5月19日、4つの道の駅をつなぐイベントが催され、筆者もその中でガイドの一部を引き受けさせていただきました。
朝方は冷え込み、雨と風で、行楽日和とは言えない状態でした。けれども、ちょうど、売沼神社へ到着するころには、雨も上がり風もやみ、気温も快適な温度に上がり、穏やかな状況の下で参拝とガイドができました。これも神のご加護だと思われます。
原稿を用意していましたが、アドリブで、原稿に記したことをすべては紹介していませんし、また原稿に記していないこともお話ししました。 手元の原稿を公開いたします。
ちょこっといいとこどりツアー
平成25年5月19日
賣沼神社 八上姫を祀る神社
鳥取自動車道全線開通記念企画、ちょこっといいとこどりツアーにご参加いただきました皆様、 ようこそ、神話の故郷、八上姫を祀る売沼神社へお越しくださいました!
御案内いたします神話伝承研究家の大江幸久です。宜しくお願いいたします。
さて、こちらは、皆さんよくご存知の古事記の神話、因幡の白兎にも登場する八上姫を祀る神社です。 本殿の主祭神は八上姫です。
いろいろと調べてきました結果、この賣沼神社は、八上姫のお墓をお参りする場所である、と私は推定しています。日本の神話に登場する神々とは、天空の高天原、ではなく、実際にこの日本の陸地で人の姿を取ってご活躍された、私たちの祖先にあたる方々です。ですから、その方たちが最後に神上がられた場所が、必ずあるはずなのです。
神社に伝わる古文書によると、賣沼神社は、元はこの簗瀬山の中腹にあったそうです。山頂には嶽古墳という前方後円墳があります。
『鳥取県神社誌』によれば、かつて八上と呼ばれていた地域で八上姫を祭神とする神社はこの賣沼神社、八頭町橋本(財原さいばら)の大江神社、そして、河原町佐貫の都波只知上神社の3つです。それと、祭神名として漏れてはいるものの、本来は八上姫が祀られているといえそうな神社が河原町にもう一つあります。 河原町本鹿の多加牟久神社です。この八上・佐貫・西郷地区は、大己貴命と八上姫の伝承が色濃く残るところですし、因幡全体を見渡した時、大己貴命が祀られる神社が最も多いのはやはり河原町がダントツなので、八上姫と大己貴命とご縁が最も深いところといえます。また、八上郡で唯一、八上という地名が残っていること、その地区にある正法寺というお寺には、見事な波ウサギの欄間彫刻があること、などからもやはり因幡の白兎神話の中心舞台の一つと言ってさしつかえありません。
鳥取県東部に視野を広げますと、鳥取市国府町の酒賀神社、鳥取市立川の稲葉神社、岩美町の御湯神社、鳥取市青谷町の潮津神社に八上姫が祀られています。いずれも大己貴命とペアで祀られており、御湯神社では、御子神の御井神も祀られています。大己貴命と八上姫は因幡全土を治めるために、その宮殿を数か所移動された、と考えるのが妥当です。それが後に、先に紹介した神社という形で残っていったものと考えられます。
賣沼神社は八上姫だけを祀っている神社ですから、他の神社とは異なる意味合いを持っています。やはり、八上姫の墓所の近くにある神社だからこそ、と思われます。 そしてこの千代川を挟んだ向うの高福という集落に黒木神社という神社があるのですが、そこには大己貴命と御井神が祀られています。 黒木神社社殿はちょうどこの賣沼神社方面を向いており、この賣沼神社もちょうど黒木神社方面を向いています。互いに向かい合っているわけです。昔の人はよく細かい配慮をして作られたものですね。
長い歴史の中で、売沼神社は受難の時期もあったようです。中世には、この賣沼神社がどこにあるのかわからなくなっていた時期がありました。賣沼神社は一時期、「西の日天王」と呼ばれていたようです。この祭神「西の日天王」は賣沼神社について少し調べたことのある人なら、誰でも一度は疑問に思われたことと思います。江戸時代に小泉友賢が「八上姫を祀る神社は因幡中探しても見当たらなかった」と「因幡民談記」に記しており、八上姫の別名が「西の日天王」というのはちょっとぴんとこない、本当にここは八上姫を祀る神社なのだろうか、と思ってしまいます。
「西の日天王」への祭神名変更について考えられることとして、すぐ近くに羽黒山妙玄寺という修験道の寺院が創建されたことが関連するのではないかと推定されます。当時、この賣沼神社がその寺の領域内に含まれた可能性があります。そして秀吉の鳥取城攻略の際に、この修験道寺院妙玄寺は焼き討ちに会い、一夜にして消滅しました。その後、修験道の影響力がなくなったのを見計らって、この祭神が八上姫から「西の日天王」へと変更されていった歴史的経緯を知っていた地元の神主や僧侶は、元の「八上姫を祀る賣沼神社」へと改めたのではないでしょうか。
この修験道寺院と賣沼神社との関連を示すものとして、本殿の両脇に施されている烏天狗の彫刻があります。神社建築の専門家の方もこの彫刻が極めて珍しいものであることを指摘しています。
嶽古墳
八上姫の墓所といわれる嶽古墳とこの一帯は、いわゆる白兎夏至冬至ライン上に位置しています。
このラインの起点はというと、八頭町稲荷の土師神社です。そこは土師氏の祖先神、天穂日命を祀っています。この天穂日命といってもどのような神様なのかご存じない方もいらっしゃると思います。 これから白兎神社へ参りますので、その途中でご説明いたします。
ラインは河原町の本鹿まで、ずっと一直線に続き、そのラインに沿ってさまざまな神社や遺跡・名所が並んでいるのです。土師神社の次に八頭町宮谷の賀茂神社、ここは鳥取県下で一番大きな鳥居のある神社ですが、その神社の一の鳥居跡、そして賀茂神社の御旅所でもあった胞衣塚跡が位置しています。胞衣塚とは一般に、生まれた子の健康を願って胞衣が地中に埋められた所です。私はこの胞衣塚は、八上に誕生した高貴な方の胞衣を祀ったのではないか、と考えています。次に八頭町福本の白兎神社、隣の池田集落との間にある八頭町天王木、そして八頭町池田の白兎神社、そして土師百井慈住寺の廃寺塔礎石、八頭町米岡の天照大神を祀る米岡神社、そしてなんと道の駅清流茶屋かわはらもこのライン上なんです。そしてここ、八上姫の御陵といわれる嶽古墳と賣沼神社です。ちなみに終点は八上姫と大己貴命伝承の伝わる多加牟久神社です。
嶽古墳は5世紀ごろに築造された八頭郡最大レベルの前方後円墳ですが、そうするとおそらく2000年以上前の神代の時代の八上姫と、時代がまったく異なるではないかという素朴な疑問が思いつきます。八上でかつて活躍された神と崇めた姫の御陵を後の時代、古墳時代に整備し、当時流行していた磐座を土で保護する前方後円墳という形式で墓所を新たに造った、とは考えられないでしょうか。嶽古墳の前方部は北東方向に向いています。その方向には天照大神ご一行の行宮伝承が残る霊石山伊勢ヶ平、御冠石が位置しています。
そして、本当の八上姫の墓所=磐座はこの山または付近の山の頂上近くにあるのではないでしょうか。その当時の日本の祖先神のお墓は磐座=巨大な岩組みで出来ていることが多いのです。私は、ちょうど白兎夏至冬至ラインの北東側から見たときに、遠くからも見事な稜線が確認できるこの山の頂上付近に磐座があるものと確信しています。
またここは八上の防衛上、河原城と同様、最も大事な地点の一つです。 山々に囲まれた八上の中で唯一、平野部とつながった河原平野、そこを守ることは大切です。京都の都を守る目的で御所の四方に配置された「天王」神社や「大将軍」と同様の意味を持って守護していた、と考えられるでしょう。
用瀬町(もちがせちょう)の犬山神社も八上姫を祀る神社ですが、ここもかつての街道を見下ろす位置にあり、重要な軍事的拠点といえます。
因幡の国境付近は八上姫を祀る神社があります。伯耆国境と隣接する青谷町の潮津神社、但馬国境と接する岩美町の御湯神社と国府町の酒賀神社、そしてかつての若桜の氷ノ越えでは大兎明神が祀られる因幡堂がありますがここは播磨の国と接しています。国境を守る神、つまり八上姫と因幡の白兎は因幡全土の守護神だということができます。
バス中でのガイド 天穂日命について
これから向かう鳥取市白兎海岸の白兎神社、その近くに、天穂日命が陣取っていたことは必然だったのかもしれません。
このあたりには天穂日命だけでなく、その御子神、天日名鳥命を祀る神社、阿太賀都健御熊命を祀る御熊神社そして、天穂日命の末裔である大野見宿禰命神社が鎮座しています。天穂日命の子孫で最も有名な人は菅原道真ですね。それから、相撲の祖、埴輪づくりの祖でもある野見宿禰が有名です。埴輪作りや大規模な墳墓を作る生業をしていたことから土師氏と呼ばれるようになります。菅原氏、大江氏などの氏族を輩出するそのルーツはこの土師氏です。忘れてはならないことは、土師氏のルーツである天穂日命は天照大神の御子神である、ということです。
天穂日命ご自身は国譲りの交渉の際に出雲へ派遣され、おそらく現在のこの湖山池周辺に陣を構えられたと思います。天穂日命は、結局大己貴命に従って、最終的には、大己貴命を出雲で祀る祭主となります。さあ、天穂日命はその後どうなったのでしょうか。
ここで、私の新説を披露いたします。その後、天穂日命はご自身が神上がられる時期を悟って、兵庫の六甲山へ向われます。その六甲山でお亡くなりになったと思われます。六甲山頂には天穂日命のイワクラがあるのです。この天穂日命の岩倉の真西、直線距離にして500メートルもないところに瀬織津姫の磐座があります。六甲比女神社の御神体として大切に守られています。その岩組みは見ようによっては兎さんの形をしています。瀬織津姫の磐座と特定したのは実は私です。ちなみに瀬織津姫を祀る神社の密度が最も高いのは実は全国の中で、鳥取県の因幡です。ですから、私が所属する八上白兎ファンクラブは、この3月に鳥取市桜谷の瀬織津姫1神だけを祀る桜谷神社に、瀬織津姫の石像を奉納させていただいたのです。
瀬織津姫に関しては、皆様にお配りした大阪スポーツの記事をご参照ください。
天穂日命の磐座の場所からちょうど冬至の日の出方向に芦屋市の芦屋神社があるのですが、ここは天穂日命を祀る神社です。思わぬところで、六甲山と因幡・出雲が結びついてきましたね。天穂日命を祀る芦屋市を挟んで、神戸市東灘区と灘区、西宮市西部はかつて菟原郡と呼ばれており、ここにも兎との関連が見られます。
天穂日命の御子神は天日名鳥命です。天日名鳥命と阿太賀都健御熊命そして稲背脛命は同じ神だという説もあります。いずれにせよこのあたりは天穂日命一族の一大拠点です。
しかも、歴史時代に入って、大江氏もここを拠点にしており、ここには和泉式部の衣胞塚といわれるところがあります。和泉式部は一条天皇の御代、そのお妃となった中宮彰子の女房として紫式部や因幡ルーツと思われる赤染衛門とともに仕えた人物です。
さて、なぜここにこれほど天穂日命の系統の遺跡や神社が多いのでしょうか。白兎海岸の白兎神社もそれにかかわると思われます。その一つの関連といえるかどうかはわかりませんが、天穂日命神社の本殿には波ウサギの彫刻が4つも施されています。かつては因幡の国で、一宮とされる宇倍神社よりも社格の高かった天穂日命神社の主祭神天穂日命は実は、因幡の国の多くの方々の先祖といって差し支えないと思います。なぜならば、因幡の国には土師氏をルーツとする地域があまりにも多いからです。
因幡で天穂日命を祀る神社はそれほど多くはないのですが、この天穂日命神社以外の神社を確認しておきましょう。先ほどの八頭町稲荷の土師神社、鳥取市河原町の都波只知上神社、都波奈彌神社(つはなみじんじゃ)、八頭町日下部の日下部上神社、八頭町隼の隼神社、八頭町大江谷橋本の因幡二ノ宮といわれる大江神社、智頭町の諏訪神社などがあります。
次に土師氏の地域を確認しましょう。
まずこの鳥取市湖山地域、そしてその東の徳尾(とくのお)地区、八頭町土師百井(はじももい)、池田、福本、下門尾、門尾、堀越、稲荷、八頭町大江地区、八頭町日下部(くさかべ)、丹比(たんぴ)、若桜町舂米(つくよね)、智頭町土師地区、八頭町尾見(おみ)地区、ここも野見宿禰(のみのすくね)の名前が由来だそうです。八頭郡に多いですね。一つの国の中に、これほど多くの土師氏関連の地域があるのは珍しいことです。因幡は土師氏の勢力が強かった国といっていいでしょう。ですから因幡に長年住んでいらっしゃる方は必ず土師氏とかかわりがあるわけですから、先祖をさかのぼると、野見宿禰、天穂日命、そして天照大神につながるということをみなさん、しっかり自覚してくださいネ。
天穂日命と八上姫はほぼ同時代に活躍されたわけですから、ともに、山陰地方を治めていらっしゃったとも考えられます。
因幡の白兎伝承、兎神信仰も土師氏が守り、維持してきたのではないでしょうか。ですから天穂日命は因幡に縁ある人にとって大切にしなくてはならない神様です。
古事記神話で有名な白兎海岸の白兎神社に到着です。
皆さんよくご存じの因幡の白兎神話の舞台です。と言っても、近年、因幡の白兎の舞台は青谷町の長尾鼻だ、という説も出てきました。実際はどうなんでしょう。
オキノシマへ渡った兎は、因幡の陸地へ戻ろうとしました。かつてそこに棲んでいたからです。だからこそ因幡の白兎なのです。
私なりの推論を立ててみました。
おそらく兎が、大雨による洪水で、氾濫した川へ流され、河口を通過して海に流された、ということはありうる話です。しかし、日本海の70キロも離れた島根県隠岐まで兎が流された、とは考えにくいものです。
現実的に考えると、その可能性を持つ因幡の気多郡、高草郡の地区で場所を探すならば、都合のよい地形はこの白兎海岸とオキノシマです。しかもオキノシマとその対岸の間にはちょうど鰐が並んでいるように見える岩礁がありますね。
大昔に、竹草(高草)に伝わる、竹に棲んでいた老いた兎が洪水に遭って、沖合いに流されてしまった、という話は現実に起こったこととして考えられます。オキノシマに漂着した兎を誰かが、陸地まで戻してあげたことも充分にあり得ることです。ですから、古事記の舞台として、様々な条件が揃っている場所はやはりこの白兎海岸とオキノシマである、と考えてもよいと思われます。おおむね、このあたりで八上に向かっていた八十神と大汝命が兎と出会った、というのはありえることだと思います。
もちろん長尾鼻と隠岐の島の説も有力です。このあたりは謎として、そのままにしておいてもよいのではないでしょうか。
菊座石
白兎神社の地元の広澤さんという方の貴重な情報です。
*菊座石は、以前拝殿から本殿へ続く通路の所からぐるりと黒塗りの板幣で囲まれていて、一般には公開されていなかった。国体の年に天皇陛下がお立寄りになられた際「これは公開すべき」とおっしゃられて、この時より一般公開となった、ということです。
亀井 茲矩
江戸時代の小泉友賢が「因幡民談記」に記したことでその由来が知られるこの神社は、戦国時代慶長年間ですから、1590年代にときの鹿野城主亀井 茲矩(かめい これのり)公によって再興されたものです。きっかけは亀井公の夢の中に兎が現れて、神社を再建してほしいと要請された、ということらしいのです。
司馬遼太郎氏も、『街道をゆく』27冊目「因幡・伯耆の道、ユズハラ街道」に詳しく亀井茲矩公について述べています。「亀井茲矩公は、ロマンティストだったから白兎神社を再興したのだ」、と司馬遼太郎さんは言っています。しかし果たして亀井茲矩はロマンだけで、この白兎神社の再興をしたのでしょうか。私は、断じて否、と思います。亀井茲矩はいったいどんな人物であったのでしょうか。
ウィキペディアより
>徳川政権下においては農業開発、銀山開発、用水路開設などの行政面に手腕を振るう一方で、江戸幕府の朱印状を得てのタイと交易を行なうなど、世界に視野を広げた実業家でもあった。日本海側の中国地方の大名が南蛮貿易を行った事例は希少である。彼が行政面に優れ、交易の視野を世界にまで広げることができたのは、流浪時代に先進地帯である近畿圏で活動していたことや、主君が信長・秀吉であった影響が大きかったものと思われる。時代に翻弄され小藩の領主に止まったが、政治手腕・実戦経験ともに充実した人物と言えよう。<
亀井公が白兎神社を再建したとされる慶長年間、亀井公が夢に基づいて白兎神社を再興しようとして、その場所を探ります。92歳の古老が、白兎神社のかつての場所を知っていたことから、場所を特定することができました。それが現在地です。
私はこの話はほとんどそのまま受けとめて差し支えないと思われます。神々への信仰心を強く持つ人に、夢の中で真実を神が告げ知らせることは大いにありえる話です。
亀井公が単なる戦国武将で、形式的に神仏を信仰しているだけなら、それほどのこともなかったかもしれません。しかし、亀井公の信仰心は並々ではなかったのでしょう。私は小泉友賢が『因幡民談記』に記しているように、亀井公の夢に本当に兎神が現れたのだと思います。そして90歳くらいの古老にお話を聞いて、その場所を特定したのもほぼ間違いないことだと思います。
白兎神社はその成り立ちから、ほかの神社と強く関連性を持っています。この地域は天穂日命と御縁のある場所です。天穂日命神社は湖山池の西側に鎮座しています。その御子神である天日名鳥命、そして阿太賀都健御熊命を祀る神社が付近にあります。ですから、神社再建の場所選びも何の理由もなくこの場所となったのではなく、ちゃんと意味があるのです。
もう一つ、白兎神社が古くから鎮座していた、といえる根拠があります。この話は鳥取県神社庁の方からお聞きしたものです。
白兎神社は亀井公が再興するまで、中世おそらく応仁の乱以降の戦国時代に戦火か何かによっていったん消失したものと思われます。しかし、そのご神体を、その地域で一番大きいお社である松上神社(主祭神国常立命)に保管したようです。そして白兎神社再興のとき、松上神社よりご神体を移したものと思われます。白兎神社は、間違いなく亀井公が創建したのではなく、小泉友賢の「民談記」にあるように長らく消失していた白兎神社、少なくとも100年近く廃絶していたのを再興した、ということです。
亀井 茲矩公をしっかり顕彰していくことはとても大切だと思います。
大己貴命の井戸
皆さん、ご存知でしたか。白兎海岸のあの砂浜に大汝命=大国主命が御造りになった井戸の跡があります。これは白兎神社がこの場所にあるその理由をさらに強める決定的な遺跡としてたいへん重要です。白兎海岸の砂浜のオキノシマのすぐ近くで大汝命は井戸を掘りあてられていたのです。
さあ、これで今回のツアーの目的地すべてを回ることができました。
皆様、ちょこっといいとこどりツアーにご参加いただきまして誠にありがとうございました!