2月4日の西宮市における瀬織津姫と西宮に関する公演はひとつの転換点になるのでは、あるいはなってほしいという願望を強く抱いています。そして、同時に本来の祭神が明らかにされることは、皇室、伊勢神宮、廣田神社をはじめ関連する神社の皆様が願っていらっしゃることではないかと、思っています。
仏教と神道の緊張関係を見るとき、私は「平安時代の350年間は比較的穏やかな時代であった」として「パックスヤポニカ」を説いている山折哲雄氏の見解にはとうてい首肯しがたいものを感じます。
氏は、平安時代、というより、藤原氏が政治、宗教の支配権を掌握する奈良時代の直前あたりから神道に対するドラスティックな改変を完膚なきまでに実行したと思われる事実をなんと考えていらっしゃるのでしょうか。あるいはそのような事実は一切なかったとおっしゃるのでしょうか。
神社のとなりの神宮寺は一体どんな役割を担っていたのでしょうか。あるいは因幡の夏至冬至ライン確認で明確になった白鳳寺院建立による神社、神道祭祀拠点の乗っ取り、本地垂迹説による仏教優位のイデオロギー流布、これらはそれぞれ独立した政策ではなく総合的な神道弾圧・宗教イデオロギー政策ととらえることが妥当でしょう。(しかしひょっとすると、誰もそのようなことを指摘していないのではないでしょうか。)
国の最高神を祀る伊勢神宮において祭神を変更し、そのために長年伊勢神宮両宮の祭祀を担っていた渡会氏を内宮から放逐し、渡会氏を外宮の祭祀のみに限定し、内宮の祭祀を藤原氏が統率する荒木田氏に担わせました。
これにつじつまを合わせるように歴史書「記紀」を編纂して、それまでの伊勢の祭神、天照大神と瀬織津姫を習合させるかのごとく、女神の天照大神一神を祭神として、男神天照大神を抹消、同時に、女神となった天照大神に后神がいてはつじつまが合わぬということで、瀬織津姫の名を内宮から消し去り、瀬織津姫を祀る神宮別宮、荒祭宮、伊雑宮、瀧原宮、そして廣田神社、日前宮という重要な祭祀拠点から瀬織津姫の名を抹消していきました。その後、全国の天照大神と瀬織津姫を祀る神社から瀬織津姫の名を徹底的に排除、抹消してきた事実があるのは菊池展明氏の克明な全国調査・研究によって明らかです。
荒祭宮は、藤原氏の勢力の弱まった鎌倉時代に、発言権を得た外宮の渡会氏から伊勢神道の根本聖典「神道五部書」において瀬織津姫を祀っていることが再び表明されました。
平安時代以降、伊雑宮は当初2柱の神を祀っていたものを、一柱として祭神名を玉柱屋姫命という由来不明の神名で祀られることになります。その後、明治になって突如として天照大神を祀る社として変更されます。もとはホツマの記述のとおり、天照大神と瀬織津姫の2柱を祀る神社であったはずです。
瀧原宮では速秋津彦、速秋津姫命、としました。秋津とは日本の古名秋津島から来ており、日本を代表する神の一対の夫婦神として祀ります。やはりここも、明治以降、両宮とも天照大神御霊を祀るとして、祭神名の変更がなされました。神宮側も苦し紛れの見解を述べています。即ち伊勢神宮の公式ホームページによれば「両宮とも皇大御神の御魂を奉斎しているのは、皇大神宮に皇大御神を奉祀し、同別宮荒祭宮に皇大神宮の荒御魂を奉斎する姿の古い形と考えられます。」とあります。
http://www.isejingu.or.jp/naiku/naiku2.htm
日前・国懸宮(ひのくまくにかかすみや)では、日前大神、国懸大神と、またまたなじみのない祭神名に変えられてしまいます。
しかし、ここもいずれの社も天照大神を祀るとしているのです。つまり、天照大神と天照大神荒御魂=瀬織津姫のことに相違なく、ホツマから、アヒノマエミヤ(日前宮)に瀬織津姫を祀っていることが明確に読み取れるのです。
皇室祭祀を司る白川家が影響力を及ぼした西宮の廣田神社においても、天照大神荒御魂の名すら消され、八洲(やしま)大明神(八洲とは日本を指す)という名前にすり替えられてしまうのです。神祇伯、伯家神道とは一体なんだったのか、本当に皇室のための祭祀をしていたのではなく、藤原氏の宗教イデオロギー政策のお先棒を担いでいただけではないのでしょうか。
明治以降、祭神名として撞榊厳魂天疎向津姫命(つきさかきいつみたまあまさかるむかつひめ)が復活し、天照大神荒御魂と同じ神として祀られることになりました。
一方日本書紀編纂者は、「ここに天照太神誨へて曰く、我が荒魂、皇居に近づくべからず、まさに御心の広田の国に居らしむべし」と不可解な託宣なるもので念押しして、「天照大神荒御魂即ち瀬織津姫を宮中に祭るな」と、巧妙に細工を施しているのです。その論理は伊勢神宮内宮から瀬織津姫の名を抹消したのと同じやり方です。書紀のこの記述のおかしさに気付く人も少なかったようです。
しかし、京の都の人々、ならびに下鴨神社、上賀茂神社、あるいは三条蹴上の日向大神宮などの神官たちは男神天照大神とその后瀬織津姫の関係をちゃんと知っていたと思われます。その結果、今も祇園祭の岩戸山には男神天照大神の像が、そして、鈴鹿山には瀬織津姫の像が祀られているのです。下鴨神社、上賀茂神社、日向大神宮には瀬織津姫=天照大神荒御魂が祀られています。
その後、藤原氏一派は全国の神社の祭祀権を掌握すべく式内社を選定し、選定した神社の祭神名をすり替えられるように、延喜式神名帳には祭神名を記載しないで、その後、折を見て祭神名を変更していった形跡が、全国各地の神社に見られるのです。
伊勢神宮とその別宮、そして、瀬織津姫を祀る社格の高いほかの神社においてもいっせいに、このような祭神名変更がなされたいったこと、平安時代に藤原氏を批判した書物、大鏡、竹取物語などいずれも作者不詳となっていることを深読みすれば、以前にも述べたとおり、平安時代は暗黒の藤原独裁政権の強権支配であったといえるでしょう。
今でいえば、ムバラクなどの独裁政権が、強権支配を通じて長期間続いていただけに過ぎない、政権掌握者がそれだけ圧倒的に強権を一手に掌握し、それを世襲システムとして確立した、ということに過ぎないと思われるのです。それを真に平和的な状態と見て、パックス云々と評価することが果たしてできるのでしょうか。