真名井御前はマグダラのマリアとシンクロする!?
加悦町(かやちょう)といえば筆者にとって、思い出の場所です。今は加悦町は町村合併によって与謝野町の一部となっています。そこに、香河(かご)という集落があり、香河川という川も流れています。この集落に、後に如意尼と呼ばれ、甲山に空海とともに神呪寺を開基した真名井御前、幼名小萩が誕生したと伝わります。
筆者は偶然にも19歳になったばかりのころの3か月間に3回、このすぐ近くのところまで足を運んでいました。今から思えば、見えない力によって、導かれていたものだったのでしょう。
真名井御前の直系の家系も今もなお続いており、御子孫の方もご健在ですが、なんと大江さんという苗字なのです。もっともこの集落には大江という苗字の方が多くいらっしゃって、加悦の平野から見える山が大江山、その先が元伊勢内宮のある大江町ですから、別段驚くほどの事もないのかもしれません。
この香河の小萩さんについては、こちらのサイトに詳しく紹介されています。
http://www.geocities.jp/k_saito_site/bunkn55.html
>石川郷香河村。
むかし京師の沙門倉橋川の辺を徘徊せるに川水えならず匂ひければ怪しみ流を伝ひ一村に至るに香気ますます盛んなれば里民に問さとの者曰く此村の貧家に子なきものあり天に祈りて一人の女子を得る此子生れ落ると此辺薫し渡る事三里四方なり誠に世にも類なき美小児なりことし七歳に及ぶといふ。沙門則其家に尋入り見るに小児のかんばせ白玉の如く香気は少女が身より出る事桜花の匂へるに異ならず父母に乞受けて都に誘ひて朝廷に奉りければ御寵愛浅からず終に天長のころ淳和天皇の皇妃に召上られ與佐の宇屋居子と申せしとかや元享釈書に如意尼は天長の帝の次妃丹後国與佐の郷の人なりとあり薙染の後旧里へ帰り一宇の精舎を建立して養法寺と名付られける。今其寺跡田地の字と成て世に伝ふ手づから彫刻の本尊観世音菩薩は養法寺破壊の後小萩の草堂に安置らしも今は名のみ残りて石川村西禅寺と云に有この尼は浦島の同じ血脈なり浦島が玉手箱を得て空海大士に奉り玉ひこの箱を以て空海雨をふらせ玉ふことは釈書に委し。<
一般に、真名井御前は、空海入寂の 承和2年3月21日(新暦835年4月22日)の前日の3月20日に33歳で遷化(逝去)された、と言われていますが、こちらの方では、その後丹後に帰郷し、故郷に、いくつかの寺院を創建して、観音に帰依されたと伝わっています。
どちらが正しいのかは、今のところ不明ですが、直系の御子孫もいらっしゃることから何となく、ダビンチコードに描かれているようなストーリーを思い出さずにはいられません。
イエスキリストにはマグダラのマリアという弟子がいて、マリアは最愛の弟子であり、同時に妻であった。そしてお二人の間には、お子様もいらっしゃって、キリストがなくなった後、その子を連れてマリアは南フランスへ移動、後に、ヨーロッパのある著名な王侯貴族のルーツとなる家系へとその血筋がつながっている、というストーリーです。
作家ダンブラウンのサスペンスフィクションをストーリー展開の軸としながらも、描かれる史実や登場する団体は事実に基づく、と作者本人によってふれこみがなされました。もちろん、従来の聖書に基づく話ではありえないことです。額面通り受け入れられない、という反論も多く出てはいます。
とにかくこの話の真偽はともかく、あってもおかしくない話といえそうです。 それと同様のことが、日本でも起こっていたわけですから。 記紀神話によって、女神と思われていた天照大神は、単独で天忍穂耳命をはじめとする御子神を誕生させたかのように描かれていますが、実は男神で、十二人の后を持ち、その皇后が瀬織津姫であったわけです。
真名井御前も、もしかすると33歳で遷化(逝去)されたのではなく、御子を産み育てるために丹後へ戻られたのかもしれません。父君は、世間で言われるように弘法大師である可能性も無きにしも非ずですが、これも真偽のほどはわかりません。
京丹後という、豊受大神・天照大神とご縁の深い場所、そして浦島太郎、真名井御前、(小姉君、)間人皇后、麻呂子親王と、聖徳太子とのつながりもあるこの場所と、六甲山系甲山ともご縁をいただいている筆者としては、もう少し究明していきたい気持ちでいっぱいです。

真名井御前=如意尼をモデルとした聖観音=小萩観音と呼ばれる観音です。