あまり沖縄の基地問題について詳しいわけではないのですが、最近の国の暴挙が目に余ると感じての一言。
辺野古での基地建設に関して、翁長知事と菅官房長官の対談が話題に挙がっています。
辺野古の基地建設反対を公約掲げた翁長さんが知事選で勝利した以上、沖縄県民の民意は国の進める辺野古への移設計画を拒絶しました。
もちろん国は、国際情勢などを見ながら、沖縄県だけでなく国民全体の利益を考える必要がありますから、「はいそうですか」と認めるわけにはいきません。
それにしたって、安倍内閣の沖縄への対応は極めてひどいものと個人的に感じていました。
先の対談で見えてきたのは、国は(というか安倍内閣は)、どうやら深い思慮の上で今の政策を推し進めているといるわけではなさそうだということ。
「粛々と」という言葉に「上から目線だ」と不快感を示した翁長知事に対して、その迫力にたじろぐだけでまともな反論もできない菅さんを見てそう思いました。
ただ、「上から目線はやめるべき、もっと沖縄県民に寄り添え!」と声高に主張するのは簡単なこと。(もちろん暴力に訴えず、声を挙げるのはとても重要なことです)
もっと根本的なレベルで、安倍内閣が間違った方向に進んでいるのではないかということを、この一件をもとに考えてみたいと思います。
そもそも国家とは何なのか。
人が生きていく上で国家という形が必要であるといえるからこそ、今の仕組みがあるはずです。
しかし日常で人が暮らしていくうえでは、関わりのあるのは国家よりももっと身近で小さなコミュニティです。
その最少単位は家族になります。そして関わりが増えていくにつれ、地域や自治会となり、共通の利益を目的とする集団(例えば会社など)、地方自治体に広がっていきます。
こうした社会を維持していくうえで必要なのがルール=秩序であり、集団が大きくなればなるほど重要度が高まります。
その最高法規が憲法であり、法律です。これらの秩序のもとに運営されるのが法治国家です。
集団は秩序を守るために、ルール違反をするものに罰を与えなければなりません。
ただし暴力は許されませんから、地域なら仲間はずれ・村八分にする、会社なら首にして辞めてもらうという手段を取ります。
唯一暴力、否「力」=刑罰の行使が許されるのは国家です。ゆえに警察や軍隊の保有が許されるのです。
だからこそ、その行使には明確な理由が必要であり、法に則って行わなければいけません。
国家が秩序を守るにあたり、「力」の他に二つの方法も重要です。
一つは「利益」の誘導。つまり国民に安定的な生活をしてもらうために様々な行政サービスやインフラ整備、経済の振興などの利益を供与し、満足してもらう。
もう一つは「価値」の共有。君主を称えたり、国歌・国旗を制定し敬うこと。スポーツによる一体感の醸成など。
こうして国を誇りに思い、国に対して帰属意識をもってもらうのです。
近代国家・民主国家というものは、こうした仕組みの下で、国家と国民が支配から対等な関係性へと移行した姿だとボクは思っています。
「力」だけではなく、「利益」「価値」を提供することで暮らしに満足してもらい、秩序を乱す要因を封じ込めていくことで国家としての形を造っていくのです。(参考文献『国家の役割とは何か』櫻井惇著)
さてこうした(理想的な?)国家の在り方を前提に、今回の沖縄の一件を検証してみましょう。
なお法律上では2000年に改正された新地方自治法により、国と地方の関係は「上下・主従」の関係から「対等・協力」の関係であるとされています。
(この時点ですでに安倍内閣は間違っていることが明らかですね)
先の沖縄県知事選挙では、普天間基地の代替地として辺野古に新たに基地建設反対を主張した翁長知事が、基地建設推進派の候補者を破り当選しました。
当然、翁長知事は国が進める辺野古沖の工事中止を要請します。
辺野古の基地建設拒否は、法に則って出された沖縄県民の総意です。
これに対して国は、国民の「利益」を守ることを(表向きには)理由に拒否をしています。
では問題の論点は国民の利益と、沖縄の不利益のどちらを優先すべきかということだけでしょうか。
国防という国民の利益を達成するために、沖縄が他地域に比べて過度に負担を負っていることは明らかです。
しかしこうした一方的で過度な負担は「価値」の共有を損ない不満を生み、国家にとって明らかにマイナスです。
国は今までは、それを補うために「利益」の供与を約束し、沖縄に相応の(それなりの)予算を配分してきました。
つまり国は秩序を守るために、「利益」を供与することで、「価値」の共有だけでは補えない沖縄県民の感情をコントロールしようとしたのです。
しかし沖縄は選挙という法治国家として極めて正しい意思表示の方法で、国の進める辺野古への移設を拒否したのです。
すなわち今まで国の沖縄県民に対する政策には不満がある、間違っていると伝えたわけです。
にもかかわらず、安倍内閣はそのことに耳を貸さず、得られるべき正当な「利益」でさえ、翁長知事当選後、露骨に予算削減という手段に出ました。
「利益」を享受する権利さえ奪ったのです。
さらに「力」でこの声をかき消そうとするのであれば、まさに力を行使してよい唯一の立場でありながら、正当な理由はありません。
もはや法治国家としての体をなしていない。
つまり一連の沖縄に対する国の行動を見る限り、安倍内閣は「価値」の共有も難しくし、「利益」の供与を拒み、「力」の行使の仕方も間違えている。
国民の利益云々の前に、近代国家としての役割を全く果たしていません。これはまさに統治=「上から目線」です。
国はもっと真摯な態度で沖縄県民の声に耳を傾けること以外、進展の手段はない。
さもなくば、これ以上沖縄は甘んじて日本の一部である必要があるのか。
沖縄は独立すべきでないか。
実は福島も同じことが言えます。
そもそも日本国という形は、中央集権という形の中で、地方が中央に資源を供給し、中央の補完的役割を強いられてくるという歴史が長くありました。
そのいびつな形が一気に吹き出て表面化したのが、この震災と原発事故、そしてその後の対応です。
福島も沖縄も、地方という立場から、国を支える役割を強いられていたことは変わりません。
福島県民は強制避難という「力」で奪い取られた幸せを取り戻すのに、「利益」だけを求めているのではありません。「価値」の共有も必要としていますが、絆という言葉はピントがずれていると思います。
だからこそもっと慎重に、もっと誠実にやってほしい声を挙げているのですが、「電力の安定供給」という利益(実はこれは名目であり、実際は原子力ムラの利権を守ることが一番の目的なのですが)を優先するあまりに、福島県民の声がかき消されてしまっています。
ただ沖縄と違うのは、その意思を選挙という形で県民が明確に伝えられていないこと。
つまり福島はまだ法治国家の下で、極めてまっとうな形での意志表示ができていません。
これは長い間戦ってきた沖縄と、にわかに表舞台に立たされた福島との差なのでしょうか。
逆に言えば、長い間苦しめられ続けた沖縄だからこそ、ここまで来れたのかもしれません。
福島にとって沖縄は光です。ぜひこれからもこの騒動の行方をしっかりと見て、福島も続いていきたいと思います。
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