かつては大学駅伝の常勝チームと云われた某大学に在籍していた頃から、マラソンというスポーツに興味はない。だから、今回も東京マラソンの話題は、ほんの枕代わり。
何万人のランナーが参加したのか、コース距離が何キロだったのか、そして、何時開催が決まったのかも知らなかった。TVのニュースで「明日は東京マラソンの開催で都内に交通規制があります、云々」と言われて初めてそんなものをやるのかと知った。都内の該当地域に住む都民の方々には、ちゃんとしたアナウンスがあって、影響を受けるだろう地域住民・在勤の方々は、それなりの事前の対策を講じていたのだろう。日曜日の真昼時に何時間も通行止めや横断禁止になった道路は何処からどこまでだったのか、その間、該当地域住民がどんな影響を被ったのかは知らない。大きな混乱も無く終わったようだ。
ただ、浅草界隈の一区画がコースで周囲を取り巻かれ、レース開催中の数時間、外部から孤立してしまったという報道が気になった。万一、重篤な病気や事故で救援が必要な事態が発生したら、マラソンコースを分断して救急活動は行われたのだろうとは思うのだが、その場合の現場の混乱は想像に難くない。
実は、昨年からひそかに注目している、東京都のレースイベント計画がある。三宅島復興のための二輪レースだ。
その計画の全容がまだまだ明らかにならないので、判断の付けようもないのだが、発表された事実をみるかぎり、自分の中で期待と不安の間で気持ちの針が上下に激しく振動している。
今、分かっているだけの事々を根拠に賛否を問われたならどうするか、非常に迷う。しかし『迷う』ということは、どう弁明しようと結局反対する立場なのだ。何故か。
もし仮に、自分が自由に選択出来るなら、何を措いても三宅島の復興TTレースを観戦に行きたいと思う。また、可能ならオフィシャルな立場で協力したいとも思う。二輪の扱いには不慣れだが、何らかの形で参加できるなら、と思う。
それは、欲張りなレース好き根性の発露として当然だと思っている。自分だけでなく、二輪が好きでレースが好きなら普通に感じる気持ちだろう。しかしそれが、イコールで賛成にならないのは何故か。
レースとは、何なのか、どういうものなのか、について自分なりに考えてみた。
ドライバーもライダーも、レースになってマシンに乗り込めば、レーサーとして全速全開になるのは当然だ。最速でゴールする、それがレースなんだから。ひとたびレースになったなら、そこには、現実が安全かどうかという判断は無いと云っても良い。危険かも知れないが、それでも、自己の最速で限界でレースを走り抜ける事だけが至上の命題なのだから。
そのために、レースを主催するオーガナイザーは、あらゆる危険を排除してレース環境を整える義務がある。オフィシャルは、レースのスタートからゴールまでを、安全に走り切るためのサポートのために配備される。ペナルティを与えるためではなく、危険を排除し、レースの安全を確保するために。
クローズドサーキットでは、出来る限りの配慮がされ、危機回避の努力が払われ、万一のための準備が取られる。走る側も、レギュレーションに応じて万全を尽くし、限界を経験的に探っていく。レースは、決して無謀な冒険などではない。本当に危険だと知っていて走る者はいない。
公道レースの経験が無い私達には、安全も危険も限界も、全てが未知数だ。何処まで安全を確保出来るのか、突発的な危機に、どれほど迅速に対応せねばならないか、課題は多い。見切り発車する事なく、丹念に課題をクリアして乗り越えて欲しいと切実に思う。
海に周囲を阻まれる島嶼に於ける公道レース開催は、地域住民の敢然なる努力と協力に支えられなければ成立しない。さらに、参加する側の真摯な熱意が必要だ。そして、全ての人員の安全が確保されることが前提だ。レースに於ける安全・救急救命体制だけでなく、島と外部の交通手段、宿泊施設やマシンの搬入方法さえ、現時点では不明だ。それでも、開催を期待している、と言いたい気持ちはある。
ただ、それは、ひとの命が懸かることであり、未来の公道レースへの道を開くか閉じるかの試金石にもなるものだから、慎重に為らざるを得ない。開催に関わる側も、レース参加を考える側も、「未来の『公道レース』を担う」という大きな誇りと自覚を持たなければならない、と思う。
その計画が、計画のままで終了してしまうか、または開催に漕ぎつけ成功するか、どちらになるのか、今はまだ判らない。開催するためには何が必要で何が障害なのか、もっと情報が欲しい。

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