報告:「戦争は人を総動員する−広島県・大竹と朝鮮人―」
報告者: 阪上史子さん(兵庫県在日外国人教育研究協議会会員・神戸南京をむすぶ会)
報告要旨:
昔、海兵団があったことで、知る人ぞ知る故郷大竹は、私の中ではいつ訪れても風光明美なのんびりした地方都市だ。牡蠣もおいしい。大竹音頭は「前の宮島衝立代わり、後の岩国裾模様」とちゃっかり有名地名を借用している。大竹はその間に位置する。実は最近では米軍岩国基地オスプレイ配備で隣町大竹も俄然、きな臭くなった。海岸をブラブラするのに緊張感を要するようになった気がする。大きな原爆被害があって「平和都市宣言」が意味を持っている町なのに。大竹岩国石油化学コンビナートが海岸線に沿ってズラリ。さらに、祝島上関原発予定地も近い。なかなかの所に立地しているが、70年前にさかのぼれば、大竹は立地条件のよさゆえにこの上なく深く戦争とかかわった町というfamily-historyならぬcity- historyが浮かび上がってくる。
戦争がなければ決して大竹に来ることのなかったはずの人々。当時は、どの地域でも人々の移動はありふれた出来事だっただろう(移住・移民・出征・動員・連行・避難・疎開)。大竹にはそのすべてがあった。しかも半端なく多い。そこには何と私の両親の姿も。町の歴史はすなわちfamily-historyでもあった。両親のことは「ええっ」程度の驚きだったが、それよりも子どもの私が町のことも親のことも何も知らなかったことにショックを覚えた。戦争体験が十分継承されなかった原因は自分たちにあると思う。2005年の大竹市の戦後60年メモリアルイベントのテーマは「戦後は大竹から始まった」。戦争の記憶を継承しようというものだった。市史(1961年)もがんばった内容だ。「大竹よ、やるじゃん」と言いたくなった。今、戦争体験の継承という現在的課題を3つの観点から考えたい。1.総動員の内わけ @海兵団と潜水学校 A引揚港 B大企業と大林組に仕事を求めて集まった人々 C朝鮮部落・朝鮮学校・帰国事業 D被爆による死者約1000人 E進駐軍の駐留・慰安所設置 F学童疎開受入れ・出征・戦死 G昭和天皇の大竹視察(1947年) 2.「戦後は大竹から始まった」の意味 3.きっかけ 2011年3・11の経験と神戸南京をむすぶ会の南京・海南島FWの見聞。
日 時:1月22日(木)19:00〜21:00
場 所:「・オリーブガーデン・」(大阪市東淀川区菅原5-3-10)06-6328-5969
交 通:阪急京都線「淡路駅」(地下鉄堺筋線乗り入れ)東出口下車、東へ徒歩5分
カエルの電飾看板が目印です。 ※道に迷われる前にお電話ください。
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http://www.mapion.co.jp/m/34.73629721_135.52297499_10/
参加費:500円/大学生以下無料 (どなたでもご参加いただけます)
主 催:コリアン・マイノリティ研究会
http://white.ap.teacup.com/korminor/
大阪市東淀川区菅原5-3-4 陰陽連絡線セッパラム文庫内 090-9882-1663

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