以下は、あるサイトへの筆者の投稿です。
継体天皇が渡来系ではないかとする、説に対してです。
ホツマツタエという古代の書物、その前半は神武天皇の時代、そして後半は崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇の時代に記されたものです。この書物が高島に保管されていました。天皇が日本神界=高天原とずっとつながりを持っており、互いに守り、守られる関係にあります。皇統は一貫して現在まで守り続けられています。継体天皇は、父親の彦主人王(ひこうしおう)で、早くに亡くなられたため、母親のふるさと、福井の坂井の丸岡で育ちます。富山ではありません。福井は当時は大陸の玄関口ですから大陸系とも大いにつながっていましたが、皇室の男系の血統そのものはずっと守られています。皇統を絶やさない、というのは高天原の神々の大事なお役目の一つです。継体天皇が、皇室の、神代から伝わる教えが記された書物が大切に保管されていた高島出身である、ということは、応神天皇時代から数代にわたって、渡来系の思想を受容した天皇よりも、いっそう日本古来の天皇家の思想を継承していたわけです。この大事な点を歴史家は見落としています。なぜならば、ホツマをろくに検討もしないで偽書扱いしてしまっているが故です。私は、記紀との比較、実際の神社・神神話伝承との対比から、ホツマの方が記紀よりもはるかに整合性を持っていることを確信しています。たとえば、20年に一度の遷宮制度です。これは、男神の天照大神を女神にした輩がいたのです。お后の瀬織津姫はその名を消され、伊勢神宮では、荒祭宮に天照大神の荒御魂として祀っています。本来は遷宮などはなく、天照大神と瀬織津姫の神殿が対等な大きさで、常時二つ並んでいたわけです。瀬織津姫を消し、その神殿跡の空き地、という矛盾をごまかすために、後の世に、おそらく藤原不比等ですが、遷宮制度を設けたわけです。20年ごとに新たに神殿を作る作業は、やがて、神宮周辺の木材は枯渇させます。鎌倉時代には、もはや遷宮のための用材を近くでは調達できなくなりました。遷宮制度の本当の狙いは、これによって神宮の財力をなくすこと、ゆくゆくは神宮を消滅させることであったといえるでしょう。この、天照大神が男神でそのお后の瀬織津姫について詳しく記されているは、古史古伝の中で唯一、ホツマだけです。ほかの古史古伝もすでに武内宿禰によって手を加えられ、真相が消されてしまったのです。ホツマには神々の教えや教訓となることが多く記されています。これが、権力欲に目がくらんだ輩には邪魔な存在だったのです。高天原の神々もそのような輩たちに改心を働きかかるのですが、全くいうことを聞かず、逆にその神々を封じ込めようと躍起になって、記紀などを通じて、真相を隠したわけです。どうか、この点をお見逃しなく、よろしくお願いいたします。
