・ 秩父の山村 A
〜 皆野町・日野沢谷の村々 〜
現在では
秩父郡皆野町に編入されているが、ここ日野沢川沿いの一帯はかつて
日野沢村といい、近代史上有名な
「秩父事件」の首謀者を数多く輩出している土地として知られている。
「秩父事件」とは、詳しく語れるだけの学識はないが、明治の初頭、松方デフレ政策と生糸価格の暴落により借金の膨大と生活困窮に苦しむ秩父の困民達の起こした、一種の
「自由民権運動」であり、封建時代の農民一揆とは少し性格が違う。
ごく最近までは、地元でも話題にすることをタブー視されてきた秩父事件だが、近年では郷土の誇りとして語り継がれるようになってきた。
今回はそんな日野沢川沿いの村々から
藤原耕地と
重木耕地を紹介する。
@ 藤原耕地
@
日野沢街道からの急坂を約2Kmほど登りきると、山の斜面にへばりつくような
藤原の集落が現れる。
一瞬、昭和のはじめにタイムスリップしたかのような錯覚にとらわれてしまう部落である。
A ここかしこに古い土蔵や蔵を持つ家がある。
下段の写真はJFC写友のFujippe氏によると、
「繭蔵」なのだそうだ。
秩父地方の山村集落は、昭和20年代のはじめ頃までは養蚕業や林産業の隆盛により、いわゆる
「山大尽」だった家が多かった。
しかしその後の国内林業や繊維産業の凋落により、若者は村を出、年寄りだけが取り残されるという日本の農山村共通の現象はここも例外ではない。
B 高台にある手回し式の
サイレン。
水の便の悪い山上の部落にとって、火事は最も恐ろしい災害だ。
C サイレンの下に見える白い屋根の大きな家。
この部落の象徴のような家に見えるが、お年寄りしか住んでいないように見えた。
D
区長さんのお宅にお邪魔してみる。
ちなみにここは「藤原」集落というが、区長さんご自身も「藤原」さんという。
「平安藤原氏の末裔ですか?」と聞いてみたが、「そんなことは全然わからないよ。」との答えだった。(笑)
E この日は自ら軽トラックの車庫作りに励んでおられた。
丸太を組み、鉄骨とモルタルで器用に車庫を作っていく。
うかがわなかったが、長年、建築現場で働いていたのではないか。
そんなことを感じさせる腕前だった。
F 最近の
木材の相場について教えてもらう。
上の細い木が1,000円、下の太い木でも2,000円にしかならないという。
「タバコ銭にしかならない。」そうだ。
G とてもレトロな
蛇口。
日野沢沿いの山村はどこも水道の水は引けておらず、山の湧き水を使用しているという。
H 区長さん宅の蔵。
壁の文字は藤原の「藤」の字を意匠したもの。
「もう、何も入ってないよ。」とのことだった。
I 集落の中程に
「報恩碑」なるものが建っている。
実はこの「山本なにがし」なる翁は昔の高利貸しで、困窮した部落民を救った功績として、債権者たちに無理やりこの碑を建てさせたのだという話だ。
上に見える建物は
「藤原安産堂」という。
J この集落では石垣を組んだ、縦に長い建物が目についた。
実は此れ、いわゆる
「外トイレ」」である。
トイレとはいえ、実に見事な石垣だ。
K これも縦に長い家。
2階は
蚕室だろうか。残念ながら無住だった。
L 農婦が僅かばかりの土地を耕していた。
ここ藤原集落も、昔は子供たちの歓声がこだまして、賑やかだったそうである。
現在集落に子供はおらず、昔、区長さんがケンカした仲間達も、もう
「誰もいない。」のだという。
こののどかな山村が再び活況を呈することはあるのだろうか?
そんなことを考えながら村を後にした。
A 重木耕地
藤原集落と尾根一つ隔てた、西側にある集落が
重木耕地である。
ここは
村上泰治、中庭蘭渓といった秩父事件勃発の
思想的影響力を担った人材の輩出した土地でもある。
しかし、現在ではそんなことは忘れられたかのように、過疎の村が存在するだけだ。
@ 重木地区入り口にある、
秩父自由民権運動発祥の地の石碑。
A 重木地区の全景。
現在この集落の人口は、7世帯12人とも、
5世帯7人とも聞いている。
7世帯12人というのはお盆とか年末年始の人口で、普段は5世帯7人しか住んでいないのかもしれない。
B 写真最下段は
村上泰司の生家である。
現在の当主はすでに山を下り、空き家同然になっている。
この部落にはこの家を含め、極めて空き家や
廃屋が多い。
明治の昔、思想家
中庭蘭渓の導く「神道禊教」の信奉者だった、村上家の祖先が、当時居住していた寺の住職一家を村から追放してしまったらしい。
その時、涙ながらに住職の妻が「この村は絶対に栄えさせない。村が滅びる末代まで恨み続ける。」といって去ったという。
廃屋を目の前にすると、そんな恨みが現実になってしまったかのような感慨を覚える。
C 部落の広場で一人マキを割る老人がいた。
お話を伺うと重木区の
区長さんとのことである。(注・取材時)
お名前が「中庭」という事を聞いて驚いた。
秩父自由党の第一号入党者で、秩父自由民権運動や秩父事件に多大な思想的影響を与えた「中庭蘭渓」のご子孫だったのである。
(前出の村上泰治は、この蘭渓の直系の弟子にあたる。)
D 重木地区にも一昨年、ようやく
大型車が入れる道路が完成した。写真
それまでは写真にあるような、軽自動車がやっと一台通れるような道路しか通っていなかったのである。
住民は麓に自家用車を置いての往復を余儀なくされていたが、これで
消防車や救急車も入ってこられるようになり、万が一の時の心配もなくなった。
中庭区長を始めとする永年に亘る
陳情の成果で、関係者の感慨もひとしおであろう。
しかし区長さん曰く
「道ができたときには、人はいなくなってしまった。」とは誠に皮肉な結果である。

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