聖徳太子と六甲山・神仏習合 ホツマ
関西ホツマの集いの学習報告で発表したものです。
平成25年 5月26日
日本は神道の国です。仏教は、6世紀に公伝されました。もちろんそれ以前に、私的に仏教を信仰する渡来系の人たちもいたと思われます。
仏教公伝の直後から、仏教を受け入れるかどうかをめぐって、6世紀後半の敏達天皇・崇峻天皇・用明天皇の時代に、激しい論争があり、氏族間の対立にまで広がりました。しかし、これをよく調べてみると宗教対立ではなく、豪族間の勢力争いであったようです。学校の歴史教育では崇仏派の蘇我氏と神道派の物部氏の対立、という構図で描かれます。しかし物部氏自身もすでに、現在の大阪府八尾市の渋川というところを本拠としていたのですが、そこに氏寺を創建していたことが発掘調査で判明しています。物部氏が廃仏派とは言い切れない証拠となるかもしれません。
そのころの日本は渡来系勢力も相当な力を持ってきており、また海外との国々との関係も緊密となってきました。国際的な視点も同時に要求されるようになってきていました。
仏教公認を巡って朝廷内でなかなか意見がまとまらなかったときに、厩戸皇子=聖徳太子は、神道・儒教、仏教を一本の樹木になぞらえ、神道を根本の幹として、儒教を枝葉とし、仏教を果実に例える具合で、儒教や仏教を受け入れる考えを示しました。なぜ、そのようなことが言えるのかといいますと、十七条憲法にその根拠があります。
ところが現代にまで伝わるこの十七条憲法すら、720年『日本書紀』を編纂する過程で藤原不比等らの手によって、書き換えられてしまったようです。実は、聖徳太子の十七条憲法は全部で五種類あり、17×5の85条の条文からなっているのです。十七条五憲法というのですが、このうちの一つだけが内容を改竄された形で、歴史教育の中で知られているものなのです。残る4種類はそれぞれ、政治家に対する憲法、儒学者に対する憲法、仏教伝道者に対する憲法、そして日本の神道に仕える神職への憲法です。聖徳太子憲法は内容を五分の一に削られてしまっていた可能性があります。
そしてよく知られた、「和(やわらぎ)をもって貴しとなす」、これは、そのまま十七条憲法の文言として現代にも伝わっています。これは、ホツマの中でも最も重要な精神である、和(やわ)すことの重要性を説いたものです。
もう一つ有名な「篤く三宝を敬え」という言葉、これが巧妙に書き換えられているのです。三宝とは「仏法僧」である、と、一般に思われていますが、元の五憲法の中には、この三つの宝の「三宝」とは別に、三つの法、「三法」と記され、「篤く三法を敬え」とあり、この三つの法の「三法」とは神・儒・仏の事を示していることが記されているのです。聖徳太子は、あくまで神道を基礎としながら、海外の教えを尊重し、学問としてインドの仏教、中国の儒教を学ぶことで、神道の精神をさらに深めていこうというお考えだったのです。
神・儒・仏とはしているものの、内容を見てみると、神の存在を否定する儒教に対しては、その点を厳しく戒めています。
さて、この聖徳太子による仏教公認・国教化が、同時に神仏習合のきっかけとなりました。日本では552年仏教公伝の直後より、大陸仏教の純粋な形ではなく、日本の神を仏教的に祀る神仏習合の方法が採用されたわけです。
調査の結果、『古事記』、『日本書紀』に記された日本の神話は渡来系によって、相当に書き換えられていった形跡があるといえます。残念なことに神々の関係が歪められ、性別が逆にされたり、消されたりした神もいらっしゃいます。これらの書き換えは、最も早く見るならば、ホツマが完成した直後、仲哀天皇が謎の崩御の後に天皇が不在、日本の歴史にポカリと空いた大空位時代が70年も続き、応神天皇が即位したころから始められたた可能性があります。渡来勢力との政治的妥協を余儀なくされた皇室とその臣下は、渡来系および物部氏の一部勢力によって、神道の内容を書き換えられていくことに抵抗できない状況に置かれたものと思われます。
聖徳太子はそのことも踏まえて、神道・神話を本来の形から変えてしまった敵対勢力をも意識しながら、現実的にとりうる政策を考え出しました。それが神仏習合だったのです。
聖徳太子は、神仏習合=神・儒・仏を一体とするその考えを具体化するために、難波の地に四天王寺を建立します。四天王寺は、神仏合体のお寺です。境内の西門には大きな鳥居があります。これには難波の港から上陸する大陸から渡来してきた人々に、「これから神の国に入っていくのだ」ということを意識させる目的もあったと思われます。
東門近くには伊勢神宮遥拝の場所、南門の近くには、熊野権現の遥拝の場所があり、また境内には政敵であった、物部守屋を祀る神社まであります。これは聖徳太子の最も重要な、和(やわらぎ)をもって貴しとなす、の考えが具体化された形といえるでしょう。かつての敵も、ちゃんと尊重しているわけです。
六甲山とその周辺の神社や寺院、伝承、磐座などを調べた結果、聖徳太子が六甲山と非常にご縁があることを見出しました。これにより、聖徳太子が、決して仏教のみを信仰していたのでないことに気づきました。六甲山周辺で聖徳太子と関わる遺跡は結構あります。最も有名なものが、宝塚の中山寺です。中山寺は、応神天皇の時代に、皇位継承をめぐって抗争の中で無念の死を遂げた忍熊王・香坂王とその母君大仲姫、そして聖徳太子の政敵であった物部守屋を弔う目的で創建されたのです。
そして宝塚の逆瀬川には塩尾寺(えんぺいじ)、小林には平林寺があります。三田市にも、鏑射寺(かぶらいじ)があり、いずれも聖徳太子開基の寺院です。
甲陽園には聖徳太子が造られた診療所があったという伝説もあります。
9世紀初頭に空海とともに甲山の神呪寺(かんのうじ)を開いた淳和天皇の元お后、真名井御前は、京都の六角堂(頂法寺)で如意輪観音を信仰していましたが、この頂法寺は、聖徳太子開基のお寺です。華道の池坊とご縁のあるお寺で、如意輪観音が本尊です。聖徳太子が持仏とした如意輪観音は弁財天と同じ神ととらえられるようです。
六甲山系甲山の神呪寺も、六角堂=頂法寺で修業された真名井御前が如意輪観音を祀っているので、聖徳太子の御意志を継いで創建されたお寺である、といえるのです。ついでながら、甲山の西側の六甲山の麓にある鷲林寺(じゅうりんじ)には廣田神社祭神と深いつながりのある麁乱荒神=鷲(わし)不動明王が祀られていますが、宝塚の清荒神の清三宝荒神とは、この鷲不動明王と同じです。
有馬温泉には聖徳太子開基の極楽寺があります。御影・住吉方面には、綱敷天満宮がありますが、聖徳太子が四天王寺創建のとき、六甲山から石を切り出す際にこちらの神社に倉稲魂神(うがのみたまのかみ)を祀り、切り出した石を御影石と名付けられました。聖徳太子は六甲比女神社の北側と南側にそれぞれ、足跡を残しているわけです。
六甲山、御影の山に阿弥陀如来のお姿が現れた、ということから御影山と呼ばれるようになったという説もあります。これが、御影と御影石の名前の由来となります。そのほか、綱敷天満宮には聖徳太子の遺品が奉納されています。六甲山と聖徳太子はこのように深いご縁があります。
六甲山とその周辺は、伊勢神宮と深いつながりを持っています。六甲山は江戸時代まではムコ山と呼ばれていました。そしてもっと古くには向か津峰と呼ばれていたのです。向か津峰全体はかつて、西宮の廣田神社の領地でした。その領地に寺院を建立する際には、土地の神として、廣田の祭神を鎮守の神として祀っているはずです。それが、六甲山周辺寺院に多く祀られている弁財天です。弁財天は、古くは吉祥天と呼ばれ、皇室にとって大変重要な神です。神仏習合で祀られた神ですが、吉祥天を祀った最初の方が聖徳太子、と思われます。そして吉祥天にはご家族があり、その夫に当たるのが四天王のうちの多聞天、またの名は毘沙門天なのです。毘沙門天も吉祥天も大日如来の化身といわれ、不動明王も大日如来と不離一体といわれます。
大日如来の垂迹神は天照大神です。つまり、四天王寺には天照大神の本地仏である大日如来、大日如来のお働きをされる不動明王、毘沙門天・吉祥天のご夫婦が祀られているのですが、六甲山周辺も大日如来・不動明王、毘沙門天と吉祥天、弁財天を祀る寺院が非常に多いのです。
聖徳太子は622年に49歳で亡くなります。その20年後に役行者が誕生され、役行者も六甲山、甲山で修行をされ、その時に弁財天と出会われています。それが神呪寺の南の丘にある、廣田明神影向岩(ひろたみょうじんようごういわ)といわれる岩のところです。その後役行者は、奈良県吉野の天河へ向かわれ、天武天皇の前で舞われた吉祥天を天河弁財天として祀ります。また吉祥天が舞われたことを記念して、宮中では御祝い事の際に、五節の舞が舞われます。現在でも、大嘗祭の時に五節舞が舞われています。
役行者は、天河弁財天神社で吉祥天を、伊勢神宮の天照大神と分けることのできない=不離一体の神として祀っています。廣田神社の祭神も天照大神荒御魂で、天照大神と一体の神です。別の御名が六甲山の旧名と同じ、向か津姫です。またの名は瀬織津姫です。
役行者が亡くなって、その約百年後に、今度は弘法大師空海が、香川県善通寺で誕生されます。実は聖徳太子の生誕地と、天武天皇の御陵、役行者の生誕地である御所市の吉祥草寺と、空海の善通寺の産湯の井戸とは、すべて一直線で並びます。このことから、聖徳太子、天武天皇、役行者、空海が神霊的な世界でつながっており、同じ使命を果たすためにご活躍されたのだといえます。
空海の亡くなられた場所は高野山奥の院ですが、空海生誕地の真東に当たります。 その2地点を結ぶライン上に瀬織津姫を祀る日前宮と天河弁財天が位置します。
65代天皇であった花山法皇は、わずか2年で皇位の離脱を余儀なくされ、その直後仏門に入るのですが、花山法皇を導かれたのが仏眼上人です。仏眼上人は熊野権現の化身といわれる方で、大阪府太子町の叡福寺の僧侶でした。叡福寺とは、ズバリ、聖徳太子の御廟を守る寺です。聖徳太子、および聖徳太子の御遺志を継ぐ人々によって、六甲山を守るお働きが継承されていた、というわけです。
では、そのお役目とは何だったのでしょうか。それは伊勢神宮の祭神を仏教的に守り、複雑に絡む神道と仏教・儒教の関係を整理して、日本国内で宗教戦争が起こらないようにされ、神仏で日本の国を守り、人々の生活を守ろうとされたものと思われます。
もし仮に神道を基本としながら、仏教、儒教の考え方を大切にしていく、という方向性を取らなかったとすると、日本も諸外国の例にもれず、宗教対立によって多くの不幸な事件が起こっていたと思われます。