有馬富士の北に位置する花山院菩提寺へ参詣してきました。
ここは花山天皇が出家後、仏道の道を極めながら、瀬織津姫の祭祀を守ってきたところです。花山天皇は藤原兼家に騙されて、在位わずか2年で皇位をはく奪されました。花山天皇については若かりし頃のよからぬ話や、無理矢理出家させられた直後の憤懣やるかたない思いが爆発したことがよく取りざたされますが、そこは、藤原氏の脚色もあったと思われます。 仏眼上人と出会って以降、花山法皇は皇位はく奪への憤慨の気持ちもなくなり、大きく変わったそうです。
仏眼聖人といえば、筆者はこの夏、六甲山上で六甲比女神社を参拝した折、そのすぐ真東の高い位置に熊野神社の小祠跡があり、そこに仏眼上人と華山(花山)法皇の名が熊野権現をはさんで石碑に記されていたのを記憶しています。 筆者はこの弁天様を祀る、としかわかっていない謎の六甲比女神社は瀬織津姫を祀る神社であると推測しています。熊野も瀬織津姫と関連する神社であり、花山法皇と仏眼上人の出会い、と併せて、ますますその関連性が浮かび上がってきました。しかもこの六甲比女神社・熊野権現連名の石碑の真北に花山院菩提寺が位置しているのです。これは単なる偶然ではないと確信します。

花山法皇殿です。

花山法皇殿の横に池があり、弁財天を祀る小さな祠があります。

花山法皇殿の前方に位置する花山法皇の奥都城(おくつき)=墓所です。この幹が横に伸びている桜の木のあたりを撮影すると、紫色の光がカメラモニターに入ってきました。

三宝荒神を祀るお堂です。三宝荒神といえば先日紹介した宝塚市の清荒神と同じ祭神、鷲林寺と神呪寺に現れたソラン荒神(=瀬織津姫、または瀬織津姫の眷属)と思いましたが、縁起書によるとこちらは大日如来、不動明王、文殊菩薩の御三体が合体した荒神だそうです。これも珍しいことです。大日如来は天照大神を、不動明王は瀬織津姫をあらわしています。どちらにしても瀬織津姫と深い関係があることには変わりありません。

そして、お堂の中のおびただしいたまゆらの向こうに、厨子があり、その中に三面六臂のお姿をした御本尊がおさめられているそうです。

境内からの眺めは紅葉の季節とあいまって、実に見事でした。

本堂前のお香立てにも瀬織津姫と縁深い桜のマークが入っています。

突然宮中から抜け出された花山法皇が落ち着かれた場所を知ったかつての11名の妃たちは、既に亡くなっていた弘徽殿女御(コキデンノニョウゴ)の髪を携えて菩提寺にやってきました。女人禁制で山へは上がることの出来なかった女御、更衣たちは近くに尼寺を建てて、全員尼僧になり、ときに、寺への坂道で琴を演奏して花山法皇を慰めたりもしたそうです。
花山天皇に十二人の后がいたことから、花山天皇はホツマのことを御存じだったのではないでしょうか。

十一名の后は、仲良く弘徽殿女御を囲んで、同じ墓所に葬られたようです。全員尼僧として仕えたこともあり、源氏物語のような妬みと嫉みとは無縁だったのではないかと思われます。(たぶん)

話は少しかわりますが、実は先日紹介した瀬織津姫が御出現された静岡県御前崎市の桜ヶ池は花山院の所領だったそうです。以下のサイトから関連するところを引用しました。これもシンクロですね。
http://www.jodo.or.jp/footprint/09/index.html
皇円阿闍梨は>一番長生きすると言われる龍になってこの世に住み、弥勒菩薩様のあらわれるのを待つしかないと考えられて、池を探した。
探していたが、なかなか願を叶える池に巡り会えず途方に暮れていたところ観音様(筆者註:おそらく瀬織津姫と思われる)が夢にあらわれて、「遠江の国、笠原荘にある桜ケ池を訪ねよ」とのお告げがあり、皇円阿闍梨は、はるばるこの池を訪ねた。
そして一度都に戻られた皇円阿闍梨は、桜ケ池を持つ花山院家に手紙を添えて、龍になって住まうことの許しをうけられ、嘉応元年(1169)6月13日、深夜に法然上人を招いて今世の別れを惜しみ、池から持ち帰った霊水を手のひらに注ぎつつ、那伽定(龍となること)されたと伝えられている。<
このことからも花山法皇とその系統の方々が、瀬織津姫を大切にされていたことが分かります。