玄松子氏のサイトです。
http://www.genbu.net/data/yamato/himemiko_title.htm?print=on
こちらに祀られている姫皇子命は向津姫=瀬織津姫との関連をうかがわせます。
>姫皇子命。多神社の皇子神である。『多神宮注進状草案』には
姫皇子神社天媛日火霊神尊
とあり、同裏書には
姫皇子神社天媛日火霊神者
天疎向津少女命。 天照大日霊尊之分身故云。姫皇子亦天照日孁大神之若魂仍云天媛 高宮郷坐天照大神和魂神社同体異名也
とあり、祭神を天照大神の若魂であるとする。
−『式内社調査報告』−<
もう一つ、こちらのサイトにさらに詳しく記されています。
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/ou-mikogami.html
>姫皇子命神社は
アマテラスの和魂を祀るという。
なおアマサカルムカツヒメとは、書紀では、神功皇后に依り憑いた撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマ アマサカルムカツヒメ)は、
アマテラスの荒魂という。(日本の神々4所載・皇子神命神社姫皇子命神社・2000、以下同じ)。
この皇孫(スメミコ)=ニニギ尊・天媛(アマツヒメ)=アマサカルムカツヒメとは、多神社の祭神を珍子(ウツミコ)=天忍穂耳命(アメノオシホミミ)・天祖(アマツオヤ)=天疎向津媛(アマサカルムカツヒメ=アマテラス)の母子神に対応するものだが、皇子神・姫皇子両社の祭神も母子神だとすれば、天祖と天媛が同じというのはおかしく、天媛はニニギの母である栲幡千々姫(タクハタチヂヒメ、タカミムスビの娘・アメノオシホミミの后)とすべきだろうという(タクハタチヂヒメは、多神社の外宮・目原坐高御魂神社に父神・タカミムスビとともに祀られている)。
秘伝に、皇子神命神社と同体異名とされる“高宮郷坐天津瓊瓊杵神社”とは、注によれば大阪府四条畷市にある“津桙神社”(現在名・忍陵神社)という。津桙社の祭神は、社頭には熊野大神ほか3座とあり、拝殿前には応神天皇・熊野大神他3座とありはっきりせず、そこに天孫・ニニギ尊の名はみえない。
日本の神々には、応神天皇・熊野大神・天孫ニニギのいずれもがウツボ船に乗って漂着する日の御子とその母という意味で同体ではないかというが、津桙の応神天皇は明治以降に祀られたともいわれ、秘伝成立の頃の祭神名が不明であることから、あとから付会された解釈のようでよくわからない。
また姫皇子命神社の同体異名という“高宮郷坐天照大神和魂神社”および注にいう“河内国讃良郡高座神社”との神社は、ともに河内国讃良郡には見えない(高宮大社との神社はあるが、祭神は異なる。高安郡にある式内・天照大神高座神社かもしれない)。
なお、多神社参詣の栞では、皇子神命社の祭神は皇孫・ニニギ尊、姫皇子社のそれは
アマサカルムカツヒメ即ちアマテラス(アマテラスオオヒルメ)の和魂とはするものの、
「その御祭神は詳かならず、多神社の主祭神・カムヤイミミ命の皇子神・姫皇子神とみるのが妥当であろう」(大意)
という。<
神々の親子の関係において相当な混乱が見られ、ここにおける、瓊瓊杵尊と向津姫の誤った関係が九州の一社(宮崎県西都市 速川神社)に見られる瓊瓊杵尊が瀬織津姫を伴っていた、または御夫婦だった、といった誤認が生じた原因となったものなのかもしれません。
http://event.jr-odekake.net/spot/14137.html
天照大神の和魂が天照大神の荒御魂と同じ、とみなされていることには注目です。
そしてもう一つここで驚くべきことは、
向津姫と天忍穂耳命が母子の関係であることが記されていることです。
これについては同じ方の多神社調査報告のサイトで確認しましょう。
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/ou-honsya.html
@多神宮注進状(1149・平安末期)は、
珍子賢津日霊神尊(ウツノミコ サカツヒコ神) 皇像(ミカタ)瓊玉坐
天祖賢津日孁神尊(アマツオヤ サカツヒメ神) 神物(タマシロ)圓鏡坐
のヒコ・ヒメ2座を祀るとして、具体の神名として
珍子−−天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)
天祖−−天疎向津媛命(アマサカルムカツヒメ=アマテラス大神の荒魂)
神名帳曰 多坐彌志理都比古神社二座是也
と記し、
日の御子とその母という母子神としている。
日の御子であるオシホミミは稲穂の神格化といわれることから、その母である日神・アマテラスを組み合わせた母子神は、農耕神として祀ったと推測されるという。生きるために最も重要な農耕(稲作)の神を祀るのは、太陽が農耕に必要という意味ではわかるが、それが何故オシホミミでありアマテラスなのかは不詳。
当社の古史料・多神宮注進状他に掲げる祭神名は、記紀神話の神々、特にアマテラスとの関係を強調するものとなっている。
ただ多神社は、当地が、宮中に坐したアマテラスを始めて外に祀った
旧笠縫邑に比定されるように、日神祭祀に係わった色彩は強く、当社の原点が日神信仰とすればアマテラス(皇祖神・アマテラスというより、その前身としてのアマテルミタマ神)は無視できないが、多氏と天皇家との緊密性を強調するための堅強付会との感もある。
A室町時代の古書・和州五部神社神名帳大略注解(1446・室町初期−−略称:和州五郡神社誌)には、
水知津彦神(ミシリツヒコ)
火知津姫神(ヒシリツヒメ)
とあり、文字から見ると、これも農耕に必要な水の神と火(日)の神だが、ミシリツヒコを同じ読みもつ水知都彦に当て、その対としてヒシリツヒメを合わせたとも解されるが、これらは一般名称に近く、その具体の神名は不明。<
平安末期の『多神宮注進状』は、記紀において消された瀬織津姫のこと、そして天忍穂耳命の本当の母君、瀬織津姫との御関係が記されている、大変貴重な資料です。 これもホツマの記述が正しいことを裏付けるものです。
やはり全国各地の神社や資料、伝承を調べれば調べるほど、記紀との整合性はほとんど確認できず、反対にホツマが真書であることの証が出てくるのです。
玄松子氏 多神社
http://www.genbu.net/data/yamato/oo_title.htm
神八井耳命=ミシリツヒコ については 駒形さんのサイトにもこの神社と共に紹介されています。
http://gejirin.com/src/Ka/kanyawimimi.html
そして、ここは、桜井市谷(筆者が瀬織津姫のご一家の静岡からの御移転先ではないかと推定するところ)に鎮座する若櫻神社と、夏至の日の入りラインで結ばれます。この夏至の日の入りラインを延ばすと、兵庫県尼崎市の貴布禰神社、西宮市の越木岩神社を経て、六甲山の六甲山神社=石の宝殿へとつながります。
若櫻神社、稚櫻神社、そして、由緒書きに天照大神と瀬織津姫のお名前が併記されている撞賢木厳魂天疎向津姫神社も、ここからほど近いところに位置しています。
付近には秦庄、味間、など、秦氏に由来する地名が残ります。おそらく神社祭神をめぐって、もともとから祭祀をつかさどっていた大和の人々と、渡来系秦氏の間でし烈な攻守があったものと思われます。そのような歴史を経つつ、かろうじて、本当の神々のお名前や御関係を残すことができたと思われます。
大和の人々の、並大抵ではない死をも賭したたいへんな苦労が自然としのばれます。