先週末はムラのお葬式のお手伝いでした。
お別れをしたのはボクとほぼ同じ16年前に神戸から山都町に移住し、しかも同じ早稲谷に住んでいた方でした。まだ52歳。内臓の先天的な疾患が原因だったと聞いています。
彼は当初からボクとは対照的でした。怪しい男一人での移住ではなく、奥さんと生まれたばかりの男の子と一緒でした。廃屋のような家をタダ同然で借りるのではなく、ガッシリとした立派な古民家を購入しました。当然過疎に悩む村では大歓迎をされました。さらに移住後まもなく2人目に女の子も生まれ、家族という形で地域に溶け込んでいったのです。
目指した農業もユニークでした。半年間のチャルジョウ農場での研修後、稲作はもちろんのこと、早稲谷の一番標高の高い湿気た田んぼにレンコンを植えました。早稲谷の一番下の田んぼにはブルーベリーを植え、村の真ん中にあった古い小屋を貰い受け、菌床シイタケの栽培も始めました。
ただ先天的な疾患のため、間もなく体調不良に襲われます。以降、営農規模も縮小し、マイペースで野良仕事に励んでいました。
持病のことはボクも聞いていましたし、ここ数年は特に顔色もよくなく、体調が優れないことは傍から見ても判りました。しかし、いつも飄々としていて、つらそうなことはおくびにも出しませんでした。まさかこんなに急に亡くなられるとは想像もしていなかったのです。
同じ集落でしたから、村のお祭りや共同作業はもちろん、消防団にも一緒に所属していました。亡くなられるほんのひと月足らず前、11月11日に防火チラシを各戸に配って回った時、今年の消防団の忘年会の日程を12月中旬と知らせると「行けるかなあ」と小さくつぶやいたのが心に残ります。あの時は受験間近の下のお子さんの用事でも入っているのかなと勝手に解釈していたのですが、思わぬ形になってしまいました。
彼の葬儀はしめやかに行われました。実は私も山都の人も、いわゆるIターンといわれる人の告別式は初めてです。しかし葬儀はムラの協力の下、地域のしきたりに従った形で粛々と行われました。その様が、彼が地域にいかに溶け込んでいたかの証であり、同時に何の血縁もない人を共同体に受け入れた早稲谷という集落の懐の深さを示すような気がしたのです。それがボクには悲しさの中に垣間見た光でした。きっと残されたご遺族もホッとしたことでしょう。
本当は告別式でゆっくりとお別れの時をすごしたいと思っていました。しかしお手伝いが足りないということで帳場を担当することとなり、葬儀の最後の方で、慌ただしくお焼香を上げるのがやっとでした。
斎場の入り口に飾られていた、購入したばかりの家の前でご夫婦と幼子の3人で幸せそうに並んでいる当時の写真を見た瞬間、胸がギュッと締め付けられました。その姿は16年前という若々しさだけではなく、新たな暮らしに向けて希望に満ち溢れていました。と同時にボクがムラで過ごした月日と勝手に重ね合わせてしまい、まだやりたかったことがたくさんあったはずなのにと、彼の無念を思いました。
体調が優れない中で、なお山村で生き続けようとした彼の思いを全て知ることはできませんが、山都が早稲谷が大好きだったことには違いありません。
岸田晃治さんのご冥福をお祈り申し上げます。
豊かな自然に育まれたお米・野菜たちってホントに美味しい!
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