今回より会員限定となり、一般公募はしておりませんでしたが、10月21日に道の駅かわはら主催のミステリーウオークバスツアーが催されました。
このような事情もあり、当ブログでも事前の宣伝はしておりませんでした。 参加できなかった方のために、その行先の一部で筆者がガイドとして語ったことや、準備していたもののお話できなかったことをここに公表いたします。
ミステリウォークバスーツアー
平成24年10月21日
ガイド 大江 幸久
八上姫と鬼、八上姫伝承異伝
皆様、おはようございます。
今回で4回目となる清流茶屋道の駅かわはら主催のミステリーウォークバスツアーにご参加いただきまして、誠にありがとうございます。
さて、今回も、どんな所を訪れるのかワクワクしてきますが、様々な八上姫伝承・八上姫と鬼をメインテーマにして関連の場所を回っていきます。まわりながら、それとは直接関連はありませんが、私の新たな研究成果なども、ほんの少しですが、ご披露したいと思います。
今回は、昼からは地元郷土歴史研究家のご協力もいただいて、さらに詳しいガイドをしてもらいます。皆様、お楽しみにしてください。
清流茶屋道の駅かわはらを出発して、最初の訪問地は百鬼ミュージアムです。
百鬼ミュージアム
全国各地と特に因幡、伯耆の作家を中心にした鬼絵・鬼グッズ・鬼作品を集めた美術館です。鬼は、目に見えない世界を呼ぶもので、山の精霊、森の風音、水のせせらぎ、泉や山陰の神々である天狗、大黒、スサノオや因幡の麒麟獅子なども全て鬼の世界に通じるものだそうです。八上姫が鬼退治をした、という伝承が用瀬町に伝わっています。まずは鬼とは何か、をしっかりと学習しておきましょう。では岡田館長にご案内いただきましょう。
河原町の町のど真ん中に、このような異境の世界があったとは驚きでしたね。
さて、次は鬼伝説の舞台の一つが実は河原町内にもあった、その場所へご案内します。
三枚岩(鳥取市河原町湯谷)
この案内看板にも記されているように、全国各地に伝わるいわゆる三輪山伝説です。
以下、ネットより紹介
http://homepage2.nifty.com/kys/kys.kodai_miwajinja.htm
古事記では
>活玉依毘売(いくたまよりひめ)というたいそう美しい姫がいた。毎夜、みめかたち振る舞いのいい青年が訪ねてくる。そのうち姫は身ごもった。両親は驚き姫に尋ねると「名も知らない美しい若者が通ってきて、夜々を共に過すうち身ごもりました」と答えた。両親は身許を知りたいと思い「赤土を部屋に撒いて邪悪を払いなさい。そして、麻糸を針に通して男の着物の裾に射すのですよ」と姫に教えた。
その夜、いつものようにやってきた男に、姫は教えられたように着物の裾に針を射した。夜が明け、男の姿は消えたが麻糸は戸の鍵穴から通り抜けていた。麻糸をたどっていくと三輪山にたどりついた。夜な夜な訪ねてくる青年は、三輪の大物主大神の化身だったのだ。 姫は神の子を孕んだのでした。糸巻きには三勾(三巻き)の糸が残っていたのでこの地を美和(三輪)という<
共通点は、夜な夜な、素性のわからない男が、若い娘のところにやってくる。それに気づいた親、または周辺のものが、娘に指示を出して男の衣装に、針に糸を通して刺しておく。翌朝、その糸をたどっていくと、洞窟など、へ行きつく。
なぜ、このような伝説が全国各地に広まっていったのでしょうか。わからないままです。この場所では八上姫は登場しません。
次に向かう場所には八上姫が登場します。
バスの中
八上姫と鬼の物語はいくつかの伝承があるようです。
八上姫、と言っても、神話時代の大己貴命ともに活躍された八上姫も、いれば歴史時代、平安時代に入って八上姫と鬼の物語という神話時代とは全く異なるお話もあります。舞台も少しずつ違います。長者の名前も河原町曳田の鳥越長者であったり、用瀬町の安蔵長者であったり、様々です。神話時代の八上姫は亡くなられてからもさらにこの世に何度も輪廻転生されているのではないでしょうか。
ところで話がいったん飛びますが、皆さん、ヤマトタケルノミコトと、スサノオノミコトの共通点についてはご存知でしょうか。ヤマトタケルはスサノオがヤマタノオロチを切り殺してその尻尾から出てきた草薙の剣を持って、国々の平定に向かいます。 スサノオはヤマタノオロチをおびき寄せるとき、女装します。 ヤマトタケルもクマソタケルの館に入り込むときに女装します。スサノオはヤマタノオロチを切り殺します。 今度は逆にヤマトタケルは、伊吹山の大蛇によって、能褒野で志半ばで命を落とします。足が三重におれたので三重という名前が付きました。そこから、白鳥に姿を変えて、羽を落としたところにも御陵が後の世に造られ、現在の羽曳野市の白鳥陵の場所で昇天されたそうです。お二方とも大蛇がらみです。
実は、信じるかどうかは別としてホツマ、という書物の中に、ヤマトタケルはスサノオの生まれ変わりであることが記されているのです。
このような例がある、ということを前提とするのであれば、八上姫もいろいろな場所に生まれ変わりをされたことでしょうし、この因幡にも八上でも何度か輪廻転生されたのではないでしょうか。それが、いく種類もの八上姫伝承が残っている根本的な理由ではないかと思います。
ネットからの紹介
千賊山のおに
http://www.infosakyu.ne.jp/motigase-s/densetsu/senzoku1.htm
>むかしむかし、千賊の岩やに『三面鬼』というわるいおにがすんでいました。くにじゅうをあらしまわり、人びとは、とてもこまっていました。
同じころ、曳田(河原町)の村のちょうじゃに、とてもうつくしいむすめがいました。
その名を八上姫。
八上姫のうつくしさは、だれもがみとめ、ちょうじゃふうふにとてもかわいがられ、しあわせな日をすごしていました。三面鬼は、ある日、ふと八上姫のうつくしいすがたを見て、
「おお、なんと、うつくしいおひめさんだろう。」
と思いました。それからまい日、八上姫にあいたくてたまらなくなりました。
そしてついにわかくてうつくしい男にへんしんして、まいばん八上姫のところに行くようになりました。
それからというもの、まいばんうつくしい八上姫とその男は、よがあけるころまで楽しくお話していました。ふしぎなことに、その男はよがあけるころになると、八上姫が
「もうすこしいてくださいな。」
と、どんなにとめても
「いやいや、しっけいするよ。」
と言ってあわてて帰っていきました。
そして、八上姫がどんなにその男の名前を聞いても、その男は、ただわらっているだけでこたえてはくれませんでした。
村の人たちもだれもその男の帰って行く方こうさえ見たものはありませんでした。
八上姫は、
「あの男のかたはいったいどこのお人なのだろう。名前はなんというのでしょう。」
とだんだんしんぱいになってきました。
そんな八上姫のすがたを見てしんぱいになったうばが、つぎの日にその男がきて八上姫と楽しく話をしている間に、糸をつけたはりをその男のきものにさしておきました。
つぎの日のよがあけるころ、その男は、いつものように八上姫がとめるのをふりきるようにして帰っていきました。うばがつけた糸は、どんどんのびてその糸をたどって行くと、なんと、その糸は、美成の上の岩の間をとおりぬけ、千賊の岩やに入っているではありませんか。
この話を聞いた八上姫は、とてもかなしくなり、花を見てもなみだが出る、ほしを見てもかなしいというようなまい日でした。
そしてとうとうびょう気になりしんでしまいました。ちょうじゃさんたちは、とてもかなしみました。
それからというものは、三面鬼は、ますますあれくるい村の人たちをくるしめつづけたそうです。<
この話はここで終わります。 ハッピーエンドでないのが悲しいですね。
もう一つは用瀬町の福安和子さんの創作神話です。
http://www.infosakyu.ne.jp/motigase-s/densetsu/fukuyasu/fukuyasu1.htm
>むかーし むかし
用瀬の洗足山(せんぞくざん)の頂上近くの「洗足の岩屋(いわや)」という洞くつに鬼が住んでいました。この鬼は、時々里に出てきて悪さをするので,ふもとの人達は
怯えながら暮らしていました。
またこの鬼は、毎日のように三角山をヒョイヒョイと越えて東の麓(ふもと)の赤波川へ下りて行っては和多里世箭子の水(わたりさこのみず)“延命水(えんめいすい)”を飲み鬼の井戸場で洗濯をし、鬼の風呂釜で体をきれいに洗ったりしました。
その頃、河原町曳田(ひけた)の鳥越(とりごえ)長者(ちょうじゃ)の家にうつくしい娘八上姫がいました。
その八上姫に目をつけた鬼は、赤波川の渓谷(けいこく)で体をきれいにしたり延命水を飲んで力をつけた後、見るも凛々(りり)しい若者に化け夜な夜な八上姫のもとに通いました。
しかし、名前も住まいもあかさぬ若者の様子を娘から聞いて、おかしいと気づいた鳥越長者はその若者の着物にそっと糸をくくり付けるよう娘に言い聞かせました。
やがて若者は、夜が明けぬ間に帰らねばと慌 (あわ)てるようにして帰っていきました。 糸はぐんぐん延びていきやがてピタリ!と止まりました。
まだまだたどっていくと、そこは洗足山の岩屋の洞くつでした。
大きないびきをかいて寝ている鬼の姿を見た使いの者は、腰を抜かさんばかりに驚きました。
なんとか、この鬼を退治せねばならぬと思った長者は、ちょうどその頃、因幡の国の国司(こくし)をしていた、在原(ありはらの)行平(ゆきひら)朝臣(あそん)に鬼退治を頼むことにしました。
鬼退治をすることになった朝臣は、洗足山に近い用瀬町宮原の葦男(あしお)大明神(だいみょうじん)(現在の犬山神社)に宿を取り、金屋の薬師が谷の“薬師(やくし)如来(にょらい)”と洗足谷の“不動(ふどう)明王(みょうおう)”に“願(がん)”を掛けました。
そして千体の薬師如来の像を刻みそれを川に流して鬼(おに)征伐(せいばつ)の祈願をしました。
この時以来この川を千体の仏像を流したことにちなんで「千体川(せんたいかわ)」 「千代川(せんだいかわ)」と言われるようになったということです。
そして、願掛(がんかけ)のおかげもあって、みごと鬼を退治した朝臣(あそん)は鬼の死骸(しがい)を焼きました。
するとその鬼の死骸の灰は 天高く舞い上がり村中(むらじゅう)四方(しほう)八方(はっぽう)飛び散りました。
やがてその灰は、人の肌を刺すブヨ(ブトォ)になって今でも住民の肌にしつこく食いついて恨みを晴らすかのように吸い続けています。
実らなかった恋や厄(やく)は、流しびなに託して前の千代川に流しました。
“洗足山の鬼と八上姫の物語り”は、今はみんなの恋や愛が実り、結ばれることを願って対岸(たいがん)の流しびなの館の前庭の “流しびな神社”に手厚く祭られています。
いにしえの悲恋物語りが、時空(じくう)を越えて今(いま)蘇り(よみがえ)、みなさんの幸せを祈りながらそっと見守ってくれているはずです。<
ここに登場する在原行平とは、伊勢物語の作者とされる平安時代の伊勢物語の作者といわれる土師氏系の在原業平の兄にあたる人で、実際に因幡に国司としてこられた方です。在原行平は源氏物語の光源氏のモデルの一人とも言われています。因幡をうたった有名な和歌もありますね。
たち別れ いなばの山の 峰に生ふる
まつとし聞かば 今帰り来む
中納言行平(16番) 『古今集』
あなたとお別れして、因幡の国へ行きますが、その地にあるいなばの山の峰に生える松のようにあなたが待っていると聞いたなら、今すぐにでも帰って来ましょう。
そして、河原町神馬というところは在原行平の子孫が移り住んだとされるところで、現在、曳田にある正法寺は行平の孫、在原清兵衛が創建した、と言われています。
研究報告
御井神について
さて、ここで、八上姫とその御子神である御井神について、私なりの仮説をお伝えします。
まず、八上姫のご生誕地についてです。私は、因幡・八上を代表する八上姫ですから、その後も八上姫が出生されたところ、というのは、大切に守られてきたのではないかと思います。そして、そこには産湯につかれるように、井戸があり、その井戸は、由緒あるものとして大切に残されていったものと思います。すると、私は霊石山の、昔の最勝寺があった場所に残る井戸のあたりではないかと思うのです。供御(くご)の井戸と呼ばれている井戸は今もなお、少し白く濁った水がわき出ています。
ここは、おそらく天照大神ご一行が霊石山、伊勢が平に行宮された時に作られた井戸ではないかと思われます。
水がなくては生活できませんから。八上姫はここでご誕生されて、胞衣は八頭町宮谷、郡家図書館の隣に胞衣塚の碑が残っていますが、そこへ埋設したのではないでしょうか。
さて、大己貴命とご結婚された八上姫は、最初、河原の多加牟久神社のあたりで生活をされたのだと思います。やがて、拠点を用瀬の現在の犬山神社のあるところへ移されたのでしょう。そこで八上姫は身ごもり、長男御井神をご出産されます。
その場所が、どこなのか、犬山神社に伝わる伝承によれば、河原町高福の黒木神社のあたりであったそうです。
伝承の通り、そこだったかもしれません。あるいは、霊石山の供御の井戸のわきだったかもしれません。供御とは天皇・皇室に献上する食事のことです。天皇クラスの方にご提供する井戸の水、ということですから格式の高い井戸です。このようなお名前が付けられた井戸ですから、もっと顕彰していかなくてはなりません。名前の由来から、最勝寺の創建以降にこの名前の由来にちなむことがあった、と考えることはできず、最勝寺創建前の応神天皇のころ、いやもっと以前の天照大神の行宮された時代までさかのぼってその名前の由来をとらえるべきではないでしょうか。
ところで御井神がご誕生される前後から、大己貴命と八上姫はまた転居されたのではないかと思うのです。その場所はどこかといえば、国府町の酒賀神社付近です。隣の大石という集落には御井神を祀る大きな岩をご神体とする大石神社がありますし、集落の入り口付近には胞衣荒神が鎮座しています。この胞衣とは御井神がご誕生された時の胞衣ではないでしょうか。それと、古代寺院があったところというのは、神社の聖地、日本の神々の聖地であったところに建立されることもあり、栃本廃寺は、夏至の日の出と冬至の日の入りラインを結ぶと、八頭町宮谷の胞衣塚、福本の白兎神社、池田の白兎神社、そして土師百井の廃寺跡、米岡神社、清流茶屋かわはら!、売沼神社、多加牟久神社と、一直線上に並びますから、この栃本廃寺も元は、大己貴命と八上姫の宮殿があった場所ではないかと思うのです。
御井神の奥都城(おくつき)=墓所は、岐阜県各務原市三井山の磐座(八上の真東)、または国府町大石の大石神社磐座ではないかと思います。
ご成長されて岩美、但馬・丹波・越前(福井)、大和、美濃方面(三井財閥発祥地)までご活躍されたのではないでしょうか。水利、井戸の掘削・開発をされた神です。
そして、八上姫と大己貴命の間にはもう一人の御子神がいました。因幡でご誕生された御井神の妹神です。そのお名前はアダカヤヌシタキギヒメです。 アダカヤヌシタキギヒメの生誕地が島根県斐川町直江御井神社(三井神社)と考えられます。 伝承地はほかに 米子市の阿陀萱神社で、ここには木俣神の名前の由来の伝承が残ります。
出雲郷 と書いてアダカエと読みます。そこに阿陀加夜奴志多岐喜比賣命あだかやぬしたきぎひめのみこと)を祀る阿太加夜神社が鎮座しています。
ご成長後は、出雲全土の統治をされたと思います。 御井神はのちに宮中で祀られる神となります。 生井(いくい)= 安産と子育ての水神。福井(さくい)=母子の幸せを司る水神。綱長井(つながい) 母子の寿命を司る水神として、です。
アダカヤヌシタギキヒメのお墓=奥都城はもしかすると島根県出雲市多伎町多岐字笠無639の多伎神社の可能性があります。
ここはご生誕された直江の御井神社より冬至の日の出ライン延長上にあるからです。
洗足山と千代川
犬山神社
勝手な想像はここらへんにしておいて、さあ、そろそろ、犬山神社へ到着です。
こちらは、先ほどの案内でもご紹介しましたが、大己貴命と、八上姫の多加牟久神社に次ぐ、2番目の宮殿ではないかと思います。
神社の主祭神は国常立命、大山祇神、保食神、倉稲魂、葦男大明神、八上姫です。
ここは、珍しくも大己貴命がアシハラノシコヲノミコト、という祭神名で祀られています。
宮司様からお話をお聞きしたことがあります。以下は犬山神社の宮司様のお話です。
「八上姫は安蔵長者の娘として生まれ、この犬山神社に大己貴命としばらくお住まいになったそうです。その後、出雲へ向かうときにやはり正妻を怖れて、売沼神社のある河原町曳田で八上姫と別れ、二神の間にすでに宿っていた御子神、御井の神を河原町高福の黒木神社の地でお産みになり、朽ちた桜の木にできた穴においておかれたそうです。それを見た地元の民が、これは恐れ多いこととして、御子神を大切に育てられたということです。」
にわかに信じがたいお話です。 智頭郡であるのに、八上姫と呼ばれていることは、その昔、智頭郡が八上の一部であったことを示すのでしょうか。
八上姫は大己貴命とともに、出雲へ向かわれて、そこで、御井の神を三井神社でお産みになって、御井の神を木の俣においたまま、一人、ふるさとへお帰りになった、という出雲の地元の伝承と矛盾してきます。
また、八上姫はこの八頭郡から一歩も出ておられないようで、御井の神をお産みになって、どういう理由でかわかりませんが、その後お育てしていないこと、などが疑問点として残ります。
(ここで一言、「古事記」では八上姫を貶める目的で記したと思われる木俣(きのまた・このまた)については、出雲地方ではまったく字義とは異なる意味があり、八上姫が決して冷酷に自分の御子神を置いていったのではないことをお断りしておきます。)
流し雛の館
次は、お食事です。今大人気の用瀬流し雛の館のレストランでの食事です。
さて、ここからは用瀬の郷土史に大変お詳しい徳永先生にバトンタッチして、現地のご案内をしていただきたいと思います。
さあ、次は八上姫伝承で必ず登場する安蔵長者の名前の由来の場所、安蔵へ参ります。
次は八上姫が戦いを挑んだ鬼たちの住む、洗足山です。今回は、山へ登ることはできません
というわけで、このあとは、地元郷土歴史研究家の徳永先生に現地案内をしていただいたので、筆者の出番はここまででした。
本日はミステリーウォークバスツアーへご参加いただきまして、誠にありがとうございました。皆様お気をつけてお帰りください。