9月23日(金)亀岡と洛西神社参拝ツアーを催しました。ミラクルな出会いや現象もあり充実した一日でした。
午前9時、予定通り阪急夙川駅前より、出発しました。171号線を北上し、池田市の中心部で、なぜか、ナビが誤った道をガイドしてしまい、同じ箇所をぐるっと回ることになりました。この影響で、約30分、亀岡に到着するのが遅れました。これは、吉と出るか、凶と出るかその時点では分かりませんでした。結果は吉でした。
まずは穴太(あのう)の神明社に到着しました。
穴太の地名は、西暦478年雄略22年丹後半島、比沼麻奈為神社から伊勢の山田の現在の伊勢外宮に遷座の途次、10日間前後の日程の中で、この亀岡の穴太で一夜を過ごされました。
そのとき、奉納した稲種が朽ちた木にできた穴の中へ入り込み、それがその後、稲穂となって育ったということです。その瑞兆が由来で、ここは穴穂という地名が付けられ、現在の穴太となったそうです。
この神明社=郷(ごう)神社は豊受大神と天照大神を祀っています。
ツアーの幕開けにふさわしい参拝となりました。
つづいて、郷神社から数十メートルの至近距離にある小幡神社です。
ここは前回9月4日のツアーで、開化天皇に関連する神社を巡ったことも背景としてありましたが、何より筆者が迷いつつツアーを告知したその日の読売新聞夕刊に上田正昭氏と小幡神社が紹介されたことが大きなきっかけとなりました。境内は、きれいに手入れがされていてすがすがしい参拝ができます。神主さんとはお会いできませんでしたが、筆者にとっても十数年ぶりの参拝、しかもその頃とはかなり異なった認識でお参りできて、この神社の意味をかみ締めながらの参拝でした。
欠史八代の最後の天皇、崇神天皇の父に当たる開化天皇の実在が、歴史学会において未だに疑われている、という事実を払拭するさまざまな根拠を確認してきた、そして、欠史八代の根拠とされたその8代の天皇の時代の記述が、記紀において少ない理由がホツマとの関連で判明(ホツマは人皇初代神武天皇の臣、クシミカタマノ命が1〜28紋を、そして10代崇神天皇のときのオオタタネコが29〜40紋を執筆したために、その間の8代の歴史記述がやや簡素化されたという事実。)している現在、十数年前に感じていた疑いを晴らしての参拝でした。
そして元出雲といわれる出雲大神宮へ向かいました。境内鳥居前の駐車場は多くの車と参拝者でごった返していました。今までここを数回参拝した中で、最も多い人が集まっている、と思いながら、よくよく見てみると、なんと鳥居前に日月神示シリーズの著作を数十冊出版されている中矢伸一さんの姿を発見しました。中矢氏はバスツアーで、ちょうどこちらを参拝されたところだったのです。どうやらこれが池田市での30分ロスの理由であったようです。奇しくも中矢氏と私は同学年で、その意味で親近感もあり、過去に数冊、中矢氏の著作を拝読していたこともあり、名刺をお渡しし、記念写真を同行のなでしこ姫とともに撮らせていただきました。名刺をお渡しした際、中矢氏と片言お話しましたが、謙虚な方であると感じました。
その後、中矢氏ご一行と別れて境内へ入り、真名井の名水を拝掬(はいぎく)し、徒然草に登場する逆向きになった狛犬が子供のいたずらであったにもかかわらず、それを見た僧が趣深いといって感涙した狛犬の解説をして、ツアー参加者の笑いをとってから、本殿へ額づきました。
以前にも増してきれいに整備されていました。ここは祭神が大国主命と三保津姫命と珍しい組み合わせとなっています。とはいえ、八上の大江神社もその二柱に天穂日命を加えた三座ですので、意外にも身近にあったものです。また、東側の神体山は国常立命の御神霊が鎮まるといわれる禁足の山なのです。山麓のイワクラや小祠や瀧を参拝・見学して、さらに上手に鎮座する国常立命のイワクラを参拝しました。ちょうど、天橋立の真名井神社本殿奥のイワクラのような雰囲気があります。
社務所で、こちらの神主さんが歌っている『マナイノウタ』のCDを娘へのお土産として購入しました。
ここで、かなり時間をかけて参拝し、十数年ぶりに訪れた、神宮の隣の蕎麦屋でおいしいおそばをいただいて、元愛宕神社へと向かいました。ここが、有名な京都の北西に位置する愛宕神社の元のお社。
火の神とは火伏せの神でもあり、カグツチノ神とイザナミノミコトを元より祀る神社はオタギとも呼ばれていたそうです。すでに菊池展明氏が指摘しているように、その響きから瀧の神を連想させるものです。火伏せとは、水の神ともつながります。境内には水神を祀る瀧と祠もありました。少し前まではモモンガが住処としていた巨木もありました。島居の一部が台風12号によって崩落していたことを知って改めて、今回の台風の凄まじさを感じました。
参拝を終える頃に京都市から合流した方とともに、大井神社へ向かいました。大井神社駐車場前で、天空に浮かぶ不思議な形の雲を一同カメラに収め、境内へ。ちょうど、敷地の整備のため工事中ではありましたが、無事に参拝を済ませました。ここは八上姫の御子神、御井神が祀られている珍しい神社です。
境内前の池の中央には大きな亀の石像があり、神社を見守っていました。
向日神社へ日の暮れないうちに参拝しなくては、ということで、、元稲荷神社、小川月神社、野宮神社参拝を断念し、一路京都市西京区の大原野神社へ向かう。自動車道を使ったにもかかわらず、車線減少の出口が元で想定内の渋滞に少々巻き込まれ、途中参加のもう一台の車の方とはぐれながらも現地への一本道となったところで、ばっちり合流できたのも一つの奇跡でした。
平安貴族の風情が漂う幽玄の美を伝える大原野神社、ここは藤原氏が昇進、出世を祈願するために、奈良の春日大社の京都版として創建したお社です。 まずは祓戸社の瀬織津姫に参拝の礼をしてから本殿へ参りました。
ここの本殿は、私が、今まで回ってきた神社の中で最も美しい、といえるお社で平安王朝の美的感覚をさらに現代的に磨きをかけて洗練した幽玄の美を表現したたもの、といえるでしょう。 観光都市京都の中心部から外れているため、観光客はあまり多くありませんが、逆にそのおかげで、その建築美、庭園美をゆっくりと堪能できるところです。境内の中には茶屋もあり、もう少し早い時間であれば、そこでお茶を飲みながら楽しむことができたでしょうが、すでに4時を過ぎており、お店は閉まっていました。
向日神社はそこから車で15分程度の場所に位置していますから、こことセットでお参りすることをお勧めします。
瀬織津姫と大いなる関連を示すお社。果たしてその真相はいかに?
と、大きな期待感を持たせたお社ですが、その期待以上でした。
名前からして、瀬織津姫を感じざるを得ませんが、現在は、主祭神が御歳神となっており、その別名として、向日大明神と呼ばれているそうです。
>大歳神の御子、御歳神がこの峰に登られた時、これを向日山と称され、この地に永く鎮座して、御田作りを奨励されたのに始まる。向日山に鎮座されたことにより御歳神を向日神と申し上げることとなったのである。
また「日本の神々(白水社)」によれば、大歳神の子神は白日神であり、この神名を向日と(誤って)記したものであろうとの見方をしている。地名と神名の先陣争いである。
『向日二所社鎮座記』には、神社の裏の峰(八尋矛長尾岬)を「朝日の直刺す地、夕日の日照る地、天離る向津日山」と書いている。 (『秦氏の研究』大和岩雄)。<
http://tokyo.atso-net.jp/i/test/mread.cgi/s2/1293253921/79-98
いろいろな説がありますが、ここに、向日という名前が付けられたことの起源として考慮に値するのが境内に不動明王が祀られていることです
私はこのことから、現在、明治神宮の本殿のモデルとされた向日神社の主祭神はもとは瀬織津姫であったと推定します。
また大和岩雄氏が指摘しているように、京都の日向大神宮と対をなした位置関係にあります。京都の日向大神宮は京の伊勢とも呼ばれる神社、それに対する向日神社ですから、瀬織津姫が祀られているのは、ホツマを知る者にとっては、その推定は当然の帰結といえるものなのです。
やはり、ここでお示しがありました。
さまざまな所で、参加者の皆さんは写真撮影してきましたが、今回は、唯一、この場所で、紫色の垂直の光がカメラのモニター、ファインダーに入ってきたのです。境内の他の場所にファインダーを向けてもその光は入りません。また紫色の光線はデジカメにとって、記録しにくい色であるために、撮影してもその色が反映されないことも事前に分かっていたので、カメラモニターで確認できる紫色の光線の写ったその像を参加者が互いにとることによって、その光を残すことができました。 実は、今回のツアーに先立って下見として、ここと、宇治市の橋姫神社をお参りしていたのですが、その時も橋姫神社で2筋の紫色の光線がモニター画面に入り、大阪の御霊神社と同じ現象となったので、今度はこれを残すために携帯のカメラでモニターを撮影したのです。この経験が活かされました。
向日神社で最も、御神霊のパワーの強いのはやはり元の神を祀っていると思われる不動明王の像の場所でした。一同感激し、ここで、ツアーの無事終了の締めくくりをしました。
ミラクルに満ちたツアーでした。