瀬織津姫と六甲山・聖徳太子の神仏習合
平成25年11月24日
大江 幸久
六甲山の瀬織津姫の御陵の特定と、日本仏教の祖、聖徳太子とホツマの教えの共通性を見出すこと、これはホツマが真書であることの傍証以上のものです。全国各地に伝わる神話伝承・寺社の由緒などをきめ細かく調べていくと、ホツマが本物であることを立証する事実がさらに多く出てくるものと思われます。 今年8月に亡くなられた考古学者の森浩一さんは、「地域学は地域を勇気づける学問だ」といわれましたが、ホツマに基づく全国の関連遺跡や伝承を見出すことにはそれ以上の価値があります。
◎瀬織津姫と六甲山
全世界にホツマを紹介されている高畠精二氏のサイト「ホツマツタエ」より
http://www.hotsuma.gr.jp/
>天照大神は自ら日の輪(太陽)にお帰りになる(崩御される)ことを決心され、諸臣・諸民を集めて、后の瀬織津姫に遺し法(のこしのり)をされました。「私の亡き後、ヒロタ(現・廣田神社)に行ってワカ姫のご神霊とともに余生を過ごし、女意心(イゴコロ)を守り全うしなさい。私も豊受大神神上がりのこの地(丹後久次)のマナイ(比沼麻奈為神社)でサルタヒコに穴を掘らせて罷(まか)ろうと思う。我は豊受大神と男(オセ)の道を守らん。これ伊勢(イモオセ=いせ)の道なり」とのたまい、洞(ほら)を閉じさせました。<
天照大神のお后である瀬織津姫が天照大神のお命じによって晩年にお過ごしされたのは摂津の国のヒロタ、現在の兵庫県西宮市廣田神社・六甲山の周辺です。ホツマの記述の通りならば、ここでの御現身(おうつしみ)の瀬織津姫は神上がられたことになります。したがって瀬織津姫の御陵のある場所は六甲山(ムコヤマ)旧名向津峰(ムカツミネ)と思われます。
ホツマに登場する瀬織津姫の別名は天照日に向う姫=ムカツ姫 です。
・廣田神社の主祭神は天照大神荒御魂、またの御名は撞賢木厳之魂天疎向津媛
ツキサカキイズノミタマアマサガルムカツヒメ です。
六甲の名前を冠した六甲山(むこやま)神社祭神(石の宝殿)と六甲比命大善神社=六甲比女(むこひめ)神社祭神が、廣田神社と同一の祭神であることが長らく不明となっていました。
現在、石の宝殿=六甲山神社は廣田神社の摂社となっていますが、越木岩神社境内の貴船神社の磐座は古くから石の宝殿を奥宮とする里宮として鎮座しています。同じく霊岩、甑岩の前にある摂社の六甲山神社、そして西宮神社の境内摂社の六甲山神社は石の宝殿の里宮として、後世に創建されたものです。
この六甲比命神社と六甲山神社の2つの神社名は廣田神社主祭神、撞賢木厳之魂天疎向津媛と深く関連しています。
◇六甲山神社(石の宝殿) 西宮市山口町
正式名称は六甲山(むこやま・むこうやま)神社で六甲山大権現を祀っています。中世より白山修験者が白山姫神=菊理姫を併せ祀っています。江戸時代に描かれた広西両宮図絵にも廣田・西宮の摂社、西宮鎮守として石の宝殿の名前が見えます。石の宝殿の社殿の形をした石祠の奥には、六甲山大権現と並んで、八代龍王大神と龍王姫全神が祀られています。
八大竜王は、おそらく八岐大蛇となったハヤコさんを弔い、祀る意図がありますが、八大竜王を祀り始めたのは聖徳太子です。滋賀県竜王町鏡山、聖徳太子創建の雲冠寺の守護神として竜王宮に八大竜王が祀られています。その後、聖徳太子の御遺志を継いだ役行者が奈良県天川村の龍泉寺で八大龍王を祀り、さらに全国へ広めました。
◇六甲比命神社
六甲比命大善神=弁財天を祀る巨大な磐座が御神体の神社です。ここが、瀬織津姫の奥都城=御陵と考えられます。
付近の心経(しんぎょう)岩・雲が岩とともに、その場所から夏至の日の入り方向にある神戸市北区唐櫃の多聞寺の奥ノ院です。心経岩は、御陵に鎮まる瀬織津姫のご神霊を仏教的に弔う意図で、般若心経が刻まれているものと思われます。
向か津峰(むかつみね)が六甲山の旧名だったのですから、現在は六甲比女・六甲比命と表記されてロッコウヒメと呼ばれているものの、かつては向か津比女と記され、ムカツヒメと呼ばれていたに違いありません。山名の変遷とともに祭神名もその山名と同じ名前で変わるというのは、この磐座が六甲山を象徴する重要な聖地であることを物語っています。
◎神仏習合を前提とした仏教国教化
仲哀天皇が崩御し、70年間の天皇不在の大空位時代を経た応神天皇の時代より、渡来勢力が日本の政権に深く影響を及ぼしていくのと同時に、日本の神々を祀る全国の神社で、本来の祭神が変更され、別の祭神へとすり替えられていく事態が起こるようになったと考えられます。
いつの時代かは特定できませんが、全国の瀬織津姫を祀るほとんどの神社において、瀬織津姫の名前は変更されたり、祭神から外されたりした模様です。
神社が、神々の御関係が勝手に改変され、もはやそのもとの姿をとどめることが困難、と判断された一大危機の時代に、神仏習合を前提とした聖徳太子が仏教国教化の基本的な方向性を定め、その偉業を引き継いだ役行者と空海をはじめとする高僧たちが、日本の祭神を仏教的に守る方法を積極的に推進していったものと思われます。
聖徳太子は皇統の流れを引くとともに、母方は渡来系、秦氏=蘇我氏系であるがゆえに、太子の提唱した仏教国教化の方針は、すみやかに採用されました。
本来、神道の側からすれば、皇室の皇子による突然の仏教国教化の提唱とは、寝耳に水の暴挙、とみなすのがごく自然なことです。しかし皇室からもほかの諸氏族からも物部氏を除けば、聖徳太子の仏教国教化に対して拒絶的な姿勢を取る人は皆無でした。
このことから、すでにこの時代までに日本の神道・神社が、その内容を相当改変されていたがゆえに、仏教との習合によって、日本の神々への信仰を国家として保障していく方向へ進むことに、皇室の誰一人として異論を唱えなかったのではないか、ということが言えるかもしれません。
蘇我氏と物部氏の間で、崇仏派と廃仏派=神道派の争いがあったとされますが、物部氏の標榜する神道は、天皇家が容認できるような内実をとどめていなかったのではないでしょうか。物部氏の本拠地とする大阪の渋川に、古代寺院渋川廃寺跡が発掘されていることから、物部氏も仏教寺院を持っていた可能性もあり、単純に崇仏派と廃仏派の戦いとはとらえられない面があります。
◎仏教導入のもう一つの積極的意義
西国三十三か所の創始者である徳道上人は、播磨の聖徳太子開基の斑鳩寺(はんきゅうじ)のすぐ近くにご生誕された方です。この方が閻魔大王より「いまの世は罪を重ねて地獄に堕ちる者が多く、なんとか救済したいが、三十三観音のお力によるのがよいので、三十三ヶ所の霊場を作るように」指示を受けました。このことに示されるように、多くの衆生が神上がりできず、行き来の道を見失っていた状況下で、仏教による供養、改心という特別の手段をとっていく方法も必要となっていた、という事情もあるのではないでしょうか。
◇国祖・伊勢祭神の思想を継承する聖徳太子
聖徳太子が誕生された奈良県明日香村の橘寺の場所は、現在の伊勢神宮が創建された垂仁天皇の御代に、国常立命がおつくりになった理想の国、常世国(とこよくに=東北地方と推定される)へ出かけたタジマモリが、常世国を象徴するカグノミ=橘を持ち帰って(その種を)植えた場所です。橘寺の真南には、国常立命を祀る十津川村の玉置神社が位置し、真東には伊勢内宮・外宮の両宮が位置しています。神道上の深い意味を持つこの場所とその位置関係から、聖徳太子がここに誕生された重要な意味がうかがえます。聖徳太子が日本神道と断絶して渡来の仏教のみを信仰していた、と考えるのは完全な誤りです。
聖徳太子のお考えは、『記紀』ではあまりよくわかりませんが、ホツマに描かれている天照大神の根本思想と同じであり、和(やわ)すこと、尽くすことの重要性を強調しています。
聖徳太子は、仏教を国教化する一方で、「敬神の詔」を発しており、明確に日本古来の神々をも大切にするお考えをお持ちでした。全85条の条文からなる聖徳太子の十七条五憲法に、「三法とは神・儒・仏」とあるように、聖徳太子は神道を基礎において、仏教と儒教を受容する姿勢です。あくまで神道を根本思想として、それに儒教、仏教の教えを導入することによって、神道の教えがなおいっそう豊かになるもの、ととらえていたのです。
橘寺で祀られる本尊は如意輪観音(=救世観音)です。聖徳太子は生涯、念持仏として如意輪観音を大切にされています。如意輪観音をはじめとする様々な観音は、瀬織津姫を象徴しているように思われます。
聖徳太子が進めた神仏習合の本当の理由は、すでに改変されてしまった伊勢祭神、就中その存在が消されようとしていた瀬織津姫を守るためであったといえるでしょう。
聖徳太子が創建した四天王寺は、大陸を意識した西側の方向に鳥居のある寺院で、神仏習合のスタイルを色濃く体現しています。境内の東大門には伊勢神宮遥拝石が、南大門には熊野権現遥拝石まであります。寺院境内に伊勢(熊野)遥拝所があるのは、この四天王寺以外に思い当りません。
また、かつての政敵であった物部守屋を祀る神社も境内にあり、現在も物部氏の末裔の方がそこを守っておられる、というところに、日本神道の根本思想が脈々と息づいていることを確認できます。敵を滅ぼすのではなく、敵をも味方にする大胆さとおおらかさがあります。どれほど長い年月を要しても悪の役割をしたものを改心して、悪から善へと導いていかれる姿勢は、イエス・キリストの「汝の敵を愛せ(赦せ)よ」と共通するものですが、ホツマに描かれる天照大神・瀬織津姫、そして聖徳太子の御業績にもこの思想は貫かれています。
四天王寺で祀られる雄々しい武神である毘沙門天は、真言密教教義に基づけば大日如来の化身であるとされます。同じく弁財天と同一の存在とされる吉祥天女も大日如来の化身とされますから、大日如来と不離一体の不動明王と同じ位置づけとなります。しかも毘沙門天と吉祥天女はご夫婦で、その御子が善膩師童子という家族構成です。すでに改変されてしまい、後の『記紀』でも歪められることとなる伊勢祭神の御関係、天照大神と后神瀬織津姫、その御子神の天忍穂耳命を、聖徳太子はそれぞれ毘沙門天、吉祥天(弁財天)、善膩師童子という仏教的なお姿で祀りなおしたのではないかと推測します。毘沙門天が男神天照大神とするならば、吉祥天はお后の瀬織津姫、そして善膩師童子が御子である天忍穂耳命、となります。
◎四天王寺式伽藍・創建当初の法隆寺若草伽藍と神・儒・仏
四天王寺式伽藍は、神道と関わる五重塔(九輪とは天御祖神とトホカミヱヒタメの八神の光が天と地を繋いでいることを象徴したものと考えられます。)神道・仏教と関わる金堂(神が仏教本尊の姿ともなって衆生を救う)、神道・仏教・儒教と関わる講堂(人々に神・仏・儒の教えを説く)の三つからなっていると、私は考えますが、縦に長細い形になっています。元は、この伽藍の東側または北側に神社も併設されていたのではないでしょうか。
法隆寺とは、合計85条からなる通蒙(一般庶民)・神職・僧侶、儒者、政治家にあてた五種類の十七条憲法に記される、「神・儒・仏の三法」を興隆させるための拠点であったはずです。聖徳太子創建時の法隆寺若草伽藍には、正方形の敷地に四天王寺式伽藍と同じ長方形の寺院跡が西側にあり、東側、北側の敷地に神社と神道・仏教・儒教のための講堂があったと考えうるのです。
法隆寺の再建(おそらく放火も)に関わった藤原鎌足が、創建時の元の伽藍配置を崩して、仏教寺院のみに変更して現在の法隆寺式伽藍にして、元あった神社を除去したのではないでしょうか。それが近くの廣瀬・龍田大社に合祀されたかもしれません。
梅原猛氏が考察しているように、法隆寺には何か不自然さを感じさせるものがいくつかあります。神と人を分断するかのように天と地を結ぶ五重塔の九輪にかけられている鎌、ぐるぐる巻きに封印されていた夢殿の救世観音、あまりにいびつな救世観音のお顔、救世観音像の頭と胸に、法隆寺金堂の毘沙門天と同様、光背が無造作に釘で打ち込まれていること、これらは神仏を本当に信仰している者には絶対にできるはずのない冒涜行為です。
愛知県岡崎市に真福寺という、物部守屋の御子である真福(まさち)と聖徳太子が協力して創建したお寺があります。本尊を本堂の下から湧き出る水、水体薬師とするこの寺院境内の東隣には横並びで神社があります。参道も共に並んでいるのです。この地方の寺院に、聖徳太子の三法思想に基づいた伽藍配置が残っているといえるのではないでしょうか。