鞍馬 六甲ツアー にんげんクラブ
神道と仏教を結ぶ瀬織津姫
瀬織津姫と聖徳太子
「三宝を敬え」と仏教を推進した厩戸皇子=聖徳太子は、神道を無視ないし軽視していた、そのため神道派の物部氏と対立することになったと考える向きが多いのですが、実は「十七条五憲法」には「神・儒・仏の三法を敬え」と記されていること、「敬神の詔」にあるように、日本の神を大切にするお考えをお持ちであったのです。聖徳太子が神道を基本としていたことが、後世、藤原鎌足・不比等一派によって歪められ、日本書紀にもその最も重要な点が書き換えられてしまったと思われます。聖徳太子は、すでにその当時、何者かによって歪められ、その存在が否定されつつあった伊勢祭神、中でも瀬織津姫を守ってこられたようです。国常立命と伊勢祭神は聖徳太子とともに仏教興隆を通じて、深刻な宗教対立が起こらないように神仏習合という方向性を打ち出されたのではないかと推測しています。
大日如来が天照大神の本地であることは有名です。すると大日如来の御働きをされる不動明王は瀬織津姫のエネルギーを表していることになります。
毘沙門天が天照大神、吉祥天(弁財天)が瀬織津姫、天忍穂耳命が善膩師童子という仏教的なお姿で祀られることになった、同じく西方浄土の阿弥陀三尊も天照大神・瀬織津姫・天忍穂耳命を、それぞれ阿弥陀如来・聖観音・勢至菩薩として仏教的に祀った、瀬織津姫を単独で祀るときは如意輪観音(救世観音)や十一面観音、千手観音、馬頭観音、准胝観音などの諸々の観音とされたのではないかと私は考えております。
聖徳太子が四天王・吉祥天を祀る信貴山朝護孫子寺・四天王寺・法隆寺を創建した当初より、本来仏教寺院では、神道の神と仏教の本尊を共に祀る方式がとられています。鎮守神が寺院境内に祀られているのもその証拠です。
聖徳太子は十七条五憲法のとおりに神道を根本の幹として仏教と儒教の枝葉と果実を実らせようとされたのです。
聖徳太子が毘沙門天を感得した場所に創建した朝護孫子寺と信貴山奥の院(ここに毘沙門天が出現されました)はいずれも毘沙門天・吉祥天・善膩師童子を本尊としています。法隆寺創建当初の若草伽藍は四天王寺式伽藍配置であったことは有名です。若草伽藍の東側には、神社が同じ規模で併設されていたのでしょうが、(おそらく)放火によって伽藍配置を変えられ、神社の祭神は別の場所へ移されたものと推測します。今も法隆寺の鎮守社として、龍田神社が法隆寺の西に鎮座しています。この神社の摂社に廣田神社があります。瀬織津姫が祀られているのです。四天王寺七宮としても廣田神社が創建されています。
若草伽藍、宝塚市の中山寺、西宮市の神呪寺と廣田神社は南向きですが、南北ラインよりやや東向き、すなわち、南南東20度の方角を向いていますが、古代文明に見られるシリウス信仰とも関連性があるのかもしれません。
救世観音は如意輪観音と同じであるとみなす四天王寺は、金堂の本尊を救世観音としています。四天王と吉祥天も境内に祀られています。
また四天王寺の山号を荒陵山(あらはかやま)といいますが、近くには山などありません。しかし、夏至の日の入り方向に六甲山頂がピタリと位置しており、六甲山は天照大神の荒御魂の御陵があります。四天王寺の創建時に六甲山の御影石を切り出しています。
聖徳太子はほぼ六甲山を囲むように複数の寺院を創建しています。中山寺を筆頭に、宝塚市の塩尾寺(えんぺいじ)、平林寺、金龍寺、神戸市北区道場(聖徳太子命名の地名といわれる)の光明寺、そして有馬温泉の極楽寺は六甲比命の磐座のほぼ真北に位置します。毘沙門天が姿を現した雲ヶ岩・心経岩・六甲比命(弁財天)の磐座を奥の院とする吉祥院多聞寺の秘仏本尊は毘沙門天・吉祥天・善膩師童子です。
西宮市名塩の木元寺には、「日本三躰ノ一 木ノ元地蔵尊」と刻まれた碑がありますが、ここの本尊は紀伊の木ノ本、近江の木之本地蔵尊とともに、聖徳太子が鎮護国家のため一本で三体の地蔵尊を刻み三か所に納めた日本三体地蔵尊の一つと伝わっているそうです。この寺院には天河弁才天が古くから祀られており、そのほか不動明王、毘沙門天、十一面観音も祀られています。和歌山の木ノ本は日前宮の神鏡(天照大神と瀬織津姫の御神体)が最初に祀られたところです。滋賀の木之元地蔵は、天武朝の創建とされますが、この西宮の木元寺では聖徳太子創建と伝わっています。驚くべきことに、滋賀県の木之元地蔵とこの木元寺を結んだ延長上に六甲比命の磐座が位置するのです。つまり聖徳太子は三つの木ノ元地蔵で、日前宮と六甲比命の磐座の関係を示しているのです。
六甲山の天穂日命の磐座の真南に位置する神戸市東灘区御影の綱敷天満宮(主祭神天穂日命)は四天王寺創建のために御影石を切り出す際に、聖徳太子が倉稲魂神を祀ったと伝わり、聖徳太子御所持の笏と駒角が保存されています。
兵庫県太子町の斑鳩寺の太子堂には聖徳太子御自身の本物の長い髪を施した太子16歳像がありますが、その御姿は神職の衣装の上に袈裟を重ねたもので、その衣装は必ず皇室より賜ってきた伝統があります。現在のその衣装は、高松宮が昭和37年2月22日の聖徳太子の命日に寄贈されたものだそうです。右手に神道の象徴である笏を持ち、左手には仏事の法具、柄香炉(えごうろ)を持ち、その足元には天照大神の象徴である鏡が安置してあります。まさに神仏習合を推進された強固な意志を体現した神々しい御姿です。この太子像を本尊とする太子堂の、向かって右側にはなんと善光寺の阿弥陀如来の複製が祀られているのです。聖徳太子も、善光寺の阿弥陀如来とは深いご縁があり、この阿弥陀如来との往復書簡が四天王寺に伝わっています。
◎聖徳太子の継承者たちの活躍
さて聖徳太子が622年に薨去され、その直後、法道仙人がインドより渡来して、主に兵庫県南東部、つまり向か津峰(六甲山)を中心として多くの寺院を創建します。そのうちの一つが神戸市北区唐櫃の吉祥院多聞寺ですが、法道仙人は向か津姫(六甲比命)の磐座・雲ヶ岩・心経岩をその奥の院としました。吉祥院多聞寺の前立本尊は毘沙門天で秘仏本尊は毘沙門天・吉祥天・善膩師童子です。
時代はまさに聖徳太子が薨去(こうきょ)され、643年その御子である山背大兄王が死に追いやられて一族がほぼ全員滅亡し、秦河勝は赤穂に幽閉され、その精神を受け継ぐ勢力が弱められ、ついに645年乙巳の変で、聖徳太子の遺志を継承する勢力が祭政の中心から追放、根絶やしにされ、代わって藤原氏が台頭していった一大転換期でした。
乙巳の変(大化改新)で藤原鎌足一派は、神仏儒の道を推進する勢力の一掃を、表面上は完了させたかのようでした。水面下では主に修験者・仏教高僧の人々が聖徳太子の教えを守ろうとする活動を継承していきました。法道仙人の遺業を役行者が、聖徳太子の未完の事業を引き継ぐ活動をされます。向か津峰で瀬織津姫と出会った役行者は、後に天武天皇とともに瀬織津姫を天河弁財天として祀ります。
斉明天皇2年(658年)兵庫県太子町斑鳩寺のすぐ隣に徳道上人が生誕されます。徳道上人は閻魔大王の命によって西国三十三か所を創始された方です。志半ばでこの事業は途絶えますが、その270年後に花山法皇が大成されます。
聖徳太子の時代の200年後、京都の六角堂の如意輪観音に帰依して仏道に入った丹後の与謝野町香河出身の小萩さん=真名井御前は、淳和天皇の御后として入内しますが、すぐにまた出家され、おそらく瀬織津姫に導かれて、『元亨釈書』の記述に基づけば浜南宮(西宮神社)、廣田神社、甲山を経て向か津峰山頂へ向い、甲山の山麓に、如意輪観音を本尊とする武庫山(六甲山)神呪寺を空海と共に創建しました。
これが聖徳太子生誕地・天武天皇御陵・役行者生誕地・空海生誕地が一直線で並び、空海生誕地と日前宮・高野山奥の院・天河弁財天が東西一直線で並ぶ理由です。まさに神がすべて御計画された通りです。人間業ではありません。
それから約200年後、今度は花山法皇が熊野権現に導かれ、全国各地の瀬織津姫にかかわる場所を花山院領とされます。廣田神社と花山法皇の子孫である神祇伯の深い関係もこうして築かれました。静岡県御前崎にある桜が池は瀬織津姫が敏達天皇の御世584年にご出現されましたが、ここも花山院の領地となりました。
桜ヶ池は瀬織津姫と聖徳太子を結ぶ大切なところです。584年、瀬織津姫がご出現されたその後すぐに、桜ヶ池の真西に四天王寺(593年)、真北に善光寺が創建されました。同じ593年に広島の厳島神社が創建されますが、神殿は北西を向いています。北西の方角に高貴な存在を意識する考え方は古くからあったようです。 四天王寺の北西に六甲山が位置します。四天王寺創建なって、聖徳太子が念仏三昧に入られた時、はるか六甲の山肌に阿弥陀三尊が出現されたことから、そこが御影と呼ばれるようになったそうです。
(日本で神道の神が仏教的に守護されるようになったころ、西洋では591年にグレゴリウス1世が、イエスキリストの妻の可能性があり、キリストの弟子であるマグダラのマリアに娼婦の汚名を着せたのです。その1400年後の1969年、パウロ6世による修正で、その汚名はやっと返上されたものの、ダン・ブラウンの小説・映画『ダヴィンチ・コード』で取り上げられるまでほとんど世間一般には知られなかった模様です。キリストとマグダラのマリアと十二人の弟子。「妻」という関係が隠され(た可能性があり)、汚名を着せられた、そのような時代の流れと軌を一にしていることにも注意を払う必要があります。)
善光寺の北西に戸隠神社と九頭竜神社が位置します。花山法皇が皇位をわずか2年で離脱させられた後、花山法皇を仏道に導いて、ともに西国三十三所を復興されたのが仏眼上人ですが、上人と出会ったのは何と聖徳太子の御廟を守る叡福寺でした。仏眼上人はこの叡福寺の僧侶で、熊野権現の化身とも伝わる不思議な方です。この三十三所は、地震の活断層のあるところに位置しているものが多い、という話が古くから一部の僧侶の間で伝わっているようです。(神戸市北区道場 太福寺住職のお話と、成瀬正透著『神がわたる謎の道』より)
それから約150年後、今度は熊本県玉名市出身で『扶桑略記』を著したことでも有名な皇円阿闍梨が、亡くなる際に龍身となって桜ヶ池に入定されます。六甲比命の磐座と空海生誕地、善通寺の産湯井戸と皇円阿闍梨生誕地は一直線で並びます。皇円阿闍梨が桜ヶ池に入定された30年後、皇円阿闍梨の龍体が善光寺上空に現れ、境内の阿闍梨池に毎年数日間鎮まるようになったそうです。
◎すでに神のお働きをされているモチコ姫・ハヤコ姫
善光寺にはどのような秘密が隠されているのでしょう。
善光寺の北西にモチコさんが最期を遂げた戸隠しの洞窟があり、現在九頭竜神社として祀られています。天照大神の第一子で本来は日嗣の天神となるはずであったわが子天穂日命を九代目の天神になしえなかった無念の気持ちを持ち続け、本家からのプレッシャーなどから窮地に追いやられてしまったモチコさんは九頭竜となり、全国を流離い、戸隠の洞窟に潜んでいるところをトカクシに切り殺されてしまうのです。肉体は死のうともその無念の気持ちは晴れることなく、後の世にもわだかまっていたわけです。伊勢祭神はハヤコさん、モチコさんを神上がりできるようにと腐心されたと思われます。神代の時代から人の世の時代になっても、まだ神上がることのなかったハヤコさん、モチコさんを丁重にご供養するために、聖徳太子、役行者、空海ほかの高僧・神官にもその供養を託したものと思われます。日本仏教の草創期に、物部氏によって廃棄された阿弥陀三尊が、不思議な経緯をたどって長野の善光寺で祀られます。善光寺の創建はその北西に位置する戸隠=九頭竜社、モチコさんの供養と密接に関係しているはずで、戸隠修験者は善光寺と戸隠を一体のものとみなして修行していました。モチコさんも九頭竜神社・戸隠神社神官、善光寺僧侶を中心に手厚くご供養されたものと思われます。
善光寺本堂中央には守屋柱という四角形の太い柱があり、本尊は戸隠の方向を意識して本堂内の北西に位置する、という特異な構造です。神社建築では建物の内から外へと柱の形が異なり、円柱は神殿の天の神の領域、八角柱は地(に降り立った)神の領域、四角柱は人の領域の象徴であるかのように使い分けられています。この見方からすれば、善光寺本堂内陣奥の中央に位置する四角柱は特異な存在です。この四角柱にこそ、無念の思いを残したまま神上がられていない方々に神上がっていただくための大規模な供養のための施設であることが示されているといえるでしょう。
また本堂奥の地下には、真っ暗な洞窟を再現した胎内めぐりの空間がつくられていますが、これはモチコさんが戸隠山の真っ暗闇の洞窟にお一人で籠ってつらい思いをされていたことを疑似体験するためのものではないでしょうか。イサナキの親族の出身で、モチコさんの宮中での立場には、その実家からの相当な重すぎる期待もあったとも思われます。長男タナヒトさんを九代目天神に、とはモチコさん個人の切望ばかりでなく、ご実家からのプレッシャーもあったのでしょう。このあたりの宮中のお后たちの心理状態は、後の平安時代の『源氏物語』に鮮明に描かれているものと大きな差はないような気がします。
このようにモチコさん=九頭竜の供養を目的として善光寺は、日本仏教興隆にとって最も重要な本尊を以って、そのおひざ元、長野に創建されたと考えられるのです。モチコさんと関わるこの場所でも、やはり聖徳太子の足跡を確認できます。聖徳太子とこの善光寺如来とはご縁があり、不思議な話でどこまで信じてよいのかはわかりませんが、聖徳太子がこの阿弥陀如来と往復書簡を交わしており、その手紙が四天王寺に伝わっているそうです。 121世にわたる善光寺の尼僧上人はすべて皇室や五摂家からの出身の方々であることからも、ここが特別な場所であることが示されています。皇円阿闍梨が、瀬織津姫と関わる静岡県御前崎の桜ヶ池で龍となって入定した直後に、善光寺の阿闍梨が池にご出現されたのも瀬織津姫のご意志に基づいてモチコさんを供養することが目的だったと考えられます。岩手県遠野の瀬織津姫を祭神とする早池峰神社とも関わる六角牛(ろっこうし)山頂と六甲山の六甲比命の磐座を結んだライン上に、長野県戸隠の九頭竜山が位置しているのも偶然ではないでしょう。日本の神が長い長い年月をかけて、モチコさんハヤコさんを厚く供養し、神上がりへと導いてこられたことが判ります。
渡来系の秦氏にせよ、藤原鎌足・不比等とその子孫にせよ、皇室の血統との融合によって、当初の政権簒奪の夢は次第に薄れていって、やがてはその反対に皇室を守り、日本を守る役割をするようになっていったように、長年のご供養によってモチコさんハヤコさんの思いも変わって、神上がられて日本の国の守護神へと昇華されたようです。
1954年、今から59年前です。突如として、京都の八瀬の大西さんという方へ、九頭竜のご神霊がかかります。これが九頭竜大社の創建のきっかけです。以下は八瀬の九頭竜大社の由緒書きからです。
>昭和29年11月24日 ご祭神九頭竜弁財天大神様が開祖大西正治朗の夢枕に立たれ、「汝の身を社にする。無限に人を救う。奇蹟を以て即座に守護を与える。神は人を救って神界に上る。」とのご神託をお授けになり京都八瀬の地に降臨され、九頭竜大社が発祥いたしました。九頭竜弁財天大神様は慈悲の神であり、人生における諸々の災い、厄を取り除き、福徳を授け、幸いにお導き下さいます。発祥当初より九頭竜弁財天大神様の奇蹟の力が発揚され、月参りをなさるなど、熱心にお参りになる方々が後を絶ちません。数多くの方々が大神様よりのお蔭をいただかれる霊験あらたかな社です。<
伊勢神宮ともご縁がある九頭竜大社。別の由緒書きによれば、祭神は2柱と記されています。おそらく、モチコさんとハヤコさんが合体した龍神でしょう。
さて、ではなぜ、昭和になって九頭竜神は京都の八瀬の大西さんのところへ降りてこられたのでしょうか。八瀬の北西方面には鞍馬・貴船が位置します。鞍馬寺には毘沙門天・吉祥天・善膩師童子(=天照大神・瀬織津姫・天忍穂耳命)が祀られています。その北西に貴船神社の結の社が位置します。そこは磐長姫が祀られているのですが、実はホツマによれば、磐長姫とはハヤコさんが輪廻転生された方だったのです。そして驚くべきことにこの3地点がピタリと一直線で並びます。つまり大西さんという霊的因縁のある方に八瀬に住んでいただき、そこへ時期が到来したときに九頭竜の神が御かかりになったということです。
その12年後の1966年、昭和41年にはホツマが世に出て神代の真相がいよいよ広まる時代となりました。その2〜3年後、京都府大江町の元伊勢内宮に、磐長姫の御神霊のかかった神奈川県藤沢市の方の手によって、磐長姫の社と八俣龍神の社が創建されました。天照大神の使命神・皇室神道をご守護することを目的としてイワナガヒメが元伊勢内宮の地に祀られるようになりました。このような神々の和合の動きは、機を一にしているわけです。
国常立命の常世の教えがたくさん記されたホツマが世に広まることは大変好ましいことですが、私は、日本の神々が憂えておられることが一つだけある、と思います。すでに善神となられた神に対して、現代人の善悪二元論に基づく固定的評価とその価値観に相応した、行き過ぎた勧善懲悪の描き方や蔑称表現を使い続けることは私も含めて、改めるべきではないか、ということです。日本の神々が長年かけて、和す・尽くすの精神で、慎重に築き上げてこられた神々の和の世界を、ホツマの根本精神を十分ふまえないことで、かえって台無しにすることになりかねません。
太古より人々をご守護されてきた神々、後の世に貴重な教訓を残された神々は今、和(やわ)すこと、尽くすことの大切さ、そして必要なときには健き心(猛き心)の発揮の重要性を人々にお伝えしようとされています。日本の歴史時代の最初から見出すことのできる、敵となった相手を赦す(愛す)、一時的な過ち=悪を抱き参らせて善へと導いていかれた神々とその思想継承者たちのご尽力、連綿と続いた神道の神官・仏教高僧・儒学者・道徳家、思想家・教育者・一部の優れた政治家による並々ならぬ献身的な活動、これが日本人の心の優しさの源ではないでしょうか。
天穂日命の顕彰を!
天穂日命は記紀神話の中でもホツマにおいても、あまり重大な役目を果たした神という印象がありません。けれども天穂日命は、日本人の精神的支柱となっている和すことの重要性を、身を挺して実行されたといっても過言ではないように思います。
記紀神話では天照大神の第二子とされる天穂日命は、ホツマでは天照大神の長男として誕生した、と記されています。母君は伊弉諾の一族出身のモチコ姫です。その生誕地は、ホツマの記述から丹後半島、京丹後市大宮町大宮売神社周辺と考えられます。ここに天照大神のもとへ入内した母君のモチコ姫とその妹ハヤコ姫が北局(ねのつぼね)としていらっしゃったと考えられます。 その後、母君のモチコ姫はハヤコ姫とともに事情によって宮中を離れ、天穂日命は中宮である瀬織津姫に養育されます。
ホツマによれば、やがて出雲で素戔嗚命の御子である大己貴命が、民の暮らしを豊かにする一方で、天照大神と瀬織津姫の御住まいになる伊雑宮の質素で雅な御所とは比べものにならない、巨大神殿を建造したことなどから、高天原の中央が、それを糺すために使者を遣わすことになりました。その時の交渉役として派遣されたのが天穂日命、その御子神御熊神(みくまのかみ)=天日名鳥命です。いずれも、交渉はうまく進捗しませんでした。おそらく二神ともに出雲勢力によって軟禁状態にされ、懐柔されたものと思われます。ホツマには「大己貴命に へつらいこひて(諂い媚びて)」と記されています。(ホツマにも執筆した人の立場、価値観が反映されていることも考慮しておくべきでしょう。) その後、アメノワカヒコの交渉も失敗し、高天原は今度は、軍事的威嚇も含めて国替えを決定し、強制執行します。これによって(軟禁状態から解放されたと思われる)天穂日命の御子、御熊命は稲背脛命(いなせはぎのみこと)として、大己貴命の御子、事代主のところへ行くことができ、そこで降伏を促すことができたのです。大己貴命はこれによって屈服し、青森の岩木山に遷されます。
そして、その後の出雲の統治は天穂日命が担うこととなったわけです。天穂日命は、最晩年には六甲にお越しになり、ここで神上がられたものと推定します。ではなぜ六甲か、しかも瀬織津姫の御陵のすぐ隣なのか、それもホツマで明らかとなります。瀬織津姫は天穂日命の育ての親に当たります。天穂日命は魂を出雲勢力に売り渡してはいません。ですから、自らの御陵を瀬織津姫の御陵の隣に決定したのです。しかも、ここは出雲大社と伊勢の伊雑宮を結ぶ直線上にピタリと位置しています。国遷しの問題の発端は、「国の長といえども、つつましい生活をすべきである」というお考えの天照大神と、それに反し豪華な御殿を建てて奢り高ぶった大己貴命と対立したことです。天穂日命はその不正を糺しに交渉に出かけたのであり、出雲側にすり寄ってはおらず、伊勢の神の立場であったことなどが、この六甲にご自身の御陵(磐座)があることによって自ずとわかるのです。百歩譲って、天穂日命が一時的に大己貴命の側に立ったとしたにしても、その後それを糺して、出雲の統治のお役目を果たし、以後は瀬織津姫の御陵を守り続けられています。また御子孫の系統は国を守る大役を果たし、天照大神の皇統とつながる宮司家直系は血脈をしっかりと現在まで維持していることも、高く評価されるべきです。今こそ、天穂日命への誤解を解かなくてはなりません。
現在の出雲大社の宮司家である千家家と北島家はいずれも因幡国造と同じく、天穂日命の末裔です。
出雲大社では、江戸時代ごろまで素戔嗚命を祀っていたというのが、有力な説です。現在は大己貴命を主祭神として祀り、素戔嗚命は、本殿の奥に位置する社に祀られています。出雲大社の巨大な神殿とは、本来父君である素戔嗚命を厚く祀ろうとしたものだったのでしょう。いつしか大己貴命自身も慢心して、中央の指示に従わなかったりしたことがお咎めの要因となったものと思われます。大己貴命は、民に肉食を許し、多くの民が短命になったことなど、ネガティブな面もありますが、全国各地に残る大己貴命伝承から察すれば、総じて農業を盛んにし、人々の生活を豊かにした功績は大きいと思います。
天穂日命は、複雑な立ち位置にあったと思いますが、このように神代の時代より、伊勢=高天原と出雲の勢力とを結びつける大役を担いました。本来ならば、直系の父母の系統を祖神として奉るのですが、天穂日命は敵側であった素戔嗚命を厚く奉る役割を果たしたのです。しかも素戔嗚命のために、母君のモチコ姫が大変な目にあったわけですから、本来は憎んでも憎みきれない相手なわけです。ですからこのこと自体が、普通ではなかなか実行することのできない大きな役目であるといえます。今迄この点に関して、深い考察が記紀研究者の間でも、ホツマ研究者の間でもなされてきませんでした。天穂日命が、高天原の天津神系から、出雲の国津神系へと立場を変えたかのようにとらえられてきました。しかしそうではなく、そこには伊勢の神と天穂日命のより深いお考えがあったのです。
天穂日命は母君であるモチコ姫の悲願であった9代目の天神にはなれないで、いわば『臣籍降下』したのですが、その系統からは皇室と日本を守るために多大な貢献をしてきた人物を多く輩出してきました。皇室・宮中に居てはできないような、国のための大きな役割を、そのような立場から担ってきたのです。
天穂日命はもちろん天照大神の血統をひいており、その血脈を日本中津々浦々へと広げていきました。天穂日命の子孫は土師氏として、日本の国に大いなる貢献をしてきました。その産みの母親であるモチコさんも、天穂日命のご活躍と、その子孫たちの血統の活躍も本当に喜ばしいこととお感じになっているものと思われます。
平成26年5月27日、高円宮典子様と天穂日命の直系子孫である出雲大社の千家国麿様がご婚約を発表されました。このことには、大きな歴史的意義があるものと思います。 出雲と伊勢は天穂日命の神代の時代より、その和合が図られてきています。皇統から離れて2000年以上の現代、天穂日命の直系子孫と、皇室の血統をダイレクトに引き継ぐ方が、婚姻を通じてご一緒になる、というのは確かに一大事件なのです。
天穂日命が体現された和の精神を大切にしなくてはなりません。
平成26年6月7日
大江 幸久