2006/3/5
屋久島は、亀の島だと以前から考えて居た。
頭は真北の矢筈岬である。
頭から北には、開門岳の開聞神社・久留米水天宮・大宰府天満宮・宗像大社が真っ直ぐである。
岬で手を北に向けると、手がビリビリする人は多い。
愈々亀の島が発動するのか。映画のネバー・エンデング・ストーリーにも亀の島が動き出す場面がある。
因みに 出雲の佐太神社のスサノオの印しは亀甲紋である。
平成18年3月5日
礒邉自適
2006/3/5
今日は原稿を打った後 田記有子さんより電話があり 昨日の昼間ツタンカーメンが黄金のマスクを着けたまま歩いて来て何かを告げたとの事。
其の後、左右が食い違っていた橋が繋がる映像が映されて来たとの事である。
私もツタンカーメンの事を書いて写真もツタンカーメンを載せたと云ったらビックリして居た。
2006/3/5
最強のウイルス
18・3・5
昨日から、メッセージの最後の部分が、題となって来ている。
結論が、前に出るのだ。
是は、私の意識の所為なのか、霊界の変化なのかが解からない。
昨日の映像は、晴れた空から始まって、最後が、金色の鳥の足が、新雪の上を歩き出す場面だった。
今朝も、初めに「148」と「宮廷」との意味が来て、其の内容を探っていたら、最後に「強力 ウイルス」との意味が出て来た。
今日のメッセージは、一番大事な意味を含んでいると考えられる。
と言うのは、「宮廷」とは「皇帝・天皇」の住まいであるからだ。
それに、「148」とは「石屋」の事で、石工の店構えを意味している。
と言うことは、宮廷は石屋の住まいと言う事になる。
こんな事を、公の場に公表すれば、戦前であれば、直ぐに、天皇陛下への不敬罪で、逮捕される事は明らかである。
だから、太平洋対戦は必要であったとの、矢追日聖氏へのメッセージは正しかったのだ。
戦争に負けて、言論の自由がなければ、私がこうして、毎日のメッセージを書きこむ事など、出来なかったのである。
其れに、代々の天皇の「神霊の思頼・みたまのふゆ」が、天皇家でもない私に起きて、更に昭和天皇の御霊が身罷った其の日に、私の心臓に飛び込んで来たなどと、云えるものでもない。
其れは、天皇陛下の名を利用して、飯を食っている者達にとっては、脅威の出来事に成るからである。
天皇陛下の存在を傘に来て、エゴ丸出しで、権力を行使している者を退治するには、前の大戦は止むを得なかったのである。
話しは前後するが、最後に「最強のウイルス」との言葉の意味に行き着く為には、途中に澤山の情報の山がある。
昨日の、鳥神の話も前提にあるのだ。
其れは、天皇陛下が、真実の鳥居の門を潜り、太陽の神官の証明である「杖」を受け取らなければ成らない理である。
其れが、大嘗祭の儀式の本当の意味なのである。
其の杖とは、握る所が鳥の形で、棒には陰陽の二匹の蛇が巻き付いていなければならない。
何故ならば、其れをバラして組んであるのが、鳥居だからである。其の、鳥居の意味を理解していない者は、「スメラのミコト・天皇・大君」には成れないのである。
其れは、昨日のマヤ文明にも伝えられている。─引用開始─
「ケツァルコアトル」とは、トルテカ族の言葉で羽蛇(ケツァル=尾が長く美しいカザリキヌバネドリ:コアトル=蛇)を意味し、有翼竜とも呼ばれる蛇の姿をした鳥である。トルテカ族と」アステカ族が属するナワトル語圏では、鳥は太陽の光と眼前の空間の象徴であった。テオティワ力ンでは、ケツァルは昇る朝日のシンボルであり、蛇は大地のシンボルである。
貝と関連しており、その星は金星である。ペルーやナスカでは、太陽神や鳥の姿の神が、蛇のような光線の後光で飾られていた。」
─引用終了─ ウィキペディア辞典 現在記載
とある様に、鳥と蛇は、人間の意識の深い処に関連を持っているのである。
太陽と・鳥と・蛇・其れは、エジプトでも王の守護神として活躍している。
有名なツタンカーメン(BC1347〜1338)のマスクにも、聖蛇が額に着いているし、太陽の船に乗るイシス女神も、頭に太陽の鏡を着け、羽根が着いた女神である。
さらに、舳先に立つ「イビス・Ebisu・恵比寿」も、鴇・ときの頭を持つ鳥神である。
日本の祭りに登場する「お神輿」も、大事なのは鳥であるし、ヒンドゥー教もカルラやガルダが神を運ぶ霊長である。
それらの謎が解けて、初めて、猫科の動物の存在の謎が解けて来るのだ。
マヤ文明でも、ジャガーが智恵を司り、エジプトでも王はライオンの化身であり、日本でも鳥居の門番は高麗獅子である。
中国では白虎で、沖縄では屋根の上のシーサーで、南米のアマゾンでも虎は魂の守護神と成っている。日本の招き猫の黒猫は、マヤ文明のジャガーのマスコット的存在だろう。
上記の二つの世界は、「昼と夜」「天照界と調読界」を意味している様である。
太陽の光りが存在して、視覚的に捉えられる世界が「天照界」で、宇宙の情報を身体の機能で感じ取るのが「調読界」である。
其の一番深い処に、蛇の機能が存在するのだ。
アステカのカレンダーの絵には、中心に太陽神が在り、口から長い舌を出していて、其の舌の中心には、カゴメのマークが在る。
其れは、音で言えば「あ・阿」である。
其れは、蛇の感覚に繋がる物である。
蛇の目は、光りの映像ではなく「赤外線」の熱センサーで、相手を見ながら舌を出して、舌のセンサーで匂いを嗅いで、其の相手が何物なのかの判断を下しているのである。
蛇は、熱センサー目で熱源の大きさを計測し、空気の中から、相手の匂い情報を捉えて、判断しているのだ。
其れが、人間の古代資質の脳にも生き残っているのである。
だから、「選」の字を「えらぶ・古代語で蛇」に当てているのだ。
人間の脳も、基本的な古皮質の処は、蛇の脳と変わらないのである。
店の看板や、雑誌などの評論家の言葉に騙されないで、自分の舌の感覚で、味を確かめられれば、一人前の人間である。
味とは、「ア・ジ」で舌の真ん中に「あ」が在り、それを「甘い・アマ(イ・ミ)」と言う。
更に、舌の奥に行くと「う」が在り、「旨い・ウマ(イ・ミ)」のセンサーが有る。
其れに、渋い・からい・苦いとのセンサーが付いていて、食べたい物かどうかを判断しているのだ。其れが「エラブ・選択」の基本である。
処が人間は、鼻の匂いを嗅ぐセンサーが、言葉をしゃべる為に、喉の機能が変化した為に、味と匂いを感じ取る機能が分離して、本来の情報を得られなく成ったのである。
しかし風邪を引いた時に、物の味が解からなく成るのは、脳の中では、今でも其の機能は、一体化した侭だからだ。
其の為に、新蕎麦の香りを楽しむ時は、大きく息を吸い込んで、鼻のセンサーに香りを送るのである。
其の理屈を、外人には説明しないと、日本人が何故、蕎麦を食べる時、大きな音を立てるのかは、理解出来ないだろう
私の師は、私が食事をする時の顔を観ていて、台所の奥さんに「今日の味付けは良いよ。」と云っていた。
其の理由は、私が食べ物の味に因って、顔の表情が変わるかららしい。其れは、美味いか・不味いかの判断が、正しく私の表情に、現われていたからだろう。
無庵師匠は、「食べ物の味が判らない人は 頭も悪い。」と云っていた。
其れは、人間にとって一番大事な本能である食欲の、食べ物の味が判断出来ない脳味噌では、何事の判断分析も、出来ない理を説明しているのだ。
私の実家では、晩飯を度々父親が作っていた。
だから私も、男性が台所に立つ事には、何等抵抗が無いので、今でも自分で材料を決めて作っている。其れが、一番脳の機能を退化させない秘訣なのだ。
現代の、若者の判断力の無さは、何でも科学調味料が入っている味と、材料の判断見分けが出来ないカレーを、何時も食べているからである。
カレーは本来、60種くらい有る香辛料を、自分の身体の調子に合わせて、混ぜ合わせて作る物である。
自分で組み合わせて作っていれば、他人の作ったカレーを食べても、何と何が混ざっているか分析が出来るのだ。
其の、舌での分析体験の繰り返しが、脳を鍛えているのである。
一事が万事で、一つの物事が理解出来れば、全ての理解が出来るのである。
其れが、蛇が智恵の神とされる所以である。
蛇をペットにして、檻の中に入れて飼っている人間は、其の蛇の悲しさも解らないのだ。
正常な判断を、出来る人間が居なく成った世の中だからこそ、スメラのミコトとしての、天皇の役割は大事である。
新嘗祭とは、字の如く、新しい米を嘗める儀式である。
其れが、正しく機能しない限り、此の国には未来は無い。
将来天皇陛下に成るべき人間が、「妻の人格が」と、公の場で物申すとは、自覚が足りないと云えるだろう。
宮内庁も、神社庁もしっかりして貰わなければならない。大本が腐ってしまってからでは、教育も糸瓜・へちまも無いのである。
天皇家を本来の形に戻して、政府とは分離し、国民の為に「詔・みことのり」をして貰わなければ成らないのだ。
生活費を、与党から貰っていて、何の詔が言えようか。
今一度、大嘗祭で、太陽の化身としての、鳥と、蛇の機能を、取り戻して欲しいものである。
其れが復活しない限り、ジャガーも白虎も活躍の場が無いのだ。
今朝は、全ての聖獣の代弁者として、PCのキイボードを打たされた様である。是で「宮廷」の在り様が見直されれば、148の役目も果たせるのだがどうであろうか。
私は、石上物部としての役割は果たして来た。
後は、天津族の血筋の復活を望むだけである。
私の此の文章が、世界のインターネットに流されれば、最強のウイルスとして働き、世界には、新しい情報が組み込まれるのだが、私が22年前に回した時間軸の針は、其処まで回っているのだろか。
今朝は、「148」か「宮廷」の意味が最初に有ったが、最後に来た「ウイルス」を題にした。
昨日の題も、同じにするなら「金色の鳥の足」とすべきだったのだろう。
私の脳の中に、思考の蛇が、自分の尾を口で咥えて、輪と成って回り始めた様な気がする。
平成18年3月5日
礒邉自適
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