2006/3/7
彌勒(みろく)
18・3・7
今日は、「息合う」と「わたしは拡がる」の文章を書いてから、昼食に行って事務所に帰って来たら、「りんごさん」よりメールが届いていて、私の文章を引用したとの断りが有った。
私が、其の引用された文章を見ると、みいつHPの、2006年1月4日の「苞活電気」の【弥勒菩薩の「弥勒」とは、皮で出来た牛馬のくつわを右左に引いて、方向を変えるの意味である。其の点に於いても、今朝の映像は意味あるものであった。「弥勒」の漢字の意味は「広げ進めることの向きを変える」ということである。】の 箇所である。
「苞活電気」http://star.ap.teacup.com/170606/712.html
其れを見て、今日の「中山博さん」の「わたしは、ヒロガリマス」の言葉が、弥勒菩薩に関係が有るのではないかと想えて来た。
其処へ、「大山高則氏」が来たので、中山博さんの絵を見せて、「大地が割れて 翡翠のエネルギーが噴出して来ている。」と説明したら、大山氏が「これは 法華経で言う処の 地涌の菩薩の 出現の図である。」と謂うのである。
それに「彌勒」の「彌」の漢字は、「弓+日+爾(弓+太陽+華やかに咲き誇る花)」の組み合わせで出来ており、時間的にも空間的にも、伸びやかに満ち渡るの意味をあらわす。と有り、中山博さんが、梅と桜の花の名を書いて有る処にも、意味が通じる。
早速インターネットで法華経涌出品を検索すると、或る方の文章が有ったので取り敢えず参考にする事にした。
─引用開始─
「この娑婆世界には、私が教化した無数の菩薩がいて、彼らもまた無数の弟子をもっています。彼らが教えを説くでしょうから」と返します。そういい終わると同時に大地が裂けて億万の金色に身体を輝かせた菩薩たちが涌き出てきて空中の大塔に座っておられる釈迦と多宝如来のそ傍へ行き右まわりに三度まわって合掌し、深々と礼をします。なんとも大人数の菩薩たちでしたので、彼らすべてがこの礼拝を終えるのに50小劫という長い年月がかかったのですが、いならぶ弟子や信者たちには半日のように思えたとあります。彼らは大地から湧出したということから地涌(じゆ)の菩薩と呼ばれています。ついで、彼らのリーダー格の4人の菩薩(上行=じょうぎよう、無辺行=むへんぎょう、浄行=じょうぎょう、安立行=あんりゅうぎょう)が仏陀の前に進み出て代表して挨拶をします。みんな何がなんだか解からずただ目をぱちくりするばかりです。そこで弥勒菩薩がたまりかねて質問します。「長い間私はあなたに仕えてきましたが、こんな大勢の神通力を持ちすばらしい智慧をもった菩薩さまに一度も出会ったことがありません。一体彼らはどこに住んでいて、どうしてここにお出ましになったのでしょうか」と。
すると仏陀は「彼らは、私が娑婆世界で悟りを開いてから教化したもので、彼らこそが私の本来の弟子であり、法の子なのだよ」と答えます。そして「彼らは娑婆世界のアングラである虚空に住んで、つねに仏の智慧を求めて修行をつんでいます」と言うのです。彼らが本来の弟子なら釈迦の前に居て仏になる保証(=授記)を与えられた私たちは一体何なのか?という伏線がここにはあるように思えます。現実離脱こそが悟りと考え出家を目指す目の前の弟子たちに、現実世界の五濁にまみれながら修行するもの、すなわち在家こそが私の真実の弟子だよといっているようにも感じられます。
弥勒はますますわからなくなって「あなたが王の地位を捨てて出家し修行を重ね仏陀になられてからまだ40年あまりしか経っていません。なのにどうしてこんなに大勢の弟子たちを育てることができたのでしょうか。つじつまが合いません。あなたのおっしゃることは25歳の青年が白髪のおじいさんを指して私の子ですといい老人もまた、この青年こそが私の父ですと言うようなもので到底信じることができません。どうぞ後の世の人々のためにも納得がいく説明をしてください」と問いかけます。この答えが次の如来寿量品第十六で展開されます。後世、蓮のイメージとして定着した「世間の法に染まざること、蓮華の水に在るがごとし」という言葉もこの涌出品の最後の偈(げ)に出てきます。
法華経本門の冒頭の章に当たる涌出品は「仏陀論・仏身論」のところでのべたように釈迦がいよいよ生身の人間から過去から未来の果てまでも貫いて存在する久遠仏のイメージに自らを重ねていくイントロ部分にあたりますので法華経にとってもとても重要な章と考えられます。どうぞ機会があれば解説ではなく本文にも接してみてください。
「きのこ地蔵」http://www.palfan.net/archives/2004/12/post_29.html
中山博さんは、法華経の涌出品の出現を、絵にしてあったのだ。
そして、其の菩薩の先頭に立つのが「彌勒菩薩・マイトレイヤー」なのである。
「彌勒菩薩・マイトレイヤー」とは、「有情の菩薩」の意味であり「う」とは有る事で「現・うつつ」の意味も含んでいるので、「うつほ」とは有情の穂が拡がるの意味にも受け取れる。「う」は、漢字のウ冠のウである。
「宀」は、「天幕・屋根」の意味で、「うつつ」は虚空のことでもある。
弘法大師空海の謂う「虚空菩薩」も、一連の働きに参加しているのではないだろうか。
私に、昨日出て来た「意識の鏡」は、生命の根源のエネルギーの証でもあり、法華経の御本尊でもあったのだ。
「わたしは、ヒロガル」とは、彌勒菩薩の「有情・情報」が拡がるとの意味に受け取って、ほぼ間違い無いだろう。
屋久島は、やはり私が感じていた須弥山だったのである。それは、此処のところの一連の中山博さんのメッセージに、現されて来ている。
今日は、私だけではなく、中山博さん・田記有子さん・りんごさん・大山高則さん等五名で、一つのメッセージを紐解いた事に成る。
是が、本当の、地涌の菩薩の出現の実体を示すモノではないだろうか。
2月20日の金星の出現も、其の一端を知らせて来ていたのだ。
平成18年3月7日
礒邉自適
2006/3/7
わたしは拡がります
18・3・7
今朝は、私にも、皇帝の玉・翡翠の星が現れて、「する」との意味が伝えられて来たが、「中山博さん」の筆にも、梅(2月)と桜(三月)の間に、大地の穴からエネルギーが噴出すイメージが届いている。
「珪素・ケイソ・シリコン」は、通常の位置では「石英」として結晶化するが、地圧が掛かる処では「水晶」と成り、更に深い所で高い地圧が掛かると「翡翠・ひすい」に成る。
中山さんの今朝の絵は、翡翠の振動波が、動き出すとの事ではないだろうか。
其れは、地下に籠もったエネルギーが、創造に繋がるとの意味であれば、幸いである。
人間の王・皇帝が、其の力を受け取って、「う」の力として活用しなければ、大地に籠もったエネルギーは、地震の力・エネルギーとして、放出されてしまうのだろう。
阪神大震災は、「平敦盛・たいらのあつもり」の墓を通っていた。
其の事に気付いたのは、地震の数日前から、私の頭の中に、「あつもり あつもり」と、名前が響いていたからである。
だから、其の事から、敦盛の怨念が、地震の引き金に成ったとも考えられるのである。
地球のエネルギーが、人類にとって、災いと成って発生するのは、此の世の「禰宜職・ねぎしょく」の働きが足りないからである。
今朝の「田記さんへ」のメッセージは、皇帝の座である亀が、逆さにヒックリ返っていたそうである。
亀は、皇帝の住む都の意味でもある。
平和な時期は、亀の形に造られた都に、龍が巻き着いて守護をするのである。其れが、皇帝の住む都の守護神「玄武・げんぶ」である。
其の龍が、都から離れてしまい、亀が背中を下にしてヒックリ返っていると言う事は、何処かの都か、政権がヒックリ返るとの事ではないだろうか。
三人のメッセージを合わせると、新しき玉座が発動する為に、古い都がヒックリ返されるとの意味が、伝えられて来たのかも知れない。
昨日の十訓には、女神と、嘆きの壁と、神の復活を足すと、13の数に成る。13の数字は、聖書では大事な数である。
モーセが、神との契約の石版を持って山から降りて来た時に、金の牛像を神として拝んで居た人達は、大地が裂けて飲み込まれてしまったそうである。
昨日から、新しい人間の暮らし方が、示されて来ている。
其の、新しい世界を創る為に動く人達には、神のエネルギーが与えられるが、意識を入れ替えない人達は、大地に飲み込まれてしまうとの事ではないだろうか。
今朝、出て来た「る」を「う」に繋ぐと「うる・得る・有る」と成る。
神の力を、神の為に使う者こそ、天使と言う事になるだろう。
自分自身が、天明を果たすべき時節・ときが、来たと言う事ではないだろうか。
総てを得る為には、エゴを全て、捨て去らなくては成らないのだ。
10日まで残り3日
平成18年3月7日
礒邉自適
2006/3/7
息合う
18・3・7
今日で、「結論」が題・テーマと成るのは、三日目である。
意識の構造が、変わったのだろうか。
スカイプの無料電話で、直接五名が会話をする様に成ったので、結論が一夜で出るからかも知れない。
電磁波と、人間の脳の仕組みの謎が解ければ、人間の意識とアカシックレコードの関係性も、科学的に解明されて来るのではないだろうか。
今朝は、暗い宇宙の中に「ス」の音だけの感覚があり、意識が研ぎ覚まされて、静かに澄み切っている感覚で、認識が始まった。
それは、音も文字も言葉も伴わない、唯 純粋に「ス」の音霊だけが、時間の中を滑って行くだけの感覚である。
それは、今迄に体験した事のない、至高の意識の高みである。
おそらく、其れは、老子の恍惚の世界も、釈迦牟尼佛のダルマの意識も超えた世界なのであろう。
何も無い、其の世界が、究極の世界であり、其れが「ス・主・素」の音の世界なのだ。此の世界に還る為に、人は祈りを繰り返すのであろう。
今朝は、其の世界に、鈍く光る、翡翠の星が一個だけ現れた。
中国で、何故、皇帝が翡翠を「玉・ギョク」として、一番大事にするのかが、今朝解かって来た。
其れは、人間の意識の最奥部に「ス」の世界が存在し、其の中心核が、碧の翡翠なのだ。
是で、漸く「御稜威・みいつ」の核心が視え、「グリーン・クラブ」の意味も、理解出来て来た。其れは、スの音に全ての秘密が在ったのだ。
「ス」の音は、「スー 」と息を吐き続けなければ音も出ないし、「スーとする」との感情も生じない。
「スー 」とは、息を吸うことではなく、息を吐くことなのである。
人間は、息を吐くことで、自然に、息を吸う事に成るのだ。
そして、息を吐き出す時に、「神・意識」も「力・筋肉エネルギー」も、取り込まれて来るのである。
息を深く吸おうと想えば、全ての息を、全て一回吐き出さなければ成らないのだ。
何かの想いや、物質の管理に追われて居れば、自然に呼吸は浅くなる。
そして、呼吸が浅い者は、神のはたらきとエネルギーを頂けなく成るのだ。
だから、「浅智恵」との言葉も生まれたのであろう。
深い呼吸をして居る者は、神の意識を取り込んでいるので、思考が深く成り、宇宙のシステムと同調しているので、失敗が少ないのである。
「ス」の音は、鳥が塒・ねぐらに帰る「巣」でもあるし、調味料の「酢」でもある。
「酢」は澱粉(炭水化物)が糖に変わり、酒に変わり、最後に酢に成るので、酸は最後の形態なのである。
人間の意識も、「祈り・帰命・ナーム・ヨーガ・リリジョン・religion」に成功すれば、其の「ス」の音の処に帰り着くのである。
皇帝とは、一番先に進んだ人のカタチではなく、一番「元・素・本・基」に還り着いた姿で、天帝と表裏一体と成った姿なのである。
「瞼・眼蓋」を閉じれば、天帝の目と成り、瞼を開けば「皇帝・スメミマ」の目なのである。
其の間に、存在する物質が翡翠・碧なのである。
今朝は、翡翠の星が現れたら「る」の文字が大きく出た。
其の「る」を、「ス」の世界に嵌めると「する」に成り、「行為」の意味と成る。
「翡翠・碧」は、皇帝の印しだから、私に、玉を与えるから行為を始めろか、天帝が行為を始めるかの、どちらかだろう。
今朝は、其れらの理・ことが理解されたら、「いきあう」との言葉が示されて来た。
「いきあう」とは、「行き合う」との言葉もあるが、今朝のメッセージの内容からすれば、「息が合う・呼吸が合う」の意味ではないだろうか。
それなら、何者と、息が合っていると言うのだろうか。
神霊達と呼吸が合っているのか、それとも、現実世界の人達と、息が合っているとの事だろうか。
現在の、人間関係を見れば、現実社会の関係も、神のメッセージとの関係も、巧く回転し始めている。
昨日の意識の、立ち鏡の上には、アンテナが三本立っていた。
其れを、神のメッセージを受け取る人間三名とすれば、「Yさん」が受け手で、「中山さん」が発信の役割と成るだろう。
私は、其の芯に立って、解釈をしている事に成る。
其れは、仏陀の説法印のカタチである。
私が、22年前に受け取った内容を、何も話さないのに、中山博氏は次々に絵や言葉に表して来るし、「Yさん」は、私と同じく、現在の宇宙情報の内容を受け取っている。
其れは、男性の受信方法と、女性の受信方法の違いを、理解させるモノがある。是で、男女の生理機能の差や、脳細胞や、遺伝子の仕組みが、明らかにされるかも知れない。
これ等の動きが、「いきあう」との意味だろうか。それとも、是から、誰かに「行き合う」との事だろうか。・・・・・・
「違うでしょう。参加する者達、全てのイキが合うとの理ですよ。其れは森羅万象が総て、同じ「イキ」の内に在ると言うことですよ。」「未だ、補佐が必要の様ですね・・・」
「あなたは誰ですか ? 」 若しかして、「スさのお」の奥さんかな。
それなら須佐之男が、何故イザナギ(時間軸)の鼻(呼吸)から生じたのか、理解出来るのですが・・・。
平成18年3月7日
礒邉自適
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