本日、道の駅清流茶屋かわはら主催、第1回ミステリーウオークツアーが開催されました。
参加メンバーは結果として、ちょうど定員20名ジャストとなりました。神技のようなピッタシかんかん(因幡ではピッタシぴょんぴょんが適当と思われます)の人数でした。そのいきさつを知る側としては実に奇跡が起こったというしかありません。最終的に当日参加を決められた方、なんと東京からいらっしゃった方の飛び入り参加によってぴったり定員となったのです。何か見えざる力がはたらいたといえるかもしれません。マイクロバスの定員ちょうどで、多すぎくなく少なすぎくなく、ちょうどだったのです。
しかも、筆者と高校時代の同じクラスのクラスメートも参加されており、その方は筆者の変わらぬ童顔ぶりからすぐに気付いてくださっていました。実際、筆者は少し太ったものの、いまだに子供っぽい雰囲気をぬぐえないでおり、すぐに筆者の正体(醜態)がばれてしまうのも無理もありませんでした。
ツアーでは、時間調整の都合で説明を割愛せざるをえない部分もあり、参加された方にはわかりにくい面もあったと思われます。そこで、このブログで説明し切れなかったことも含めて、数回に分けて用意していた原稿をすべて公表することにしました。ただし、この内容は2冊目で紹介するため、期間を限定しての公表といたします。
まず、最初は、今回のツアーの最大の新説、嶽古墳・賣沼神社についてです。
嶽古墳
嶽古墳は、いわゆる白兎夏至冬至ライン上に位置しています。こちらの地図(八上白兎夏至冬至ライン図)を参照してください。このライン上の遺跡配置は八頭町福本の郷土史研究家、新誠さんと私が共同で発見しました。
このラインの起点はというと、八頭町稲荷の土師神社です。そこは土師氏の祖先神、天穂日命を祀っています。このラインは河原町の本鹿まで、ずっと一直線に続き、そのライン上にさまざまな神社や遺跡・名所が並んでいるのです。土師神社の次に八頭町宮谷の賀茂神社、鳥取県下で一番大きな鳥居のある神社ですが、その神社の一の鳥居跡、そして賀茂神社に属する胞衣塚跡。ここは生まれた子の健康を願って胞衣が地中に埋められた胞衣塚が今も残ることを示している、ともいえますが、私は八上に誕生した高貴な方の胞衣を祀ったのではないか、と考えています。次に最近脚光を浴びている八頭町福本の白兎神社、隣の池田集落との間にある八頭町天王木、そして八頭町池田の白兎神社、そして土師百井慈住寺の廃寺塔礎石、八頭町米岡の天照大神を祀る米岡神社、そしてなんと道の駅清流茶屋かわはらもこのライン上なんです。そしてここ、八上姫の御陵といわれる嶽古墳と賣沼神社です。ちなみに終点は八上姫と大己貴命伝承の伝わる多加牟久神社です。
嶽古墳は5世紀ごろに築造された八頭郡最大規模の前方後円墳ですが、そうするとおそらく2000年以上前の神代の時代の八上姫と、時代がまったく異なるではないかというのが素朴な疑問であると思います。八上でかつて活躍された神と崇めた姫の御陵を古墳時代に整備し、当時流行していた前方後円墳という形式で墓所を修築したものとは考えられないでしょうか。東は生誕、西は葬送を意味するとするならば、東の八頭町宮谷の胞衣塚、西の河原町曳田の嶽古墳は大いに関連を持っているのではないでしょうか。嶽古墳の前方部は北東方向に向いています。その方向には霊石山伊勢ヶ平、御冠石が位置しています。
ここは八上の防衛上、河原城と同様、最も大事な地点の一つです。 山々に囲まれた八上の中で唯一、平野部とつながった河原平野、そこを守ることは大切なので、京都の都を守る目的で御所の四方に配置された「天王」神社や「大将軍」と同様の意味を持って守護していた、と考えられるでしょう。
因幡の国境付近は八上姫を祀る神社があります。青谷町の潮津神社、岩美町の御湯神社、国府町の酒賀神社、そしてかつての若桜の氷ノ越えでは大兎明神が祀られる因幡堂があり、八上姫と因幡の白兎は因幡全土の守護神だとみなせます。
賣沼神社
『鳥取県神社誌』によれば、かつて八上と呼ばれていた地域で八上姫を祭神とする神社はこの賣沼神社、八頭町橋本の大江神社、そして、河原町佐貫の都波只知上神社の3つです。都波只知上神社は明治四二年、神社合祀によるもので、元は、河原町佐貫の石(いしが)坪(つぼ)神社に祀られていたのです。『八頭郡誌』によれば石坪神社は、八上の総社として八上の式内社十九座全てを祀る神社でした。石坪神社の創建年代や縁起、歴史は不明ですが、鹿野城主が瀬戸内へ塩を買い付けに行くとき、必ず石坪神社に参詣した、という言い伝えがあります。
その石坪神社を明治になって合祀し、都波只知上神社に八上姫が祀られることになったのです。
仮に、賣沼神社に八上姫が祀られていないとするならば、八上姫は本拠であるはずの八上郡では、唯一旧船岡町橋本の大江神社の摂社にしか祀られていなかったことになるのです。それはどう考えてもありえないことです。
そして、当たり前のように聞こえるかもしれませんが、その「賣沼神社」は、中世に「西の日天王」と呼ばれていた鳥取市河原町曳田の神社である、とみなすことも妥当です。この祭神「西の日天王」は賣沼神社について調べたことのある人なら、誰でも一度は疑問に思ったことと思います。江戸時代に小泉友賢が賣沼神社は因幡中探しても見当たらなかったと因幡民談記に記しており、八上姫の別名が「西の日天王」というのはちょっとぴんとこない、本当にここは八上姫を祀る神社なのだろうか、と思ってしまいます。ではまず、祭神名について検討しましょう。
「西の日天王」という祭神名から仏教的なニュアンスを感じます。「天王」といえばまず素佐之男命と関連する「牛頭天王」(ごずてんのう)を思い浮かべます。丑と関連することに注目です。八頭町福本と池田の間、白兎夏至・冬至ライン上に素佐之男命を祀る「天王木」があることと対応させているのでしょうか。夏至・冬至の日の出、日没ライン上、天王木を「東の日天王」に見立てたときの「西の日天王」ではないか、とも思われます。
実は仏教との関連に符合する事実がありました。后さんから、「先日、米子方面から邪馬台国山陰説を唱えている田中文也さん率いる歴史愛好家の方が訪れた際に、賣沼神社の装飾に非常に際立ったものがあることを指摘されていた。」という情報を得ました。それは、この「烏天狗」の彫刻のことです。確かに神道系の神社では烏天狗の装飾はかなり珍しいものです。烏天狗の装飾が見られる寺社は、明らかに修験道と関連がある所に限られるといってよいでしょう。
烏天狗は修験道を象徴するもので、その姿は山伏(やまぶし)そのものです。賣沼神社の周辺をよく調べてみると、曳田のすぐ隣、河原町天神原と中井集落にまたがる山にはかつて戦国時代まで、修験道の一大拠点「羽黒山妙玄寺」があり、その規模は修験道寺院の中でも全国有数の規模であったらしいことが判明しました。しかもその山の名は今でも「羽黒山」と呼ばれているのです。東北の修験道のメッカ、羽黒山の名をそっくりそのままいただいた山がこの八上の地にあるのです。この山は八上郡の西に当たります。羽黒の黒い羽とは烏を意味するものと思われます。羽黒山の神は女神といわれ、烏と兎が登場する年末の祭り、松例祭には女性は参加できなかったそうです。修験道と兎と烏、そして女神とは切ってもも切れない関係があります。東北の羽黒山は丑とも非常に縁があります。丑と関連する牛頭天王、素佐之男命と関連します。
そしてその山には、なんと1995年になって新たに確認された前方後円墳があり、それは、旧八頭郡で最大規模の嶽古墳を上回る規模のものであることが分かっています。
この羽黒山妙玄寺は戦国時代、1581年に秀吉の焼き討ちにあって、一夜で消滅してしまいます。山を隔てた佐治町大井にも修験道とかかわりのあったと思われる熊野神社遺跡があり、こちらは今とても脚光を浴びています。
「賣沼神社」はかつて梁瀬山の嶽古墳の東側手前にありました。この山に葬られている八上姫を祀るお墓のための社だったと考えられます。古墳時代になって、お墓の整備のために後世に土師氏が前方後円墳を造営したのでしょう。古墳時代以前にもともとお墓が築かれていたものと思われます。それはちょうど江戸時代以降、荒れはてていた天皇陵古墳が整備されていったことと、なんら変わらないものといえます。
年代は不明ですが、中世になって簗瀬山の元賣沼神社は、そこから北西方向、賣沼神社現在地の約100メートル西側に遷宮しました。この移転と賣沼神社の祭神名変更とは大いに関連がある、と推定します。寺院が日本の神の守護を得るために神社を併設することはよくあります。修験道の勢力は賣沼神社を自らの影響下に置き、修験道の祭神名らしく「西の日天王」と名づけ、社殿の装飾にもその象徴として烏天狗を採用したのでしょう。素佐之男命と「天王」は大いに関連し、丑とも縁があります。修験者なりの解釈から八上姫を改名した神であるのかもしれません。「西飛天王」つまり「天を飛ぶ」とも記されている江戸時代の文献もあり、「飛天」からは女神、羽衣天女を連想させます。
時代はもっと下って「西の日天王」への祭神名変更は、豊臣秀吉による焼き討ちの直後かもしれません。そのとき修行の場を失った修験の山伏たちが、仮の行場として賣沼神社を神仏習合の霊場に変更したとも考えられるのです。
「西の日天王」への祭神名変更の時代は、最も遅くて16世紀後半、最も早ければ羽黒山妙玄寺創建以降、鎌倉・室町時代あたりと考えられ、「八上姫を祀る賣沼神社」はその間、事実上消滅していたのかもしれません。
その後、修験道の影響力がなくなったのを見計らって「西の日天王」への祭神名変更の歴史的経緯をすべて知っていた神主や僧侶は、元の「八上姫を祀る賣沼神社」へと改めたのでしょう。おそらくそれは元禄年間(1688年〜1703年)になされたものと思われます。小泉友賢の『因幡民談記』は1673年ごろにほぼ書き上げられており、その時点では不明であったのは当然だったのでしょう。しかし、その17年後『因幡民談記』を完成させた2年後、1690年(元禄3年)には小泉友賢は「賣沼神社のこと当社神蹟の本源を尋ね窺うに右二書(先代旧事本紀巻第四 延喜式神名帳)に記される八上媛の廟社なること明白」と記しています。このことから1673年以後、1690年までの17年間のうちに賣沼神社の祭神・社名変更がなされたことが分かります。
ですから、賣沼神社由緒書きに元禄年間に元の社名に戻した、と記されているのはほぼ間違いないことなのです。