逆に言うと、顕正会そのものは大して注目されていない。えらてん氏に注目が集まっているのだ。その何よりの証拠が他のユーチューバーたちが上げている顕正会関連の動画がほとんど注目されていないことである。

さて、今日は成人式の話題である。

広布最終段階

常には総男子部長の肩書きで登壇している城衛だが、顕正会の成人式では理事長として祝辞を述べている。いちおう浅井先生の名代という位置付けなのだろう。

それはさておき登壇の内容を見ると、ご覧のフレーズが頻出するのである。四回ほど出てくると思う。それ以外には広宣流布の決戦場がある。こちらは最近の流行であるが、最終段階のほうはざっと二十年ほど言い続けられているフレーズなのである。

つまり、今の新成人が生まれる頃から使われているわけで、彼らがこの事実を知った時、どのような感想を懐くのかが気になるところである。

 昨年末、私も謹んで御供させて頂きましたが、寒空の下、凍てつく大地に座して・・・

このフレーズも繰り返し目にしてきた。あたかも地面に直接座しているような印象であるが、そこにウソはないのだろうか?

総合女子部長の祝辞も見ておこう。

御在世と未来の広宣流布、そして日本の広宣流布と世界の広宣流布、この四つを一つの御文を以てお示し下された・・・

これが現在の顕正会における公式見解なのだろうか?

わたくしが素朴に思うことは、まず御在世のことは過去のこと、すなわち終わった話なのでそれでいいだろう。問題はこれからのことである。いわゆる前代未聞の大闘諍が一閻浮提に起きる、その後に日本の広宣流布が実現する、まあ、ここまではいいだろう。では、さらにその後に、再び前代未聞の大闘諍が起きて世界広布が実現するのだろうか?

凡夫には未来のことはわからないので、顕正会の人たちも本当の意味ではわかっていないのだろう。ただ言えることは、なんかヘンだなあ、ということである。一回で終わってほしいものである。

さて、今度は新成人たちの登壇である。

少し前にも指摘したように、どうも最近の顕正会は若い人が育っていないような印象を受ける。今回の登壇者四人も以前に比べると役職が低い印象なのだ。あるいは一年ごとに変動があって、たまたま本年は人材が少ないだけなのかもしれない。であれば明年以降、人材のたくさん集まるような年もあるのかもしれない。

 経済苦で食事もままならず、御奉公で外出する時には母子三人で大きなおにぎりを二つずつ持ち、東京会館へ往復二時間、本部会館へは往復六時間かけて、私たち姉妹を自転車に乗せて参詣し・・・

女子部第三百十五区総班長(首都圏)の記事は感動的である。
見出しにも、母の信心に支えられて今の自分が、とあるように、これは並大抵のことではない。ごく単純に、一人で自転車に乗ったとしても、往復二時間はカッタルイ、ましてや往復六時間ともなればなおさらである。それを二人の子供を乗せて自転車を漕ぐのである。
また逆にヘンなことを言うようだが、子供の立場で考えてもけっこうシンドイことである。片道一時間ないし三時間をずっと座りっぱなしでいるのだから、堪ったものではないだろう。だが、長じて信心のことがわかってきて、母の苦労がわかってくると、自ずと感謝の気持ちが湧いてくるものなのだろう。

母にしても感慨ひとしおだろう。成人を迎えた娘がこんな立派な登壇しているのだから、嬉しさ申ばかりなしである。


同日追記:誤字を訂正した。

2020/2/22

ノタマウ  
沖浦氏のコメントに三国志の話が出てくる。

 乱れた世では本当の人物は出てこないのです。
 いないのではなく、隠されている。
 それを見つけるのです。
 人材は常にいますが、世に阻まれて出てこない。
 それを見つけ出すのが王の資質です。


これは何かのコピペなのか、それとも沖浦氏の脳内にストックされているものなのか、そこが気になった。不勉強のわたくしは脳内ストックがほぼゼロなので、上掲のようなセリフがスラスラと出てくる人を羨ましく思うのだ。

話が通じない。道理が通じない。何を言っても、ビクともしない人達のようです。

今度はミカン氏である。顕正会に対する鋭い観察眼を持っている。上掲はその一節であるが、いわばこれがカルト宗教の典型的な姿なのかもしれないと思った。

氏も指摘しているように、平伏する、咽び泣く、みたいな言葉は一般的には多用されることのない言葉である。それが顕正会の中ではたくさん使われている。このことが特殊な環境を物語っているのだ。

わたくしが常日頃、顕正新聞の中からピックアップしている言葉の数々も、そうした特殊性を感じさせるものが多い。

さて、引き続き顕正新聞を見て行くが、まずは上掲に関連するところから始めよう。

先生の「漢王三尺の剣」を重くする大成長を・・・

これは男子部第五十九隊長(宮城)の記事に出てくるわけだが、無教養のわたくしにはさっぱりわからない。おそらくはかつての冨士に解説みたいなものが載っていたと思う。あるいは顕正新聞のコラムのようなところにも書かれていたかもしれない。しかし、わたくしはそれでもわからなかった。顕正会の人たちは皆がわかっているのだろうか?

 「諫臣・争子」として、国のため宗門のため全責任を担われる先生・・・

第十三婦人部長(東北)の言っている意味はわかる。ただ一般人にはわけがわからないだろう。ましてや全責任などとノタマウのは特殊きわまることだ。

顕正会の特殊なボキャブラリーについては今後も取り上げていきたい。

顕正会初の地方会館として仙台会館が建立され・・・

ところでこの女子部第十一総部長(南東北)の発言は正しいのだろうか?

わたくしの認識が正しければ、顕正会初の地方会館は高知会館ではなかったかと思う。かなり早い時期から存在した。それは有力なリーダーがいたからなのだろう。ところがその人物は途中でおかしくなってしまった。有名な事件であり、わりと最近も話題に上がっていたと思う。もっとも委細に見れば、幹部の離反は日常茶飯事なのだが・・・

次のページに目を転ずると、正義にめざめて、の登壇が二本ある。いずれも高齢の男性であり、婦人部ないし女子部の紹介で創価学会から入会したらしい。ここでは具体的な内容を省いて、感想だけを書いておこう。若い入会者はいないのだろうかと。今は平均すると入信も入会も高齢者が目立つようだ。

下段の女子部第二百九区班長(宮城)は八十一で亡くなった母親のことを書いている。

 令和元年六月に開催された北東北大会では、長距離の移動を伴うことから母の体調を心配し、「車椅子で行こうか?」と提案しましたが
 「浅井先生にお会いするのだから、車椅子では行かない」
 と、キッパリ断られ・・・


亡くなったのは九月であるからして、すでに六月の時点でかなり衰弱していたと考えられる。その意味で車椅子を拒否する気丈さは美談と言えるかもしれない。ただし、あえてイチャモンをつけるが、上掲は少し問題があると思う。ようするに現状、顕正会には後期高齢の会員がたくさんいて、車イスを常用している人も相当数いるはずなのである。ゆえに上掲のような記事は、その人たちから車イスを奪うことにもなりかねない意味で問題なのである。

しかし、さらに矛盾したことを言うと、高齢者の中には甘ったれている人もマレには存在する。頑張れば自力歩行が可能なのに、甘ったれて車イスにすがっている。結局、そういう人は筋力が衰える一方なので、二度と自力歩行ができなくなる。それじゃあダメなのだ。

最近の顕正会は高齢者が目立つ。結果として臨終を云々する記事が多い。

それはそれで結構だが、わたくしの思うに高齢者の生き様のようなものをもっとアピールすることができれば、顕正会も存在価値が示せるのではないかと思う。現状は生き様ではなく死に様を見せている。仏法上、それが重要だと言いたいのはわかる。ただ、それだけではダメだろう。やはり生き様を見せるべきなのだ。

あるいは浅井先生がそのお手本のつもりなのかもしれないが・・・

2020/2/18

アッカ  
一時的滞留者の意味がわからない。あるいは顕正会に一時的に在籍していたことがあり、その時の経験を踏まえてコメントされているのかもしれない。

信者さんへの配慮は感じられないと思える。一人で複数の新聞代を払わせられているらしい。教団が負担すれば良いのにね。

いろいろと書いておられるが、上掲に関してだけ私見を述べておきたい。

顕正新聞の多重購読問題については拙ブログでも過去に繰り返し扱ってきた。これを広布御供養の問題と絡めて考えると、いちおう本部首脳の理念としては会員一人ひとりの負担を軽減したいとの考えがあると思われる。つい先年、八万円の上限が六万円に引き下げられたことがその根拠である。世の中、消費税の増税に代表されるように、何でもかんでも値上がり傾向にある。人々の生活は苦しくなる一方なのだ。顕正会員も例外ではない。本部首脳はそうした経済状況を踏まえて、あえて引き下げに踏み切ったわけなのだろう。それは悪いことではない。

この方向性からすると、多重購読も禁止しなければいけない。

では実態はどうなのかであるが、わたくし自身は内部の事情にまったく精通していないので、何とも言えないところである。以下はその上での勝手な憶測であることをあらかじめご承知願いたい。

ようは活動会員たちが勝手にやっていることなのである。極端な話、幹部たちも知らない。末端の班長クラスが勝手にやっている。
もちろん隊長区長クラスが承知している場合もある。地方部長クラスが承知している場合もあるかもしれない。それ以上の大幹部はどうかが微妙である。
おそらくは総合部長クラスは知らないのだと思う。だとすると浅井先生も知らないことになるだろう。

女子部の総合部長は知っているかもしれないが、婦人部ないし男子部は知らない。何しろ彼らは総合部長に長く君臨しており、現場の苦労を知らないのである。

ただし、薄々は感づいている。もしくは知っていて知らないフリをしている。早い話が黙認している。

そりゃそうだろう。

いちばん顕著なのは結集である。あるいは教学試験もバロメーターとなる。

極端な話、折伏成果もインチキができる。いわゆる水増し報告である。同様のことが顕正新聞の購読推進にも言えるし、広布御供養もしかりである。

ところが結集は誤魔化せない。教学試験も同じである。実際の集会で人が集まらず会場がスカスカであれば、顕正新聞の購読者がたくさんいて広布御供養もたくさん集まるのに、なぜに集会に人が集まらないのかを説明できない。折伏成果があれほど上がっているのに、登用試験を受ける人がぜんぜんいないのはなぜなのか、それも説明できない。

ゆえに当面は誤魔化せても、いずれは発覚する。

しかし、そもそもなぜにそのような問題が起きるのかを考えると、結局は成果至上主義の弊害に他ならないのである。平たく言うと、無理なノルマを課すからインチキが横行するのである。その意味では成果至上主義をやめなければいけない。

ここで反論があるかもしれない。広宣流布はどうするのかと。

いわばこれが顕正会の大義名分であり、悪く言えば成果至上主義を正当化するための言い訳になっているのだ。

先ほどの話に少しだけ戻ると、顕正新聞の購読者もたくさんいて広布御供養もたくさん集まるのに集会はスカスカだとすると、それは誰かがインチキをしているからに他ならない。

その張本人は浅井先生なのだ。

そりゃそうだろう。今現在、二百万を標榜しているのである。では二百万人の大結集ができるのかと言えば、無理だろう。つまり、この数字そのものがインチキなのである。

浅井先生がインチキをしているのだから、弟子たちも右に倣えでインチキをするようになる。至極当然の道理である。

悪貨は良貨を駆逐する

わたくしはこれを経済学の用語としてではなく、人生訓の意味で噛みしめている。自惚れを承知で書けば、わたくしは自分を良貨だと思っている。ようは駆逐される側なのである。
どこの集団・組織に属していても、そこで見るものは良貨と思われていた人たちが悪貨へと堕していく姿である。彼らは無教養ゆえかあるいは承知の上なのか、良貨であることを捨てて悪貨へと突き進むのだ。
かく言うわたくし自身はさして教養があるわけではないものの、良貨であり続けたいと思っている。早い話が良貨は損なのだ。ゆえに多くの人たちはそれを嫌うのである。しかし、わたくしは損得勘定よりも大事なものがあると思っている。

ほとんど意味不明の言説だったかもしれない。

ただ、おそらくは浅井先生の原点もほぼ同じはずであり、いわゆる崇高な理念を懐いて出発したはずなのである。ところが組織が大きくなるにつれて、悪貨が蔓延するようになる。その対策が甘かった。あたかも直近のコロナウイルス問題のごとくである。

今日はまとまりのない話になってしまったようだ。

最後に沖浦氏のコメントについて触れると、樋田さんに電話をした云々は少し前にも関連するコメントがあったものの第三者には理解しづらい内容だった。今回も同様であり、そもそもそのようなコメントを拙ブログに残す必要性があるのかどうか、そこが問題だろうと思う。

2020/2/12

フショウ  
沖浦氏の今朝のコメントは過去にも繰り返し目にしてきた内容である。ゆえに今さら取り上げるべきところはないのだが、あるいは次のくだりが注目かもしれない。

勤行もお題目だけになる・・・

ヨソサマのことなので記憶がアイマイであることをお断わりしておく。おそらくはここ十年から二十年くらいのことだろう、勤行が大幅に短縮されたのだった。法華講員の誰かが、そんなのは勤行ではない怠行だ、と繰り返し揶揄していた。それが今後さらに短縮されるとなると、もはや勤行とは言えなくなるだろう。それとも時間は短縮せず、題目だけを長時間唱えるのだろうか?

さて、顕正新聞である。

二面には新仙台会館の報道があって、写真も豊富に使われていて逆に文章が少ない点、今の時代に合っているのかもしれない。

後世永遠に残る重大指導を留め置かれた先生・・・

それにしてもこの大仰さには恐れ入る。

会長講演は三面から五面にかけて掲載されており、これが後世永遠に残る内容なのかと聞かれれば、答えに窮する。イヤミを言うと、浅井先生の大言壮語録として数十年くらいは語り継がれるかもしれない。それ以後は忘れ去られてしまうだろう。

 「一時に」とは瞬間的にということです。

これは御書の解説であるが、先生の言い訳でもあるのだろう。続きの文章をご覧に入れたい。

遅々として進まないようであっても、時が来れば日本一同「一時に」信ずるのです。

かつての一千万だとか一億の目標が破綻したことの言い訳である。

 羅什三蔵は、法華経が説かれた霊山一会の説法の座に連なった、多くの菩薩の中の一人です。

不勉強のわたくしはこれがわからない。具体的には何菩薩なのだろうか?

金言に云く、広宣流布の時、光明を放つべしとなり。

日琫上人のいわゆる御生骨についての御指南である。顕正新聞には上人の直筆と思しきものが掲載されている。原文は漢字とカタカナで書かれている。それを引用の段階で上掲のように直したわけなのだろう。それはいいのだ。

 「御金言に云く、広宣流布の時、光明を放つべしとなり」

前掲は長文の引用だった。そして上掲は部分的な引用である。そして以下、浅井先生の結論である。

これは大聖人の御金言なのです。

何となく詐術的である。

原文は金言となっている。引用もそれに忠実だった。ところが部分引用の段階で御金言となって、最後は大聖人の御金言であると結論づけている。

これまた不勉強で恐縮だが、これは御書のどこに出てくる御指南なのだろうか?

もし浅井先生が日琫上人の御指南をそのまま信受するのであれば、日達上人の御指南も素直に受け止めるべきだったのではないかと思う。自分の都合で取捨選択しているとしたら問題である。

 「時の不祥」を天魔狙う

カギカッコが意味深である。本文を読んでも出典がわからない。そこでググってみたら如説修行抄の有名な御文が出てきた。完全一致の検索だと上位のすべてが如説修行抄だった。少し古い小説には出てくるようだが、現代人はほぼ使わない表現のようである。

わたくしにとっては浅井先生と同じ時代に生まれてしまったことが時の不祥なのかもしれない。

最後に自虐ながらも書いておくと、拙ブログが後世永遠に残るかどうかは浅井先生に委ねられている。何しろ最初のほうに書いたごとく、いずれは忘れ去られていく存在が浅井先生なのだ。それに寄生ないし依存している以上、拙ブログもいずれは消えていくことになる。当然の帰結である。

2020/2/11

キラビヤカ  
婦人部坂戸支区総班長に関して、貴重な情報をたまわった。わたくしは顕正新聞に書かれていること以外は知らないので、ありがたいコメントだった。あるいはかつての冨士にくだんのご夫婦の記事が載っていたかもしれず、それを読めばいろいろとわかるのかもしれないが、今は保留としたい。

さて、顕正新聞第1498号である。

「新仙台会館御入仏式」特集号

本特集号の斬新なところは第一面には別の記事が掲載されていることである。すなわち教学試験と成人式である。

すでに書いたと思うが、なぜに四級試験がないのか、そこが問題である。顕正会のイビツな実態をあらわしているのだろう。また、教学試験の記事には毎年のように同じネタが出てくる。

あまりの熱気に暖房を消して窓を開け、冷房をつけた会場もあった。

毎年のように同じ話が出てくる。もし同じ会場が毎年のように同じ愚を犯しているとしたら、幹部にも責任があるだろう。事前に会場側に対策を講ずるように言うべきである。

 いよいよ広布の決戦場へ臨む年の教学試験とあって・・・

これは何を意味するのだろうか? 本年中に何らかのアクションを起こすつもりなのだろうか?

さて、今度は成人式である。

 令和二年度の成人式・・・

この年度の概念は正しいのだろうか?

もっとも顕正会が独自に行なう成人式なので、顕正会の勝手ではある。そこで思い出した。国難年号はどうなったのかである。とうとう言わなくなってしまった。これが顕正会のいい加減さである。

ところで成人式の写真であるが、一面下段に二つ並んでいる。八面と九面の真ん中にも、あることはある。

何が言いたいかであるが、四つの写真のうち一つが晴れ着にスポットを当てたキラビヤカな写真ではあるものの、残りの三つの写真はひじょうに地味な写真なのだ。

わたくしの印象としては、例年に比べて晴れ着を着て参加している人が少ないのだ。この意味するところは、若い人材が育っていないのかもしれない、ということである。

あるいは次が傍証となるかもしれない。

総班副長、支隊副長、総班長、支隊副長

これは成人式の登壇者の役職である。彼らは同年代における出世頭の意味がある。ゆえに過去の登壇者を調べれば、もっと役職の高い人たちがたくさん出てくるはずである。本年は総班長が一人いるものの、残りの三人は副長である。これはかなり深刻な事態かもしれない。

顕正会は成果至上主義である。

かつての高校生顕正会員は学校の名簿を使って片っ端から折伏していた。一つの決めゼリフとして、お金は掛からない、試しにやってみよう、というものがあった。実際、それで入信する人がたくさんいたのだ。当然、論功行賞として役職が上がっていく。かつては支隊長ないし総班長に昇格する高校生がザラにいたのである。

昔の顕正会は世間にまったく認知されていなかった。また一般人の立場では調べる術がなかった。金が掛からないなら試しにやってもいいと、そう思うのが自然ではあった。

ところが今は時代が劇的に変化してしまった。何でもかんでもググればいいのだ。いとも簡単に情報が得られる。

もはやこうなると、試しにやってみようは通用しない。

もちろん何事もやってみないとわからないのだが、その前の段階においてやるべきかやらざるべきかの判断ができる。判断材料がたくさんあるからだ。いやもちろん、厳密にはやってみないとわからない。ネット情報は玉石混交でもある。ただ、そうであってもおおよその判断はできる。かつての何の判断材料もない時代に比べれば、今は明らかに違うのだ。

甚だ失礼な話をすることになるが、近年の顕正会は高齢者の入信が目立つ。彼らはネット環境に不慣れである。その意味で顕正会のエジキになりやすい。しかし、今後はそうした人間が減っていく。

話が冗長になってしまったようだ。

ともかく浅井先生自体が古い時代の人間であり、こうした時代の変化に対応できていないのだと思う。では、城衛はどうかであるが、彼もまた今年新成人を迎えた人たちから見れば相当に古い世代である。その意味ではもっと若い世代の中から、まさに今の時代に即応したニューリーダーが出てこないとダメなのだろう。


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