
神戸 六甲山 ホツマツタエを証明する遺跡
天照大神のお后、瀬織津姫=撞賢木厳魂天疏向津姫命(ツキサカキイズノミタマアマサガルムカツヒメノミコト)のホコラ 奥都城(おくつき)と推定。
筆者はこの約1年間、瀬織津姫の奥都城に関する調査をしてきました。その経緯をこのブログの、記事カテゴリー 六甲山とその周辺 に記してきました。
筆者がこの結論に至った根拠を記しています。
あらゆる視点、角度から検討しています。もちろん根拠を示した、納得のできる論理的な否定論は潔く受け入れます。
向津峰⇒武庫山⇒六甲山=向津姫の座

六甲山 石の宝殿 西宮鎮守
六甲山全山はかつて廣田神社の社領
六甲山はかつて向津峰と呼ばれ、武庫山の漢字があてられ、中世以降に現在の六甲の表記となります。
六甲山は全山が西宮廣田神社の社領でした。
ではなぜ、この山全体が廣田の社領となったのか、それは、廣田神社祭神のホコラ=奥都城がこの山中にあるからです。
廣田神社の祭神は天照大神荒御魂、つまり男神アマテル様の后、ホノコ様、セオリツヒメ(瀬織津姫:背降り津姫)またの名を、撞賢木厳魂天疏向津姫(ツキサカキイズノミタマアマサガルムカツヒメ)であり、その祭神名から、古くはムカツ峰と呼ばれたのです。ムカツからムコウ、ムコとなり、武庫の漢字があてられ、この地域一帯が武庫の里と呼ばれていたのです。近代まで郡名に武庫郡として残り、宝塚市の六甲山系の一部の山は今も武庫山と呼ばれており、その麓を武庫川が流れ、尼崎には武庫之荘の地名もあります。
これらの地名の由来は、廣田神社の祭神名からにほかなりません。
山岳愛好家や磐座研究家にはその存在を知られていたものの、今まで誰にもそうであると気づかれることなく、役行者の末裔を中心とする少数の人たちによってひっそりと守られてきました。
ホツマが世に出なくては、日本の世の中が治まらないくらい、日本の精神状況、思想状況が危機に追いやられています。
ホツマが真書であることを証明する一つの重大な遺跡、それが、ホツマの記述から推測できる通りに存在した、六甲山、ムカツ姫のホコラなのです。
ムカツヒメ セオリツヒメ
六甲山の磐座によって ホツマが真書であることを実証!