筆者は、2年前の本日7月31日、その数日前にネット上で発見した六甲比女神社がとても気になり、かねてより参拝を企図していた六甲山カンツリーハウス内の天穂日命の磐座参拝と同じ日に初めて六甲比女神社を参拝しました。
天穂日命の磐座の存在は、芦屋神社の神職の方からお聞きしていました。現在の、芦屋と有馬温泉を結ぶ芦有道路が、かつて因幡の人たちが芦屋方面へと向かう旧道に沿っているものであることや、因幡から天穂日命を信仰する人たちがこちらの方へ移り住んだという伝承があることもお聞きしていました。そのことは拙著1冊目に少し記しています。
天穂日命の磐座がなぜ六甲山山頂尾根、しかも、瀬織津姫の磐座の至近距離、直線距離にしてわずか300メートル東方に鎮座しているのか、このことがとても気になっています。
野見宿禰は天穂日命の直系の子孫であり、野見宿禰は相撲の祖であると同時に埴輪の祖、ともいわれています。
相撲の祖はさておき、埴輪の祖、ということから葬礼にかかわる土師氏の祖といわれます。土師氏の職掌は、葬礼に関わる一切の事業ですが、御陵(みささぎ)=奥都城の造営、管理が中心的な仕事であったと思われます。
天穂日命は、出雲で、大己貴命を祀る杵築の大社(出雲大社)の斎主の仕事を司っていました。これもある意味で、葬儀に関わる事業といえます。
筆者は、天穂日命は、晩年には六甲山へ移住され、六甲山を神々の御陵の山として整備されたのではないかと、推測しています。
つまり、磐座の宝庫といわれる六甲山=ムカツ峰は、ムカツ姫=瀬織津姫の御陵=六甲比命神社の磐座を中心として、瀬織津姫を慕う多くの神々の御陵が集中しているのですが、それらを造営指揮されたのは、天穂日命とその一族の方たちだったのではないかという気がしてきました。
その伝統があって、野見宿禰の代になって、殉死者の代わりに埴輪を設置するという新案が考案されたり、崇神天皇陵や景行天皇陵などのような前方後円墳の造営がなされていったのではないでしょうか。
もしかすると、甲山の山容の整備も手掛けられたのかもしれません。
天照大神の御陵を象徴する福知山市大江町の日室嶽はピラミッド型で、男性的なイメージがあるのに対して、瀬織津姫の御陵を象徴する甲山は、女性的な丸みを帯びています。甲山については火山であったという説もありますが、一方でそうではなく、山容を整備したものではないかとも考えられています。
これら大規模な土木事業の陣頭指揮を執っていたのが、土師氏またはそのルーツである天穂日命の系統の子孫であったた可能性があるのではないでしょうか。
いずれにせよ天穂日命は、晩年に、六甲山へお越しになり、瀬織津姫の御陵を守るために、そのすぐ近くを御自らの奥都城として設定されたのは間違いないと思われます。そして天穂日命には、その場所を強力に守るお力を持ち、またそのお立場にあるという御自覚もあったと考えられます。
これはホツマに記されている内容を踏まえると納得のいくものです。
また白兎と八上姫と天穂日命の関連もも逃すことはできません。
http://blogs.dion.ne.jp/yakamihakuto/archives/3662802.html
上記URLの旧ブログでも紹介していますが、八上の白兎ラインの南西の終点は八上姫を祀る賣沼神社、そして北東の起点は天穂日命を祀る土師神社です。ここと、天穂日命の御子神を祀る鳥取市の天日名鳥神社と御熊神社は一直線に並びます。その近くに白兎神社と天穂日命神社が鎮座しています。
鳥取市白兎海岸の白兎神社は大阪市の、天照大神荒御魂=瀬織津姫を祀る御霊神社を再興した亀井公によって、消滅して場所も判然としていなかったものが再建された神社です。
以下の以前の記事を参照してください。
http://white.ap.teacup.com/hakuto/835.html
ここにおいても天穂日命、瀬織津姫、八上姫、白兎の接点が色濃く残っています。
八上姫は、大己貴命と共に出雲へ向かいますが、正妻スセリ姫を慮って、出雲の大己貴命のもとを離れて因幡に帰国された後は、因幡の国の守護神としてご活躍されたはずです。
そして同時期に天穂日命も出雲、因幡にかけて活躍されたわけですから、両者がともに、共同歩調をとって国をお守りされていた、と考えられます。
白兎ラインに並ぶ神社の祭神という形で、その証拠が刻印されているように思えます。